五助はしかめっ面《つら》を、いっそ弁治へくっつけて行った。
「だ、だ、だからよ、相談してるんじゃあねえか。おれあね、あのお妾のでっぷりとあから顔の旦那と、火消の纏持《まといもち》を対手に、こう」
と急に反身になって
「落着いたもんだったぜ、刀を左手に下げてすうーと立ってね。江戸にはこんな虫けら見たいな者がうよ/\している。それを一々真面目に御対手になさっては、御主人津軽越中守様御用のお手間も欠き、兄ィにしても組の纏《とうばん》の汚れにもなろう、この際小吉にお預け下されば、後々きっと然るべく成敗を致しましょう。といった時のあの小吉さんのお顔が夜も昼も眼先きにちらついてね。ほんとにあの千両役者の一幕を兄貴に見せなかったのが口惜しいよ」
「馬鹿野郎」
と弁治は舌打をして
「同じ事を、これで何度云ったと思いやがる、虫けらにされて喜んでいやがる」
「ああ虫けら結構、げじ/\結構、みゝずだろうがおけらだろうが、おれあ、あの人に云われたのなら腹は立たねえ——と、ところで今の話だ、何んとか男谷彦四郎って奴を|ぐう《ヽヽ》といわせる法はねえか」
「あるもんか」
いわれて五助は、ぷうーっとした時だった。もう雨は小降り、やがてやもうという時に、どかどかと三、四人、餅屋の土間へ新しい客が入って来た。
「あッ……」
弁治の声が確かにした。五助ははっとしてその弁治を見た時は、もう、鉄砲玉の勢いで、姿は縄暖簾の外へ出て、往来を稲妻のように飛んでいた。
「いゝ、いゝ、構うな」
渋い太い声がした。白の小倉の袴をつけた若侍が三人、その中の一人は刀の柄へ手をかけて半分暖簾の外へ頭を出していたが、振返ってこっちへ戻って来た。若侍達の気負っているのを、一人はにや/\笑って
「あんな者を捕えたところで一文にもならぬだろう」
「しかし」
「まあ、いゝ」
どっかと腰を下ろして
「これよ、姐さん、茶を一ぱいくれ」
といった。黒の上布の着流しに突っかけ雪駄。長い刀を静かに傍らへ置いた。左手はこの暑いのに袂から内ぶところへいれたまゝである。
五助は、うつ向き加減で、ちら/\これを見ている。その一人のじろり/\と四辺を見る三白眼の上目遣いが妙に薄気味悪かった。
雨が止んだ。
侍達は餅を喰べると
「あゝ、やんだ/\」
そういい乍ら、往来へ出て行った。
これを向側の金物屋の大きな用水桶の下へ潜るようにくっついて見ていた弁治が、また平気で餅屋へ身軽くかえって来た。
「どうしたんだよ兄貴」
五助は、ほっと息をした。
「ふっふっ、巾着切にふところを浚われる位だから知れた侍だ。あんな片輪。滅多にやられる事あねえが、何しろ腕が立ちゃあがるから油断は出来ねえ。あ奴あな、元割下水の近藤弥之助先生の道場の食客をしていた剣術遣いでな、渡辺兵庫てえ奴だ。誰かに斬られて左の手首のねえ片輪ン坊だよ」
「ほう」
「道場も追ん出され、それからと云うものはあゝして碌でなしの門弟をつれ強請《ゆすり》詐欺《かたり》、ばくち場の用心棒。やっと三度の御飯《おまんま》にありついているてえ噂だ。おう、五助、手前の親分だあな」
「馬鹿にするな」
と、それでも五助は四辺を見廻して
「強請詐欺、物置へ釘付けにされたなんぞは昔の事、今は正真正銘の素っ堅気、虫売、しんこ屋、夜泣蕎麦、たゞ持った兄貴が巾着切たあ、おれも、飛んだ不仕合せな男だよ」
「はっ/\。やりゃがったな」
「そ、そ奴あいゝがさっきの話だ。どうだ彦四郎をやっつける法は」
「あるものか——おれあな聞いた事があるんだ。一ツ目の湯屋《ゆうや》でな、侍らしい人と品のいゝ隠居さんが話していた。小吉さんが、対手の自業自得、過ちとは云い乍ら人を一人殺して座敷牢位ですんだのはあの彦四郎が黄金をばらまき、昼も夜もなく四方八方へ奔走をしたからだよ。そうだろうと、おれは思うんだ。てめえなんぞの、ばた/\する場合じゃあねえや」
それでもこそ/\話をつゞけながら二人は並んでこゝを出て行く。
それから暫く。亀沢町の男谷道場の武者窓から、雨の後ちの焼きつくようなきら/\する陽が射込んで、どちらかと云えば薄昏い道場の床へ細長い銀の板を並べて置いたように見えていた。
若い主、精一郎信友は、奥の一と間で行儀よく膝を正して何にやら古い本を書見台へ置いて、じっとこれを見ているところであった。庭は余り手入をしていないので雑草や庭石の横に糸薄が延びたりしている。これがまた何んとなく涼しかった。
主人より四つも五つも年層《としうえ》らしい門人が鄭重に手をついた。
「先生、是非お手合を願いたいと申しますものが参りました」
精一郎は、眼を書物へ注いだまゝで
「どうぞ」
と静かな顔でいった。膝へおいた手の指がふっくりとして若い女のようである。
精一郎が出て行った時は、門人部屋にいた侍たちが十人もすでに出ていたし、一段高い細い畳を敷いた武者窓下には、さっき幾代餅にいた時とは違って袴をつけた渡辺兵庫が上席に、あの門弟達がみんな肩を立てるようにして並んでいた。
精一郎は、こういう他流試合に対しては、いつも決して門人などは出さず、いきなり自分で手合をする事に定めている。自分と手合をしたいと申しているのに門人を差出すなどは対手に対して礼を失するというのが、この人の持論である。
渡辺兵庫は、唇を目につく程にゆがめて低い声でゆっくりといった。
「当今剣術の麒麟児出づと噂の高い先生が、道具をつけ、竹刀をふるうは如何にもお気だるな事であろう。木剣にてお願い申したい」
そこにいる悉くの人の眼が一斉に精一郎の顔に注いでまたゝきもしなかった。
精一郎は如何にも邪心のない顔をにこりとほころばした。
「男谷は若年でもありその上未熟不鍛錬です。木剣の手合など思いも及ばぬこと。竹刀にて御対手を致しましょう」
露程も動じた様子も無かった。却って渡辺がぐっと呼吸を呑んだ。暫く無言。頬がぴく/\と動いて
「是非木剣に願いたいが」
「迷惑に存じます」
渡辺の門弟達が互に顔を見合せた。
「木剣を拒まれるなら、御門前の直心影流男谷道場の門札を引剥がして参るがよろしいか」
一人の鳶のような鼻をした奴がいった。
「ほう」
と精一郎はやっぱり笑って
「御所望ならどうぞお持ち下さい。新しく作らせても何程の物でもないでしょうから」
「なに?」
また一人のでっぷりとした奴が
「先生のお父上は分限者越後水原の代官男谷彦四郎殿と承知するが」
そういった。
「如何にも父は彦四郎。分限者かどうかわたしは知りませんが、それとわたしの剣術とは何のかかわりもないでしょう」
「さて/\」
とまた別の一人が如何にも、物わかりの悪い奴だというように、ちぇッ/\と二、三度もつゞけて舌打をして
「竹刀でもいゝでしょう、先生、思い知らせてやって下さい」
さっきの鳶鼻がそういうと、渡辺は、苦笑した。
その渡辺は突然
「帰ろう」
といった。
「え?」
「帰るのだ」
もう立ちかけた。しかし門弟達は黙って承知はしなかった。がや/\がや/\騒ぎ立てている中に渡辺はもう道場を出ようとしている。精一郎は唯笑っている。
渡辺達が門前へ出て来た。門弟は如何にも不服で
「先生、どうしたのだ」
と口々にいう。
「やってもおれは勝てない」
「何あにあんな若造を先生が——今日は先生はどうかしている」
「男谷精一郎は立派なものだ。将来必らず天下随一となる」
「将来はどうか知らんが、今ですよ、唯今やっつけて金にするのが、最初からの目的ではありませんか」
「やるなら、お前らでやれ、おれは嫌やだ」
渡辺はぐん/\歩いて行く。これ迄荒した方々の小道場の主は、木剣でと一と言いっただけで、いくらかの金を包んで謝って終ったし、ちょいとした道場の多少名の知れた人でも十人の中九人迄が、一応は木刀結構と肩を張った。未熟だから竹刀でなどというものは一人もいなかった。それをまだ二十歳をそこ/\の精一郎が、平気でこういっている。
「このまゝ帰ったのでは、今夜の酒の代《しろ》がないではありませんか」
「水でも飲んで置く事だ」
こう渡辺にいわれても門弟達は承知が出来ない。だん/\無茶苦茶に腹が立って来て、さっきの鳶鼻が、眼の前にある道場門札に手をかけて、今、正に引剥がそうとした。
丁度、こゝへ、ぶらりと入って来たのは勝小吉である。いきなり、その利腕をぐっとつかんで
「何にをするのだえ」
「え?」
「おう、あなたは」
と小吉は渡辺を見つけて、
「いつぞや、団子坂の太田家で秋山要介、酒井良佑両先生の——」
と声をかけたが、渡辺は知らぬ顔でそっぽを向いていた。
「あの時、今日の秋山は昨日の秋山に非ずと、人生の妙諦をわたしに教えてくれた。が、巷で度度噂にきくが、昨日の渡辺兵庫、今日の渡辺兵庫に非ずなようですね」
「な、な、何んだと」
門弟達がみんな刀の柄へ手をかけて、摺り足でじり/\と小吉へ寄って来た。
「馬鹿奴が——やる気かッ。こゝの主の男谷先生はな、お前らのような破落戸《ごろつき》剣術屋を対手にするような人ではない。お前らの対手にはおれ位の奴が丁度いゝかも知れない」
小吉はにや/\そういってから
「渡辺先生、こっちから所望する。一手御教授をいたゞきたいですね。本所深川ところの道場で、のっけから木剣勝負とやっつけられ、だいぶあなたらに金をとられた者があるというが、小吉なら骨が舎利になっても差しさわりのないからだだ。一つ、木剣でお願いしましょう」
渡辺も事こゝに及んではこのまゝ帰れない。その当人よりもごろつき門弟達が息巻いて、やがて小吉が先きに立って、道場の内へ戻って来た。
精一郎は如何にも迷惑な事が出来て終ったというような顔つきだが、対手が小吉では仕方がない。じっと師範の席に坐ったまゝ見ていた。
この直心影流の竹刀は三尺三寸、従って木剣もその通り。小吉はこゝの門人達に命じてそれを受取り、また渡辺にも渡した。
「あの時、同じ直心影の酒井先生を大したものではないような仰せでしたが、その後お逢いになりましたか」
渡辺は黙っている。しかしその無言の間に手首のない不自由から自分の門弟達に手伝わせて、たすきをかけ鉢巻をして、袴の股立を高く、木剣を持って道場の片側に立った。
小吉もこれに対した。木剣は固より真剣と同じだ。が渡辺は少し唇をけいれんさせているが小吉は別に変った様子もなかった。渡辺は相変らず、左の片腕は内ふところのまゝ、片手で木剣をさっと斜め上段に構えたものである。その切っ先きが、次第々々に小さく慄えて来る。
小吉は低目の星眼につけて
「門弟衆も一緒に来るなら来てもいゝよ」
さっと対手の気をぬいた。やがて渡辺の上段は頬へ拳をつけ、顔に沿って真っすぐに頭上へ押立てるような構えに変化した。
が、小吉は少しも動かない。
「やッ!」
渡辺の物凄い気合。敵味方の門人達は一瞬、物の閃めくのを感じて、思わずぱっと眼を閉じた。そして、開いた時。
道場の真ん中に、渡辺が人形でもころがしたように横たわり、木剣はその手をはなれて遥か羽目板の方へ飛んでいた。小吉の鋭い切っ先きがぴたりとその渡辺の肩の辺りについている。
渡辺の門弟達は脱兎のように道場から逃げ出していた。どうしたものか、抜刀が一|口《ふり》、落ちている。
精一郎も門人も暫くは、たゞ目ばたきをしているだけで席を動くものもない。
その夕方。一応の手当で息を吹返した渡辺兵庫は、それでもまだ死人のようにぐったりとして駕へのせられて、割下水の小吉の家へ運ばれていた。横には小吉がぴったり付添っていた。
鋭い鎌のような片割月が出ている。