大竹の母は取りも直さず神主の母、おろ/\と泣いて
「お助け下され、お助け下され」
とまるで念仏でも唱えるように手を合せて繰返すだけである。哀れというよりも何んだか少し薄気味が悪い。お糸は
「勝様」
ときっぱりとして
「あなた様のお腕前では、大竹を斬るはいつでも出来る事でございます。あたしもあの者の家内、殺される前に、一と言、あなた様に申上げたいことがござります」
と小吉の顔を見詰めている。
「何んのこと。いうがいゝさ」
「みなさまのお出でなさるところでは如何とも存じます。どうぞ、ほんの暫しの間、あたくしと二人きりになっていたゞき度う存じます」
「そうかえ」
小吉はお糸について行った。勝手の手前の如何にも社家らしい立派な杉の広戸のはまった納戸の中へ案内すると、落着いて、その戸をすうーっと引いた。
納戸の中は薄暗くなった。お糸は無言でいる。薄化粧をした肌の匂いがほんのりしている。
「勝様」
とお糸は低い声ですっと側へ寄って
「どうしても大竹源太郎をお斬りなされますか」
「お前さんは知るまいが、あ奴はおれに吸物椀をぶっつけた。旗本を旗本とも思わぬ慮外、先ず斬ッ払うが当たり前だろう」
「さようで御座いますか。その御決心なら、それも止むを得ないことでござります。でも勝様、あれは兄の神主と馴れ合のことでござりますよ。あゝいう人達が斯うすれば斯うと、たくらんだ事に、本所深川へかけてお顔が売れ、ところの元締ともいわれているあなた様が見す/\おのりなさるのは少々大人気なくは御座りませぬか」
「うむ?」
「神主は、あなたのお蔭で亥の日講がこんなに盛んになったがその為めに毎月少なからぬ歩金をとられるばかりか後々は必ず講中を引っ掻き廻されて、神主はいっこうに頭が上らず、あなたの顎に使われる上に、行く/\はきっとまとまった無心をいわれる事だろう。こゝで怒らせて出て行って貰えば、後々歩金をとられる心配もなく、講中を引っかき廻される心配もなくなるとの黒い腹。大竹は大竹で、ところで顔を売って、剣術遣い、ならず者があなた様のお名前をきいただけでも手をひくという、そのあなた様と一応やり合ったという唯それだけの事でも、結構名が売れて幅が利き、ぶらりとふところ手をしていても金儲けになる。固より正面からぶっつかっては赤恥をかくだけだが、大勢講中のいる中で吹っかけて行く喧嘩なら——」
とお糸はまたいって近々と小吉の側へ寄って来た。
小吉はにや/\笑い顔できいている。お糸は色っぽい声で
「喧嘩はきっとみんなに留められ間違っても小吉に斬られるような事はないというつもり。こんな人達を対手に、あなた様が本気で喧嘩をなさっては、余り馬鹿々々しいではござりませぬか」
「へーん」
と小吉は反るような恰好をして
「そうきけば一々合点も行くようだが、お前は大竹の新造《しん》さんで、神主には義理の妹。味方の腹をそうあけすけにぶち開けるのは妙ではないか」
「さようで御座います。でもね勝様、あたくしは。ね、ね」
「うむ?」
お糸は上目遣いに小吉を見た。
「ほほゝゝ。申しませぬ。申しませいでも何れはあなた様に、はゝあん、こうかと察していたゞく時がござります。あたくしは、亥の日講の歩合は一文残らず五助とやらに渡り、あなた様がそれに手もつけてはいられない事を存じて居ります。神主も大竹もそれはよく知っているのでございますよ。それだけに、いっそあなた様が怖い——あなたは立派なお方でござりますねえ」
「そうかねえ」
と小吉は頭を叩いて、ぷっと吹出した。
「あたくしは、もう/\、あの人達が嫌やになりました。自分の夫、大竹源太郎の如何にも醜い卑屈な心を見て、その時から口をきくも嫌やになりました。あたくしは侍というものがこんな卑しいものだとは思いませんでござりました」
「へへーえ」
「勝様、あたくしは、長吉さんとの許嫁を破談にしたのは——実は永代橋で、あなた様のお姿、それからお噂を長吉さんからきいて長くもない一生を人の妻で送るなら、そうしたお侍のお側で——ほほゝゝ、町人の家に生れ町人の家に育っても、心さえ通うたらお侍の御新造にもなれない事はござりますまいと決心を致しまして」
「お前《めえ》、少し馬鹿だねえ」
「え?」
「長吉のようないゝ男を捨てて、株を買って侍になった神主の弟のところなんぞに嫁入るとは、ほんに余り利口じゃあねえよ」
「如何にも仰せの通りでございました」
とすぐにお糸は
「今日限り離別のつもりでございます」
といった。
小吉は流石に目を丸くした。
「離別だと」
「はい。もう大竹のような侍とは一夜を共にするにも忍びませぬ」
「ふーむ。早えね」
「はい。あたら女の身をとんだ損もうを致しました」
お糸はうつ向いて
「勝様」
思い余ったように、小吉にくっついて、ふっと熱い呼吸が小吉の頬へさわった時は、小吉はもう杉戸を力一ぱいに押開けて燕のような早さで、元の酒の坐へ戻っていた。
神主の母親が、そこへ行く板の間へべったりと坐って両手を合せて小吉を拝んだ。
「何にもかもわかった。お袋さんもう心配はいらないよ。小吉は子供の腕はねじねえからね」
講中がみんな飛蝗《ばつた》のように頭を下げている。
「大竹の新造から芝居のからくりをきいてみんな知れた。おれはもう帰るから、お前さんらの考げえで、詫びをしたいというなら明日昼までに、神主と大竹が揃って、おれがところへやって来い。但し手ぶらではいけないよ。誓文を持って来るのだ。昼まで待って来なければ、その時限りあの二人はこの深川から本所へかけ、勝を対手に張合うつもりだと、おれは思うからそう伝えてくれろ」
「ま、ま、勝様」
伊兵衛が何にかいい、神主のおふくろも何にかいいたそうに身悶えして近づいて来たが、小吉はもう玄関へ帰りかけた。弁治がすぐついて来て、さっきから唯小さくなっている五助もついて来そうにしたが、これは小吉にじろりと睨まれて、へた/\とまたそこへ坐った。
次の朝。神主と大竹は、おじ/\しながら首を縮めて小吉の家へやって来た。酒の上とはいえ、これからは決してあなたの仰せに違背しませんというような誓文をもって、外には講頭の伊兵衛と他に主立った二、三人、内の様子を案じていた。
「おい、大竹、お前買った株にしろ何んにしろ、座敷牢へ入って生涯御番入の見込みのないおれなどとは事違って、まともな侍ともあるものが、ところに顔を売って遊んで飯を喰おうなどというは、飛んでもない量見違いだ。御支配方の権門筋へ日勤して、一日も早く番方、役方何れなりとも、御上の御奉公をしなくてはいけないよ。おれがような侍の屑見たような男が御説法もないもんだが、事の道理は先ずそんなようなものだ。今日|向後《こうご》は気をつけるがいゝね」
「はあ」
大竹はそういって、神主と一緒に頭を下げた。
「そうでなくては第一あの御新造が承知をしまい」
「はあ。あれは」
と大竹は唾をのんで
「昨夜家出をして終いましたよ」
あんな事はいっていたが、真逆と思っていたので小吉もびっくりした。
「喧嘩でもしたかえ」
「そんな事もありませんが」
と大竹は
「遅かれ早かれ所詮はこんな事になるのでしたろう」
神主が横から口を出した。
「何あにね、あれは町人より武家、武家も旗本で強くて偉くなる人というだけを自分の亭主の目安にしてる女だから、少しでも自分の気持に満たないと逃げ出すのですよ。ゆうべもあれから母が大変なさわぎで、自分で里へ行ってみたが戻っていない。今朝も暗い中に一度使者をやったが戻っていない。そして二度とは戻らぬという書置が大竹にあった訳で」
「それは心配なことだな。云わば一枚の紙きれだが武士が持参の誓文だ。おれが方はこれでとくと承知をしたから、早くけえって、ともかく御新造を探さなくてはいけないな」
「有難うござる。では亥の日講の事は何分よろしく」
二人は連立って外へ出る。世話人達も一緒になって、冷めたい中をみんな急ぎ足で去って行った。
「馬鹿奴ら」
小吉がひとり言をいって、お信の方へ行くとお信に抱かれた麟太郎が、眼をぱっちり開いてじっと入って来た小吉を見た。利平治は何にか用達しに出ていない。
「旦那様」
お信はいつになく、じっと小吉を見て切口上な口調でいった。
「あ」
「お願いがござります」
「ほう、改まったな」
「はい。わたくしは、先程からこの麟太郎の黒瞳勝ちな澄み切った眼を見てつく/″\考えたのでござります。あなた方のお話声をこの子はきいておりました」
「はっはっ。それあ人の声だ、聞こえもしようよ」
「さようで御座います。それ故にお願い申したいのでござります。人のいざこざ、世のいざこざ、人の醜さ、世の醜さ。凡そ正しいお方が正しくこの世に生きて行くにはいりもせぬそのような事は、この麟太郎の耳へは入れたくないのでございます」
小吉はぎょっとした眼つきをした。
「小普請の者はとかく世の人方にうとまれます。それというが貧しい為めもございますが、暇にかまけて日頃の行状がよろしくないからなのではございますまいか」
日頃は唯おとなしく自分に従って物優しいだけのお信が正面切ってこんな事をいうなどとは夢にも思わなかった小吉は、まるで平手で顔の真正面からぶたれたようにびっくりして眼をぱちぱちして首を突出すような恰好をした。
「麟太郎にはそうした事は、ほんとうにほんとうに聞かせ度うはござりませぬ。唯今のようなあのような人が来て、何にかと話す一つ/\が湧き出す清水のような麟太郎の心に、いつ、ふと墨を落すような事にならぬとも限りませぬ。彦四郎兄様がいつぞや仰せでございました。お前の祖母様は世にも珍しい意地の悪い人じゃ、お前のからだにもその血が伝わりまた子供にも伝わる、気をつけよと——この節また改めて仰せでございました。この子にはいつももろ/\の不浄を見せ、またもろ/\の不浄もきかせてはならんぞと」
「何? 兄上が」
「はい」
小吉は黙ってうなずいた。そして心の中ではその通りだと思った。が
「お信、お前兄上にかぶれるもいゝがおれはな、子供には不浄は不浄のまゝに見せ、清らかなものは清らかなまゝに見せる。詰りは世の有様を、その在りのまゝに見せて育てて行くがいゝと思うんだ。本当に穢れた世の中に浄らかなものばかり見て成人して、さてはじめて穢れた世の中を見て、その時戸惑いするような人間ではいっこう物の役には立つまいよ」
「いゝえ、違います旦那様。成人をすれば穢れたものと、浄らかなものの区別は自分でつくものでござりましょう」
小吉はにこっとした。
「そうかねえ」
おれがお信は思ったより偉い奴だ。これあこの母親の力で麟太郎は物になる。小吉はしみ/″\そう思った。
「お願いと申しまするは、いゝお話ではないようなお人とは、この家ではお逢いなさらぬようにしていたゞき度いのでございます」
お信をまじ/\見て
「わかったよ、しかと承知したよ」
「有難うございます」
「鳶でも鷹を産む、おれもこ奴を鷹にしたいわ」
途端に玄関で声がした。
「御免下さいまし」
小吉は
「ほい、五助だ」
とあわてて立って
「こ奴も不浄の組だ」
飛んでそっちへ出て行った。