「借りた金は返せるが、無駄にさせた時間を返すことはできない」と、昔先輩に言われたことがあったが、私にとってこれはいまだに忘れられない言葉の一つだ。
ところが世間はこれとは逆に、他人に金の迷惑をかけることは憚《はばか》るが、約束の時間を違えたりするのをさほど気にしない人の方がどちらかといえば多いような気がする。
それは人間すべてにわたって完璧というわけにはいかないから、時に忘れたり、万やむを得ず遅れることも皆無というわけにはいかない。だが、時間を守るのとそうでないのとはあきらかに人それぞれの癖であって、約束に遅れる人間は常に遅れ、時間を守ることの方が稀だ。そういうものの名前を冠して“○○タイム”と呼ぶが、人間こういう先入主を世間に与えるようになったら、信用の半分を失ってしまったと考えなければならない。ましてことビジネスに関する限り、時間の尊重はすべてに優先すると心すべきなのだ。
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私達が小学生の頃はすでに日中戦争が始まっていて、軍国調が世の中を蔽《おお》い出した時期だった。
私は海洋少年団という、いわば海のボーイスカウトのような組織に入っていて、手旗信号やらロープの結び方、遠泳などを当時仕込まれたものだ。すべては海軍式のそのしつけの中で、私の中に一つだけ消えずに残ったのが、“五分前”という時間観念だった。
これは、何事もきめられた時間の五分前には準備万端整えておくというルールで、“総員起し五分前”というのは、起床時間が六時とすれば五時五十五分にはパッとはね起きていなければならないことを指し、食事、休憩、集合、作業開始、入浴、就寝まで、五分前主義を徹底して守らされたものだった。
近頃の目覚し時計には、一度で起きられないだらしのない人間がふえたせいか、何分か置きに何度も鳴るという仕掛けのものがあるそうだが、そんなものに頼らないでも、きまった時間の五分前になるとピタッと目が覚めるようになったのは、その“五分前主義”のおかげが大きかった。
私達の年代は、そのせいかどうか、会議にしろ、どこかへ行くのに皆でバスに乗るといったようなときにしろ、きまりの時間の五分前にはだいたい顔を揃えているが、いわゆる団塊の世代となるとそうはいかない。さも忙しげな格好で、何やら弁解を口にしながら遅れてやってきて涼しい顔をしているのが必ず何人かいる。そういうのを見るたびに戦争中のことを持ち出すとすぐ眉をひそめるが、この“五分前”といったよい習慣だけは継承してもいいのではないだろうかと思う。
ましてわれわれのように残りの人生が見えてくる年頃になると、いわれなく他人にそれを無駄にされると腹が立ってくるもので、若い人達の猛省を促したい。
腹が立つといえば、女性の時間に対するだらしのなさも困ったものだ。
もちろん女性全般が男に較べて時間の観念が稀薄だときめつけるつもりはない。女性も男性同様その点では人それぞれだからだ。
ただ一つだけあきらかな特徴を挙げれば、とかく女というものは狎《な》れ親しむ間柄になったとたんに、それまでとは人が違いでもしたように、コロッと変わって待合わせの時間に平気で遅れてくるようになる、という傾向がたしかにある。それも五分や十分ではなしに、三十分、一時間なのだから恐れ入る。
君の母さんもそうだった。
それはまだ結婚前のデート時代だったが、知り合った頃は外で待合わせても、時間前にちゃんと来ていたのが、お互いに特別の好意を確認してからというもの、次第に約束に遅れるようになり、喫茶店で一冊本を読みきるくらい待たされることも珍しくなくなった。
といって、「ご免なさい」と笑顔で言われると、それまでの腹立ちはたちまち溶け、文句一つ言えなかったのだから、われながら情けない。それでも、(これはいったいなぜなのだろう)と、その頃真剣に考え込んだものだ。あるいは時間もそうだが何事につけだらしのない性格ではないのか、もしそうだとしたら……と不安になったり、それこそ“釣った魚に餌はやらない”という比喩のように、気持を確かめ合った安心感から他人行儀な緊張が解けたそのせいによる努力放棄だろうか、と考えたりもしてみたが、不可解は残った。
それからいろいろと女を見てきていま分るのは、あれは甘え以外の何物でもなく、自分の幸福の一つの確認として、約束の時間にどれだけ遅れようとそれを格別咎《とが》めない相手を見届けたいという心理ではないか、ということだ。
そう考えてみると、時間に遅れて平気でいる人間というのは、約束の相手にだけでなく、世の中全体に甘えているといえはしないか。女性に甘えられるのは悪くないが、大の男に甘え凭《もた》れかかられては気色が悪いだけだ。
時間を守らない性癖の裏には、この甘えの構造ともう一つ責任転嫁がありそうだ。
たとえば車のドライバーだ。
「何時にどこそこで約束があるから」と行先への到着時間が動かし難いことを事前に告げておいたとする。ところが道が混んでいてとても時間通りに着きそうもないと見た途端、すかさず横道にそれ、なんとしてでも約束の時間までに先方に送り届けようと、努力の限りを尽くすのと、その混んで車の動かない道で、ひたすら悠々と前の車が動き出すのを待つばかりという二種類がある。
この後者に属するドライバーの心の中は、「この道を行くのがスタンダードであって、それが混んで動かないのだからしようがない。約束の時間に着かないのは自分のせいではないのだから」と、最初から問題解決に対する応用的思考を放棄しているに違いない。
たしかに道が混んでいるのはドライバーの責任ではないが、ハイヤーや自家用車のドライバーで事前に行先と到着予定時間を知らされているとしたら、道路状況をチェックし、混んでいればその対応を考えるのが本来だと思うのだが、多くはそうはしない。
だがこうした簡単に責任を他に転嫁して平気でいられる人間が、プロとして優秀な部類に属するわけがなく、その性格、物の考え方が人生レースで後れをとる原因になると考えなければならない。
さらに言えば、約束を違《たが》えて不可抗力を持ち出すこと自体、すでに一人前の男としては劣っていることの証明なのだ。
それはなにも大人になってからとは限らず、小学生の頃の遅刻常習者が毎度のことなのにそのたびにあれこれ理由を挙げて言い訳をするのを、君も覚えているだろう。あれでも分るように、不可抗力という理由がそんなにたくさんあるはずもないのに、自分のミスを棚に上げてそれをあげつらうのはただめめしいだけで、かえって見苦しい。遅れてしまったのは取り返しがつかないのだから、黙って詫びるしかなく、それで先方に許して貰えるかどうかは、その人間の平生がどうかということにかかっているということなのだ。
要は約束というものを重く見るかどうかということではないだろうか。
どんな約束にしろ、した限りは、自分の誇りにかけてそれを守ってみせる、たとえ道路渋滞に巻き込まれようと、それさえも織り込み済みでなければならないと、常に自分に言い聞かせておくことが大切なのだ。
とくに君のようなビジネス社会の新兵は、不可抗力という文字を自分の辞書から消し、先方の失念もしくは遅参の可能性を封じるためにも事前連絡を入れて念をつき、もちろんのこと自分自身は五分前どころか遅くとも十分前に約束の場所への到着を果せるよう抜かりなくやらなければならない、時は金以上なのだから。