お信が、すっかり手をかけて渋紙へ包んでくれた羅紗の合羽と頭巾を抱えて、小吉が次の日、暮れたばかりに平河町へ行ったら浅右衛門は若い美しい女を二人はべらせてもう酒をのんでいた。坐っているうしろの床の間に神まつりがしてあってその前の刀架に新しい白鞘が五振かゝっていた。定めし今日も試し物をしたのだろう。丁寧に借用物を差出して頭を下げ礼をいったら浅右衛門は
「それは返して貰わぬつもりだ、粗末な品だがあなたがお使い下さい。どうせわたしのところにあっても用のないものだから」
という。そうかといって真逆こんな高値《こうじき》な物を貰うという訳にも行かない。
浅右衛門は酔った気配などは少しもなく、直ぐに立って、屋敷つゞきの道場へ出ていつものように稽古をつけ出した。が、途中でふと小吉の顔を見すえて
「おい勝さん、あなた、今夜限り、もうわたしがとこへは来ないつもりだね」
といった。びっくりして、思わず小吉も息を呑んだ。
「いいんだ、あなたはね。はっ/\/\。とっくに山田流刀法の極意皆伝という奴だよ」
浅右衛門は肥った腹をゆすって笑い乍ら
「毎日のように人の首を斬るので、いつの頃からか人間が本当の決心をした時の気持が、こっちの胸へ自然にぱッとうつって来るようになって終ってね。合羽や頭巾を貰っていたゞこうというのは実は心中お別れのつもりなのさ」
小吉は何かしら強い力にぐん/\押されて、背中にべっとりと汗がにじんでいた。
「山田家には昔から口伝があるという。幼少の頃これがどんなものか、修行を積んでいつかはその奥の院の御本尊をじかに拝める時が来ると一心不乱にやったがね、いざ当主となり、さて父から口伝の伝授となったら、何あんだ屁を見たような事さ。唯勿体をつけていただけの事でな。勝さん、今迄あなたに御伝授申した柄元の握り方、間をおいて指一本一本を出す息、吐く息に合せて静かにおいて行く、あれがその口伝だ。あんな口伝は弓術にもあり、馬術のたづな捌きにもある。あれを教えて終ったから、実をいうとわたしはもうあなたへ教えるものは何んにもないのだよ」
浅右衛門は大声で笑いつゞけて
「人間の世の中なんてえものは、みんなこんなようないゝ加減なものなのさ。底をついて見れば凡そは馬鹿々々しい」
といった。
一稽古終って、とにかくお別れだから一ぱい飲めといってきかない。小吉ははじめて盃を受けて、途端に引っくり返る程にむせて終った。浅右衛門は面白がって手を打って喜んだ。この家を辞した時は小吉は息も出ない程喉の内が腫れて終っているような気持がしてならなかった。
外へ出ると満天の星が青く凍って実に寒い。雪はきのうの名残がところ/″\に残って夜目に真っ白く浮んでいる。
「不思議な人だ」
小吉は、今別れて来た浅右術門の事を改めて思い出して、どうしても差上げるといって受取らない羅紗の合羽と頭巾の包を横抱きにしたのを撫でて見た。
途中から急ぎ足になった。今夜もまた芝の辺に小火があったような気配だ。
両国橋を渡ってひょっと駒留橋の方を見る。
「おや」
小吉は思わず駈け出した。
「五助、利平治はどうした」
橋の袂に手拭で頬かぶりの五助が、夜泣蕎麦の荷を下ろして、そこへしゃがんでしょんぼりと手を組んでいる。
「あゝ、勝様」
「今夜は利平治もこゝへ出て来て、おれと代る約束になっているが、荷がないではないか」
「へえ、待っても待っても来ねえんです。お家《うち》の方へ伺って見ようかと思ったんですが、来てはならないとの厳しいお言葉だからそれも出来ません」
小吉は動悸っとするものを感じた。
「もうほんのさっき弁治兄貴が来ましたからね、実は、こう/\いう次第で、こゝで勝様が利平治さんの荷をとって、それから先きは御自分でお売り歩きなさるって事を云いやしたらね。天下の御旗本にそんな事をおさせ申す事あ出来ねえ、それじゃあ今夜からおれが蕎麦屋になるといいやして、荷元へ飛んで行きました。もう帰る頃です」
荷元というのはその頃あった夜泣蕎麦の蕎麦は固より荷道具一切をいくつも揃えてあって、一晩いくらといって売子へ貸してくれる元締である。
「ひょっとしたら荷元で、利平治さんと兄貴が一緒になってるんじゃあねえでしょうか」
小吉は出しぬけに、力一ぱい地を踏んだ。
「利平治!」
と叫んで
「五助、あれは、もう、来ないよ」
「へ? ど、ど、どうしてで御座いますか」
「おれが馬鹿だからだ」
小吉の瞼がうるんだ。途端に、夜泣蕎麦の荷が一つ、向うの方から右へふら/\左へふら/\、危ない調子でやってくる。
五助が駈けて行こうとした。
「じッとしていろ」
と小吉がうるんだ声でこれをとめた。
やって来たら弁治だ。荷物を水だらけにして自分も川から上った人間のように汗である。
「り、り、利平治さんが見えませんからね。今夜は、わたしが商売をします」
「馬鹿」
と小吉は
「巾着切なんぞがその荷を担いで物の二箇町《にかまち》と歩けるものか。それより五助、頼みがある。お前、これからすぐに江戸を発ち——」
「え、えーっ?」
「甲州街道の柴崎というところへ行ってくれ。日野の手前の玉川ぶちだ。こゝで利平治を探すのだ」
「え?」
「弁治は江戸で顔も広く、かねて抜け道横露路、隅から隅までも知っている事だから、今夜の中にも緑町の縫箔屋の長太だの蛤町の金太郎にもよく頼み、手わけをして利平治を探すのだ。あれはもうおれが家にはいねえだろう」
「へ、へえ、へえ」
二人はうなずいたが突拍子もなく急なのでたゞ眼をぱち/\しているだけである。
「何んにしても先立つものは銭だ。おい、弁治。これあな、おれが御恩のある人から今夜頂戴したばかりの羅紗の合羽に頭巾だ。こ奴を持って一ツ目通りの上総屋へ行き、割下水の山口鉄五郎地内の勝に頼まれて来た。目一ぱい貸してくれろと質に置き、それを費用に働いて呉れ」
「そ、そんな御心配にゃあ」
と弁治のいいかけるのへ
「及ばないと云いたいだろうが、及ばなけれあ手前は他人様のふところを掏るより外に芸のない男だ。五助とても似たり寄ったりだ。弁治、店を閉めない中に、早く上総屋へ行け」
「へえ」
蕎麦の荷を置きっぱなしで弁治はすぐに飛んで行く。五助は一人で合点して、抽斗から蕎麦玉をつかみ出すと細長い|つけ《ヽヽ》笊へ投り込んで湯へ入れ、しゅッ/\と水を切って丼へ移すと下地をかけて
「勝様、お寒いですから一つ如何です」
と新しい割箸を添えて、小吉の鼻先きへ出した。小吉は黙って受取って、前歯でびしッと箸を割り、無言でその蕎麦を喰った。時々箸を止めて、何にか考え、また思いついては喰った。
小吉の察した通り、それっきり利平治は割下水へは戻らなかった。
「おれがところは余りひどい貧乏だから、あ奴も驚いて逃出したのだろう」
ある時小吉はひとり言をいった。
お信はひどく嫌やな顔をしてじっと小吉を見てつぶやくように
「旦那様、本当にそのように思召しでございますか」
といった。小吉は黙っている。
「わたくしは、利平治は、この家の貧しいのが嫌やになったのではなく、自分《じぶん》扶持《くち》を減らそう為めに家を出たのだと思います」
「そうだよ」
「ほほゝゝ、口では何んとおっしゃっても旦那様もやっぱり然様に思召しなのでございましたか」
「知らぬ顔で蕎麦屋をさせておくがよかったかも知れない。でも、あの年ではなあ」
「それもこれも、祖母様《おばゞさま》があのような——」
「これ、その事はもういうな」
小吉が珍しくきびしい声でお信を叱った時であった。
「いるか」
戸が開いていつも呼びつけるだけでかつて一度も自分から訪ねた事のない彦四郎の太い声がした。
「兄上らしいな」
小吉は低くそういってゆっくりと立って行った。
「利平治がいなくなったそうだな」
彦四郎は相変らず眉に八字を寄せて玄関へ立ったまゝのっけからそういった。
「は」
「いゝ事だ。これからはお前が、本当のお前を見る事が出来るだろう」
「は?」
「故父上に甘やかされ、その後は利平治に甘やかされ、お前は本当のお前というものを知らん。わしは、今日はその喜びに来たのだ。いゝ事だ、目出たい事だ」
「は」
「時にお信は在宅《うち》か」
「居ります」
「逢いたい」
「お上り下さいますか」
「いや、こゝへ出て貰おう。お前は退れ」
いわれる儘に小吉は引込んでお信が出て来た。彦四郎は口をへの字に結んでじっと見ていたが
「大そうやつれたの」
といって
「麟太郎は?」
「はい。あちらに」
「一寸顔を見せてくれ」
小吉の時は上らないといったがお信についてつか/\と奥へ通った。煤ぼけた破れ畳に彦四郎の白い足袋は銀のように白く光った。
麟太郎はねていた。彦四郎は
「よし。この子は穢れてはおらん、お前の丹精だな。褒めるぞ」
彦四郎は、ふところから紙へ包んだものを取出して麟太郎の枕の下へ差込んだ。金であった。
その外には一とこともいわず、ふと思いついたように
「小吉もこれからは裸のおのれを良く見極わめる事が出来るだろう」
そう付け足すとさっさと帰って行って終った。戸の外に若党仲間小者が待っていた。
小吉は彦四郎の置いて行った金には眼をくれようともしなかった。
「裸のおれか」
といって
「おれが為めにはそれがいゝかも知れないが、年をとったあの利平治を投っては置けぬわ」
と唇をかんだ。
万事に小気の利いた弁治が、それからそれと糸をたぐって、利平治が谷中の観音堂の世話になっているのを発見したのは、その年が明けて、もう梅の咲く頃であった。五助はその間に、柴崎と江戸とを何度往復したか知れやしない。
弁治が利平治を見つけた時は、利平治はあの頃から見ると、もう十も年をとったようにがっくり老けて、堂守と二人、炉辺に坐って柴を燃やしているところであった。その淡い柴の煙の中に浮んでいる利平治に
「やあ、とっさん」
と声をかけた時は流石にびっくりしたがすぐにうつ伏して泣き出して終った。
とにかく割下水へ一緒に行って話はそれからだといっても、利平治は首をふって
「小吉様は固よりですが、御新造《ごしん》さんの御前へ出ます顔が何処にござりましょう。実はもう老い先きのないからだでございます。いっそ今日は死のうか、明日は死のうかと思っておりましたところで御座いますよ」
と、どうしても行こうとはしなかった。その時は丁度いゝ塩梅に蛤町の金太郎が一緒だったので、これへ利平治を預けて、自分は本所《ところ》へ飛んで来て、知合の小旗本の下男を使にして、小吉を家から呼出してこの事を告げた。
「そうかあ、いたか」
小吉は崩れるような顔つきになってすぐに弁治と一緒に谷中へ出て行った。
七つ下りで、斜めな陽が、観音堂の梅を妙にくっきりと浮き出させている。
小吉は無言で、利平治の前の炉の向側に坐った。
「雲松院様は、本当に梅がお好きでございましたなあ」
利平治はまるで小吉を忘れたように表の方を見ながら眼をしばたゝいてぽつりとひとり言にそういった。雲松院は故平蔵の戒名である。
「そうだ、おれはお前の背で、父上が瓢《ひさご》を下げられ、向島の新屋敷まで梅見に行ったことがあった。覚えている」
小吉もじっと梅の方を見てそういった。
外には弁治も五助も金太郎も縫箔屋も来てしゃがんでいる。