人が三人以上集まれば「派閥」が出来るというのは、政治家の自己弁護によく用いられる理屈だが、残念ながら真実として認めないわけにはいかない。
君も会社勤めを始めてそろそろ一年半だから、会社の中が組織図とは別の力学で動いていることがだいたい分ったのではないか、そして自分自身がそのどれに属し始めているということも。
ただ、政治の世界とビジネスのそれとの大きな違いは、政治家は一つの派閥に入ったらそこへの絶対忠誠を誓わされるが、サラリーマンは必ずしもそうではないという点だ。
どこの会社にもある「閥」は、一つには役員を頂点とする同じ釜の飯を喰ってきたいわば戦友的な仲間による結束であり、一つには同じ学校を出ているという“学閥”があり、さらに小分割されたものとして、同期入社、飲み仲間、スポーツ同好会的なプライベートな“仲よし”グループもまた派閥の一種といえる。
若い君にこんなことを言うと、(自分達にはカンケイない)と木枯し紋次郎みたいな反応を返されるのは百も承知だが、実は自分では気づかないうちにいつの間にかその派閥に取り込まれてしまうのが、サラリーマン世界の生態現象で、それに対して超然とし続けるというのは、事実上至難なワザなのだ。
とくに、いまの日本型カンパニーというのは、いわばプロ野球のように、会社はいわば“リーグ”であって、その中で何チームかが闘志をむき出しにして業績を競い合う仕組みによって成長を続けているといってまず間違いない。
それはたしかに、社員として配属された部門であって、その組織の一員として全力を尽せばそれでいいには違いなく、魂のロイヤリティーまで捧《ささ》げ尽すことはない、というのは理屈だが、それでは済まないところがサラリーマンというものなのだ。
さっきの野球の話に戻っていえば、自分から進んで入ったわけでもないのに、一つチームで仕事を続けていると、いつの間にか愛着が湧いてフォア・ザ・チームというロイヤリティーが知らず知らずのうちに身心にしみついてしまうらしいが、それと同じで、自分が力を尽した結果が、部門という名のチームの社内評価を高めることに大きく貢献したときの喜びを知るということが、とりも直さずビジネスマンとして一人前になることでもあるのだからしようがない。
その自分の属したチームが万年ビリだとしたらどうか。おそらく会社が嫌になって転職を真剣に考えるようになるか、そうでなければ思いきって転部願を出して、やり甲斐《がい》のある他部門へ移る工作をするかのどちらかになる。だが、サラリーマンとしてこんな不幸というか回り道もなく、そうなりたくないために、皆チームのために目いっぱい頑張るわけで、それは必ずしも、そのチームのキャップに認められ、抜擢を受けようという下心からではない。
ところが、そのチームのキャップの心情はどうかといえば、これがすこぶる日本的なのだ。
本来サラリーマンというのは、フォア・ザ・カンパニーであるはずなのだが、部門責任者が部下に求めるのは、もっぱらフォア・ザ・チームであって、コンペティターである他部門を抜き去り、蹴落すことだけが本音の目標なのだ。そしてそれが果せれば、自分はもちろんのこと部下達の昇進も早まるわけで、その“ニンジン”を目の前にぶら下げて鞭を入れ続けるのが、部門責任者の重要な仕事でもあるわけだ。
だから、どのチームに配属されるかで、その人間の命運は大きく分れるわけだが、かといって、それを選択する権利は部下である若手社員には事実上ないというのもまた現実だ。
だからチームのキャップはなんとかして、自分の下についた部下を陽の当る場所へ引き揚げようと懸命になるのだが、その心情はどこかヤクザ組織の親分に似ていて、いかにも日本的なのだ。
君のところはどうか知らないが、私の会社の営業部門のチームリーダーは、自分の部下をクンづけでは呼ばず「誰それ」と呼び捨てにするのが多いが、それは自分が当てにしている部下に限ってのことで、女子社員にはサンづけで物言いもガラッと違って莫迦《ばか》丁寧だ。これはなにも女の子の人気取りのためでなく、いってみれば頼みにする部下とは学校のスポーツクラブの先輩後輩の緊密な関係を作り出したいという気持からに他ならない。
こういうのを果して日本的といっていいのかどうかは分らない。なぜなら、アメリカ映画のベトナム戦争などをテーマにした作品の中に出てくる戦友同士の強い連帯感というのと、それが酷似しているからだ。その軍隊と会社の違うところは、寝食を共にするというわけにいかないだけで、ワーカホリックのチームリーダーの本音は、いっそ合宿でもして起居を共に出来たらというくらい、部下との一心同体を願っているのではないか。
たしかにそうやって上げた業績を評価されたときは、苦戦の末、敵の陣地を占領して旗を立てたときと同様の感動をチーム全員で分ち合えるわけで、チームリーダーにとってその一瞬こそ至福のひとときに違いない。
が、だからといって、連戦連勝のそのチームリーダーが出世の階段を二段跳びで駈け上がるとは限らない。
“出る杭《くい》は打たれる”の譬《たと》え通りに、なまじ目立ち過ぎると、同輩の嫉妬《しつと》を買うのはもちろんのこと、トップの連中にまで、自分の地位を脅かされるのではないかという警戒心を持たせることにもなりかねない。
これは私の会社で実際にあったことだが、その男はたしかに切れ者で実行力もあり、同僚をゴボウ抜きして若くして本部長の座についた実力者だった。
事実彼の率いるチームは常に社内一の業績を上げ続け、社内ではその男の名を冠して“○○軍団”と呼ぶほどだった。
ところが、アメリカのさる大企業との合弁プロジェクトでその男が初めてつまずいたとき、待ってましたとばかりに、その男に関する悪評が一気に噴き出し、こじつけとしか思えない理由で、役員になり立てのその男は会社を追われることになった。
もちろんその男は男泣きに泣いて、社長以下のやり口を詰《なじ》り、「よし、それなら独立するなり、競合企業に移籍してでも、汚いあいつらの鼻をあかしてやる」と息まいて、会社を辞めていった。
その男は仕事も出来たがなかなかの人情家で、身銭を切って部下を飲ませ、結婚の面倒から、家を買いたいといえば、ローンの保証人になってやってその夢を実現させるといった具合に、実に部下の面倒見がよかった。
それだけに自分に対する部下のロイヤリティーは絶対だと過信していたのだろう、会社を退くときも、当然ながら、全員とはいわないまでも少なくとも部下の半数は自分について辞めると思い込んでいたらしかったが、現実はそうはならなかった。
その噂が社内に流れ始めた頃は、たしかに男の部下達は激昂《げきこう》して、「それなら僕達も辞めて本部長についていきます」と声を揃えて言ったということだが、フタを開けてみると誰一人辞める人間はいなかったのだ。
——なぜこんなことを書いたかというと、サラリーマン社会というのは所詮《しよせん》はそんなものだということを君に知っておいて欲しかったことが一つ。「派閥」という塊は一見どうやっても崩せそうに見えないが、実は脆《もろ》いものだということが言いたかっただけなのだ、組織の一員になっても人間は所詮一人だということも含めて。