よかった、よかった、彦四郎は同じことを幾度も繰返して、また駕で帰って行った。小吉は何んだか、狐につままれたような気持がした。後で頂戴した袱紗を開けて見たら小判五両であった。
「妙だねえお信」
「はい、でも兄上様にあんなに喜んでいたゞいて、こんなうれしい事は御座いませぬ」
「兄上も、とんと涙もろくなったねえ」
「はい」
彦四郎が、厠から出て、俄かに中風を発し、廊下で打倒れてそのまゝからだが不随だという急使が来たのは、次の早朝であった。
小吉は色をかえて飛んで行った。
父の平蔵が深々とした立派な夜具に埋もれて寝ていたあのよく庭の見える座敷に、彦四郎が、まるで平蔵の時を写したような豊かな拵えで小女二人を枕元に置いて臥ていたのへ、小吉が
「如何なされました」
といったが、彦四郎は唯、にっこりと笑ってじっと小吉の顔を見ただけであった。その笑顔がゆうべ麟太郎が蘭学に専心するときいて喜びを述べに来たあの時の顔と少しも変らなかった。
やがて新しい年が明けて、岡野の孫一郎が頻りに縁談を騒ぎ立てるが、小吉は余り対手にならない。東間と堀田が、薬研堀の町の師匠のところへ乗込んで行って、きっぱりと手を切らせたのも、米屋の娘の方の片をつけたのも、当の孫一郎は知らないから、夜になると
「米屋の娘が来ないねえ」
と堀田へぶつ/\云った。
「左様でございますな。明日にも行って参りましょうか」
「いや、明日と云わず今夜行ってくれ」
堀田はそのまゝ出て行く。が、行くところは定って東間陳助の家であった。
平川右金吾もだいぶいゝし、喜仙院もこゝにいるし、夜更ける迄いつも話がはずむ。
「しかし、米屋の娘の一件で大川丈助が、一も二もなく承知をしてあれ以来堅く守ってびくともさせないのは、あ奴の事だから一寸、薄気味が悪いな」
と東間がいう。
「いや、あ奴もすっかり勝先生に兜をぬいで終ったのだよ。自分の慾というものが無いのだからあゝいう奴らには先生のような人が一番怖い。それが近頃は丈助もはっきりしたのだ。丈助は狡い奴だからその辺を素早く呑込んだのですよ」
と堀田はすっかり安心している。
「これで岡野家も、後は嫁入の段取りだが、今度は用人は嫁の里から入れると先生がおっしゃる。他人事だが、わたしは今からその用人が気の毒でならんよ」
と堀田は言葉をつゞけてから
「おう、そう/\、東間さん勝先生を喜ばせる事があるよ」
といった。
堀田の語るところによると、不思議な事で堀田は麟太郎の蘭学の先生永井青崖と知り合である。自分からもよく頼む気で勝先生に申すと頭から叱られるから窃かに行って逢ったところ、いやもう坊ちゃまの慧敏は、眼光紙背に徹するという訳で、一を教えれば十を知るとはあの事だといって青崖先生も驚嘆していたという。
「青崖という人はねえ、自ら謙遜で些かも学殖を誇らない人だ。が、背景が何しろ大きいし、先ず日本一だ。坊ちゃまは箕作に断られて却って幸福《しあわせ》をした。大成する人物には常に幸運の星が随《つ》いて廻るものだ。あの人は偉くなるよ」
東間も大きくうなずいて、堪らないうれしそうな顔をした。
岡野家は毎晩そんな訳で孫一郎は、じり/\してその辺の物を庭へ投げつけたり、堀田へがみがみ怒鳴りつけたりするが、こっちでは唯にや/\笑っている。その中に、今度は奥様《おまえさま》に当り出す。
「母上がいつも青い顔をしていられるから、女共が屋敷へ寄りつかなくなるのだ。出て行きなされ。父が柳島であんな最期を遂げるようになったのも元はと云えば、やっぱり母上が悪いからだ。母上、あなたは、岡野家の悪鬼だ」
どしんと奥様《おまえさま》の胸をついた。そうでなくてもお弱い奥様である。座敷へのけ反ると、そのまゝ起きなさらない。
これを堀田が見た。流石に、かっとした。いきなり、孫一郎へ飛びつくと
「何にをなさる、殿様」
と叱りつけるように叫んだ。
「何? 主人に向って、こ奴め」
孫一郎が打ってかゝった。丁度小正月の宵であった。
堀田はその片腕を押さえて、肩へかつぐと、どーんと座敷の真ん中へ、力一ぱいで叩きつけた。
孫一郎は、ぐうーっと不思議な声を出してそのまゝ、眼をむいて手足を突っ張って動かなくなって終った。
投げつけたはいゝが驚いたのは堀田である。奥様が倒れている。殿様が倒れている。行灯の灯で、その有様は気味悪い。
夢中になって、庭木戸から跣足で小吉の屋敷へのめり込んで行った。土のような顔色である。
「おゝ、びっくりさせやがる、何あんだこ奴《やつ》」
小吉は、炬燵へ膝を入れ、お信と向い合いでお順をあやしているところであった。
「先生、大変なのですよ」
堀田は早口でいった。
「ふン、お前また殿様と口論でもしたか」
「こ、こ、口論どころではないんです。早く来ていたゞかなくては奥様も殿様も死にます」
小吉が来た時は、すでに奥様は息を吹返して孫一郎を膝に抱きかゝえ頻りに介抱していられた。小吉の顔を見ると洪水が堰《せき》を切ったようにわッと泣いた。
「用人に投飛ばされて気を失うなんぞは、誠に困った千五百石だ。奥様、殿様は、もう五体の骨がとろ/\に溶けていやんすね」
と云い乍ら、奥様の膝から孫一郎を引きとって、ぐッと活を入れる。孫一郎はうーんと呼吸を吹返した。
「殿様、侍は恥を知らなくちゃあなりませんね。いや、人の道を知らなくては、神も仏も許しませんよ」
孫一郎は、たゞ、きょとんとして、少し青みがかった瞳で小吉を見詰めていた。その顔がやっぱり死んだ江雪に似たところがある。
小吉が屋敷へ帰る時に堀田をつれて来た。
「馬鹿奴、殿様を投げたら用人を首にするとでも思いやがったのか。主人を投げるなどは不届千万、その科《とが》でお前、まだ当分、あすこの用人だ」
そう云われて、堀田は首を縮めた。
天保十一年六月廿八日。
朝から雲が低く江戸中が釜の中にいるように蒸暑かった。霧のような靄のようなものが一ぱいに立罩めて、亀沢町の角、松平左衛門の下屋敷の塀から往来へ延びて出ている夾竹桃の花が、すぐ側へ行ってもぼんやりと霞むように見えている。
|八つ刻《ひるにじ》、燕斎男谷彦四郎は、この暑さの中で死んで行った。行年六十四歳。前夜、小吉の顔を見て、またいつものようににこっと笑ったのが最後であった。
小吉三十九歳。麟太郎十八歳。男谷精一郎三十一歳。
秋になって夜毎に月が明るい。
昼は晴れた日がつゞいて、青空の美しさが、いつも輝やくようであった。
麟太郎は、今日も黒田邸内の永井青崖の屋敷の一室に机の前にきっちり坐って、頻りに蘭学を習っている。黒田家中の門人拾人が、一生懸命だ。みんな麟太郎よりは年上で、中には子供の二人三人あるような年配の人もいる。障子を開けた縁側から涼しいというよりはもう少し冷めたい位の爽やかな綺麗な風が流れて来る。
誰か客が来て、先生の御新造様《ごしんさん》が静かに応対しているような声がした。その御新造が正面に坐っている先生へ
「都甲《つこう》先生がお見えでございます」
といった。青崖は、おゝと云って立ちかけたが、立つ迄もなくそこへ無遠慮につか/\入って来た者がある。すっとした何んとなく鶴のような感じの老人で、もう六十はとっくに越しただろう。真っ白い油気のない総髪を無造作にうしろに垂らしていた。大きな声で
「おゝやってるな。みんな顔が生々している。学問程楽しいものはないからね」
といって、青崖の傍へどっかと坐った。青崖はにこ/\して、丁寧に応対しているし他の門人達もすでに知っているらしく一斉に目礼した。麟太郎だけは、初めて見る人で、心の中で傍若無人だなあと思って、顔を見上げていた。
老人もじろりと麟太郎を見返した。青崖は、すかさず、御家人勝麟太郎と申します、甚だ執心《しゆうしん》の者ですから今後よろしくというような事をいった。
老人はふと、首をふった。
「おい、お前さん、ちょいとこっちへお出で。不思議な人相だよ」
「はっ/\/\! 勝さん、見せておやりなさい。この人は人相を見るのが病気だ」
しかし、麟太郎は、黙って、老人を見詰めているだけで動こうともしなかった。老人はつかつかと傍へ行った。
「おれは馬医者だ。だが馬の面ばかり見ていても面白くねえから、近頃は人間の面も見るが、人間は馬よりは余っ程詰らねえ面だよ——ほう、お前さん、若けえが出来てるね。剣術は余っ程やったね」
「未熟でございます」
「師匠は誰だえ」
「島田虎之助先生でございます」
麟太郎は、この老人がぐん/\ぐん/\自分の胸へ迫って来る不思議な圧力というようなものを感じて、気持の中で、逆らう事が出来なくなって来ている。
「お前さんは妙だね。左の眼の瞳が重なっているよ、その上、その光り方が唯じゃあねえ」
といって、ごくりと息をして
「青崖先生、この人はね、他日その志を得ば必ず天下を乱さん、然らずして自ら騒乱の世に逢わば国家の大事に任ずるという世に二つとはない相貌だ。大そうな者が弟子入をしたよ」
「そうですかなあ」
と青崖は別に真面目にもきいていなかったが
「勝君、そのつもりで一生懸命おやりなさい」
といった。老人はまた麟太郎へ
「どうだ、お前さん、以前にも誰かに同じ事を云われたろう」
「いゝえ別に」
麟太郎は、そう云った。しかし確かに云われた事がある。父小吉の友人にもう死んだがやっぱり本所《ところ》の売卜者で関川讃岐といういつも酒に酔っている相撲取のような大きなからだの人があった。これが麟太郎の顔を見る度に、今、老人の云ったのと同じ事をしかも文句まで全く同じにくどくどとしゃべったのを覚えている。
「自ら騒乱の世に逢わば国家の大事に任ずべし」
あの尻上りの関川の言葉がまだ耳の底にこびりついているのである。
「おれはね、麻布の狸穴にいるよ。遊びにお出で」
老人はそういって、御新造に案内されてはじめて奥へ入って行った。
麟太郎は、後で、机を並べている人達へ、あれは誰方《どなた》様ですかと訊いた。年かさの一人が笑いながら
「とう/\勝さんも、あの先生の肴にされたな。あれは元公儀の御馬役を勤めたお方で、都甲市郎左衛門とおっしゃる。蘭学は大先輩でね。深さの底が知れないと、こちらの先生もいつもおっしゃるんだ。馬脾風《ばひふう》、石淋などという馬の病気は何千何万両を投じた名馬でも忽ちにして悶死した。それをあの都甲先生が蘭書によって馬医の学を研究し、これを訳もなく癒して終われるので、一時は、公儀の御役ばかりでなく諸侯に招かれて飛ぶ鳥を落したものだよ」
という。
もう一人が
「それがいつの世にもある奴で同役の小輩どもが嫉妬して、挙って先生の邪魔をする。第一どうして蘭書によってそれを研究したかというと、公儀御文庫の御蔵書おむしぼしの時に盗み読みをしたという事がわかって、馬鹿々々しいが、お許しもなく、左様な事をしたのは怪しからんという事でね、これが問題になると、先生は、怪しからんかね、へえ、そうかねといって直ぐにお役を退いて、狸穴へ閉籠って終ったのさ。滅多に人には逢わない。諸藩からの招きがあるが行かない。尤も御馬役の時に数え切れん程にうんとお金を貯えたという事でね。我儘にもう好きな事をして思う儘の日を送っていられる様子だよ。尤も蘭書の翻訳は一日も欠かされんそうだが——」
こんな話をしているところへ、都甲老人が、お酒に酔って真っ紅な顔をしてふら/\とまた出て来た。
「おい、勝といったね。きっと狸穴へ遊びにお出で——ところでえーっと。お前さん、だいぶ怒りっぽいようだね、さっきの目つきがそれだった。え、腹を立ててはいけねえよ。いゝか、え、風が右から吹いたら左へなびく、左から吹いたら右へなびく、唯根だけはぴったりと大地へ据えて、ぴくりとも動かねえ事だよ。いゝかえ、対手に何にか云われて腹を立てる事はそれでもう対手に負けた事だよ。どんな事でも、ふむ/\、そうか/\と云って居れるようになれあ、人間一人前だよ。くどくいうが、お前さんは、騒乱の世に逢わば国家の大事に任ずる人だ。富士の山を御覧な。嵐が来、雲が来て、全山を掩いかくして、これが行きすぎれば山は元の美しい姿のままで、小揺ぎもしていない。勝さん、頼むよ」
御新造が、出て来て小脇をとり
「さ、先生、あちらへ/\」
「有難う。御造作をかけますねえ。が、おれはこの勝という青年が妙に気にかゝってね。おれはもう六十を越えた、この青年の騒乱の世に任ずる男ぶりを見ずに死ななくてはならんかと思うと、急に、年をとったのが口惜しくなりました」
都甲老人はまたへた/\と麟太郎の前へ倒れるように坐って
「頼むよ」
といって、しっかりと麟太郎の手をとった。