亀沢町へ寄った時はもうとっぷりと日が暮れていた。団野先生はすでに今日の試合の様子を誰からか聞いていて
「秋山は見事だったそうだな」
といった。
「は?」
「はっはっは。勝負は誰にもわかるが、試合はなか/\わからぬものだ。おのしももう一修行というところだったであろう」
わからない、思わず小首をふって、唯、まじ/\と先生を見ていた。
「酒井良佑も、これで本当の眼が開く」
そういったきり、先生も何にもいわなかった。
小吉が油堀へかえって来たのは|四つ《じゆうじ》すぎで、実父の居間の前庭の隅をそうーっと通ってそのまま自分の離れへ行こうとしたら、思いがけなく麻布|狸穴《まみあな》の長兄の彦四郎が来ていて、障子を開け放して頻りに父と碁を打っている。少し蒸暑かったが、星が一ぱいであった。
彦四郎は兄といっても、小吉とは二十四も年が違う。名は思孝、号を燕斎。すでに一かどの儒者《がくしや》で、十四年前表|右筆《ゆうひつ》の時に「寛政家譜重修」を完遂し、更に小吉が僅か五つの文化三年には、「藩翰譜続講」の撰をしている。この時は信州の代官で支配地へ出張《でばり》以外は神田の郡代屋敷に日勤しているが、二箇月前から信濃へ行っていたのである。
碁盤から目をはなして
「小吉、参れ」
といった。
「久方で江戸へ戻り、先程、父上よりお前が事は万端うかゞった。とにかく話がある、参れ」
眉が太く大きな眼で、鬢には目立って白髪があった。
父の平蔵はにや/\笑って
「兄は武士と生れて御番入の望みを断つなどとは奇ッ怪千万だといっているよ。お前、また日の出ぬ中に御支配屋敷まで駈けなくてはならんかなあ」
彦四郎は眉を寄せた。
「父上がそのような甘い事を申されるから小吉奴が碌な事をしないのです。これ小吉、側へ来い」
儒者に似ぬ鋭さと、不思議な冷めたさとが小吉に一とことも物をいわせぬ程に強かった。
しずかに兄の前へ坐った。
「御健勝にいられまして——」
「そうだ、おれは天理に叶った日々を送っている。然れば常に健勝である」
「は」
「然るにお前は何んだ。すでに年老いられた父上に御心配をおかけ申しつゞける許りか、御番入の望みを捨てるなど、以ての外の事。父上が御支配の御無心をお受けなさろうと仰せあるに当のお前が断るという法が世にあるか」
「わたしは」
と小吉がやっと顔を上げるのを押し潰すようにして
「黙れ、わたしはも何にもないわ。一旦|然様《さよう》の始末となった上は、石川殿へ重ねてというも妙だ。あのお方も老年、いつ迄御元気でもあるまいし、近来は御支配も度々変る。暫くの間じっとしておれ。しかし、江戸へは置かんぞ。第一、父上が世上の事にはとんと厳しいにも拘らず、お前にだけは甘過ぎる。何にかというと小吉も一かどの者よなどと仰せられるが、少々位剣術を使うとて、何にが一かどの者だ。剣術などはほんの付足りのものに過ぎぬ」
「いや」
「黙れッ」
彦四郎の声が大きく響いて小吉の顔は真っ赤に上気している。
「十日程したらわしはまた任地の信濃へ帰らなくてはならぬ。その時にお前をつれて行く。陣屋の仕事でも少し見習うも身の為めだ。父上、先程も申した通り御異存はござりませんな」
「それもいゝであろう。何れにしろわしは隠居。男谷家の当主はそなたじゃ、思うようにするが宜しかろう——はっはっは、小吉よ、兄上の仰せの通りにするがいゝよ」
小吉は顎をひいて坐っている。眼のぐるりとした鼻の高い色の浅黒い面長な顔つきが、如何にも心中むか/\しているらしい表情だが、この長兄彦四郎だけは流石の小吉にも余程の苦手らしかった。
「お前はな」
と彦四郎は胸を突出して、両手をぐッと膝へ置き
「如何に年若だったと云え養家の祖母様《おばゞさま》が鬼のようだといって金子を持出して家を出てあのように伊勢路で乞食までしおった人間だ。石川右近将監殿は、それ位の人間でなくては使いものにならぬと仰せで、一しお御番入の肝煎をなさっていたときいた。今度はその将監殿に煮湯を飲ませた上、この兄をも出抜いて出奔しようなどと思うても、うまくは参らぬぞ。利平治にも申含めた。もし、わしの信濃へ参る前に姿をかくしなどしようものなら、利平治はわしの前で腹を切ると約定したわ」
「利平治が」
「利平治ばかりではない。父上にも責《せめ》の一半を負うていたゞく——」
彦四郎は自分のいっている事に、だん/\自分が引込まれて興奮するような人柄のようだ。刀も朱鞘の長い逞ましいのを傍に置いていた。
信濃へ出発の日は、いよ/\夏らしく、日ざしが眼が痛む程に明るくて、若葉青葉が、風にささやく間を小鳥がすッ/\と飛んでいた。すっかり旅仕度の彦四郎は扇をかざしたり、時々気|急《ぜ》わしくばた/\とふところへ風を入れたりした。
いろんな人達が大勢その夜も彦四郎の泊った油堀の男谷家まで、朝早く見送りに来た。家来小者など一行七人、それに少しばかり元気のない小吉も加わっていた。
養祖母様《おばゞさま》もお信も、男谷家の人達に交って門の外まで送って出る。
「父上」
と彦四郎は平蔵の耳へ口を寄せて
「小吉がところのお信はいくつになりました」
「小吉とは二つ違いじゃから十五よ」
「今度、信濃から帰ったら祝言をしなくてはなりませぬな」
「わしもそう思っていた」
お信は腑眼《ふしめ》勝ちに、小吉の側へ寄って何にか細かな心遣いをしているが、薄着をしたからだつきが、如何にも女らしく、すらりとした綺麗な清らかな姿であった。
彦四郎はつか/\とお信へ寄って行った。
「信濃では、わしが朝夕学問を教え、陣屋の仕事も見習わせて、きっと武家《さむらい》一人前の男にして戻す気だから、淋しかろうが僅かの間、辛抱する事だよ」
「有難うござります」
お信は鄭重に礼をした。
「何しろ父上が小吉にだけはとんと甘くての」
はっはっはっはと、少しわざとらしく笑って
「何れにもせよ、当分江戸を離れさせるが、身の為めだ。わしは、あれに必ず御番入をさせる。それから先きはそなたの内助だぞ」
お信は、若々しい笑靨と共に、いくらか頬をほてらせている。
聞こえていたろう、が小吉は黙って苦笑して彦四郎が行きかけると、お信の前へ顔をよせて
「お前はいつも/\お腹《なか》が弱え故、食物には気をつけるがいゝよ。ゆンべも云ったが心配事は、一人で思いわずらわず、かンまず男谷のお父上のところへ行くがいゝ」
「はい」
「時々は利平治をいたわっておやり」
初夏の信濃路は三日霧雨に打たれたが後はいゝ塩梅にお天気つゞき。彦四郎は馬、小吉はその横へくっついて歩いて行く。
「小吉、御番入をした方がいゝか、生涯小普請で満足か。わかったろう」
「は」
「小普請は、家来をつれ馬へ乗っての往来は出来んぞ」
そういう彦四郎を見上げて、小吉は黙ってくすンと肩を上げて皮肉そうに笑った。
陣屋のある高井郡《たかいのごおり》中野村へ着いた日もやっぱりお天気で、河中島の平原と魚沼高原とのなだらかな峡谷は流石に肌に冷やりとしたものを感じさせた。千曲川に沿った小さな平野が村を包んで静かに日がくれかけていたが、陣屋の下役は固より、村方のものが大勢まるで土下座をするような恰好で迎えていた。
彦四郎はにこりともせず、馬上から
「御苦労であったの」
といっただけだった。
陣屋につゞいて代官の屋敷がある。風呂をたいてでもいるらしい煙が、真っすぐに立登って、大気が澄んでいるせいか、その煙の色も江戸とは違う。
「挨拶は明日受ける。みなに引取って貰え」
下役へいいつけると、彦四郎は小吉などは忘れたように、風呂へ入り、食事を済ませ、若い女どもに介抱されて、そのまゝ床へ入って終った。
小吉も黙って、兄のしたような事を順々にして、さて
「御寝所はこちらでござります」
肥った若い女に案内されたところは、妙に天井の高いひどくがらんとした座敷であった。障子を開けると広い縁側で、小吉はこゝへ出るとどっかりと胡坐をかいた。
この座敷は東を向いている。すぐ近くに一連の丘があって、その彼方は山らしいが、近くでさらさらと水の音がするようだ。小川でもあるのか、庭へ筧でもひいてあるのか。
「お信はどうしている? 今夜もまた倒れる迄|祖母様《おばゞさま》の肩でも揉まされているか」
星が一つ流れたのが、妙にはっきりと見えた。秋のような気がする。風呂上りのほてったからだが冷めたくなって、小吉は床へ入って枕元の行灯を吹消した。
小吉にとっては味も素っけもないような日が、それから毎日々々繰返された。時には陣屋の手代などを対手に、剣術を遣ったりもするが、仮りにも二本ざしの身であるのに、まるで形どころか、竹刀を振廻す事さえ出来ない者が多かった。小吉はいつも舌打をした。
「兄上、ちとひどいではありませぬか」
「何がじゃ」
「武士たるものが、あの始末とは誠に以て驚き入った次第」
「小吉、お前、こゝを何処だと思っている」
彦四郎はまるでからかうような調子であった。
「中野の御代官陣屋です」
「そうだ。その代官というものの仕事は煎じ詰めれば、一粒でも多くの米を御領内より取上げて大公儀へ差出す事だ。わしはな、そういう仕事を仰せつけられてこゝへ来た。手代下役共の剣術などはどうでもいゝのだ」
「しかし」
「いつぞや申した事をもう忘れおったか。剣術などと申すものは、世渡りのほんの付けたりじゃという事を」
小吉はごくり/\と二度ばかり唾をのんだ。それっきりで、兄の顔を見ようともしなかった。
夏が過ぎた。小吉は兄から学問を教わるどころか叱られても/\平気で、毎日、その辺の川や沼へ魚ばかり釣りに行っていた。日が暮れてから帰って来て、食事を済ませ、風呂に入ると、さっさと寝て終う。
秋になった。
代官所は支配内の稲作についての検見《けみ》に忙しい時になった。今日は榊木村の検見をする事に定って、下役の人達がすっかりその手配をして、いざ彦四郎がこゝへ出かけるという事になって、俄かに腹が痛いといい出した。
「大したことはないが、今日はわしは検見には行けぬ。これ、小吉、これもお前の為めだ。わしの代りに行って来い」
「検見にですか。わたしははじめてですから」
といってから、小吉は一段声を張上げて
「何も知りませぬ。間違ってもいゝですか」
といった。
「間違わぬようにやって来るのだ。今日でなくては手順が詰まり、年の内に江戸へかえれぬようなことになるから」
「行っては見ますが間違っても、わたしを叱らんで下さい」
「いゝから出役しろ」
小吉は手代小者大勢のものをつれて悠々と出て行った。
陣屋の門前には、百姓達が肩を並べて土下座をして平伏している。この一行がぞろ/\検見の現場へ案内して行く。
途中で小吉は一人の年とった百姓へそッときいた。
「一番不出来のところは何処だえ、おとっさん」