「……なんで営業なんかに入っちゃったんだろうか」
さっき君が、帰ってくるなりいかにも疲れたという顔でソファにひっくり返って小声で呟《つぶや》いていたひとりごとを聞いて、この手紙を書くことにした。
おそらく君は、同期に入社した仲間で他部門に回された連中と較べて、その労働時間、密度、難度のあまりの違いという不公平に我慢がならなくなったのだろう、しかも給料にはほとんど差がないのだから。
もちろん君がいま胸の中でふくらませている不満と不安はそれだけではあるまい。これから書くことがどれだけ当っているかどうかは知らないが、きっとこんなことも納得がいかない要素ではないのかな。
世の中「駕籠《か ご》に乗る人、担ぐ人、そのまたわらじをつくる人」という譬《たと》えがあるように、さまざまな役割分業があるということくらいは、今更私に言われるまでもなく承知のことだろう。ところがその譬えでいえば、いまの君の仕事である営業はいわば駕籠を担ぐ役割だということはいいとしても、乗り手は駕籠から降りれば休めるし、わらじを作る人も一日のノルマが片づけばゆっくり休養できるが、担ぎ手は乗り手がある間は一服することも許されないという較べようのないハードワークだ。それも、その働きの分だけペイがいいとか出世が早いとかいうのならまだ我慢のしようもあろうというものだが、先輩達を見ていると、あの労苦が十分に報われているかといえば、むしろ逆の感じさえある。
営業というのは、時間的にも大変だが、相手あってのことだし、いくら一所懸命誠実にやったところでうまくいくとは限らず、結果が悪ければすべての努力は帳消しになって、大減点という間尺《ましやく》に合わない反対給付がつくだけでなく、下手をすると責任を取って辞めなければならない事態に追い込まれることだってなくはない。
その大変さも、下積みの間だけなら我慢もできようが、どこまで行ってもリスクに満ちた目標をクリアするために必死の形相で取り組み続けなければならないのだから、そういう構造が見えてくると、ゲンナリして今夜の君のように呟きたくなるのも無理はないのだ。
事実、アメリカあたりではいま例に挙げたような腕っこきのセールスマンは、年齢を問わず実績によって報酬がきまるのが普通だから、たとえば君のような入社二年目の新人でも、業績次第で同年齢のサラリーマンの二倍も三倍も給料をとっている例は珍しくなく、苦労も多いが報いも大きい。
ところが日本は、年功序列型賃金体系がまだまだスタンダードで、能力給を取り入れ出してはいるものの、まだまだその比率は低いから、同一年齢同一賃金的悪平等は本質的に変わっていない。
人の三倍四倍働いても給料は同じ、事務系の仕事に回った同期入社の仲間が土日はしっかりと休み、夕方五時にはパッと会社を出て、ガールフレンドと芝居だ映画だというのに、こっちはそれからまた一仕事、それもエンドレスゲームだ。しかも、よく考えてみれば自分達営業部隊がそうやって稼ぎ出したもので、ぬくぬくと楽な毎日を送っている多数の社員を養っているわけで、そう思った途端にガックリするのはよく分る。
* * *
そこで、次に二つのエピソードを書く。これを読んで君がどう考えるか、それを知りたいからだ。
——私の同期にこんな男がいた。その男をかりにAとしようか。
Aは、学歴は三流大学だが、入社数年にして頭角をあらわした優秀なセールスマンで、三十代の終りには、諸先輩を飛び越して最年少の部長に抜擢されたほどに、その実力は社内の誰もが認めるところだった。
たしかに天性の営業マン適性の持主ではあったが、努力や勉強も大変なものだった。休みの前の日は仕事をドカッと抱えて帰っていくし、ウィークデーも部下の帰ってしまった部屋で一人十時十一時までデスクに向かって何かやっているといった按配で、仕事のためだけに生きているような男だった。
私とはまったく性格も違うし、物事の考え方も共感出来ないことの方が多かったが、私は少なくともその男を認めていたし、ある意味で敬意を抱いていた。ところが、それだけ仕事をし、彼の時代に業績が五割も上がったというのに、社内の評判は必ずしもよくなかった。
一つには、その自分の実績を自分で誇示し過ぎるところがあったからだ。会議の席などでも、先輩や役員の前で遠慮もせずに自説をゴリ押しするだけでなく、自分のお蔭でここまで来たのではないかと言わんばかりの傲慢《ごうまん》な態度がしばしば見られたからだ。
肩で風を切って、威風堂々とそっくり返って見えるのは、彼の大柄な体格のせいもあったが、社員はそれをその男の思い上がりによるものと、皆蔭で眉をひそめたものだった。
現に、酒の席などでは、自分一人で社員全員を養ってでもいるかのような発言が行なわれるのが珍しくなかったし、トップの方でも彼の力倆《りきりよう》は評価するものの、その人柄にはヒンシュクしている様子だった。
その男は取締役になるのは早かったが、それから上には上がることなく、四十代半ばで腹を立てて会社を辞めていったが、その後の消息はあまりはっきりしない。
* * *
——もう一人、私と同期入社で管理部門に回された男がいた。大学は東大の文学部で学歴としては申し分なく、会社としては幹部候補生として将来に期待していたようだが、当人はまったくその気がなく、自分から選んで仕事のあまりない庶務を希望し、どう上から水を向けられても陽の当るセクションヘの配置替えには応ぜず、庶務の隅っこから動こうとはしなかった。
私は、入社試験で初めてこの男を見たとき、いかにも秀才らしいその容貌に、(こんなのと一緒に入ったらとても勝負になるまい)と、反射的にコンプレックスを抱いたものだったが、十年もすると、この男の顔がすっかり変わってしまった。
それは、地方自治体の役場などでよく見かける、おっとりといえばその通りだが、闘いと緊張のない空気の中でしか培養されないある種の人間の顔なのだ。
入社して間もない頃、同期入社のよしみで一緒に飲んだとき、私は思いきって彼にこう聞いてみたことがあった。
「おまえは学歴もいいんだし、エリートコースを歩もうと思えばそれが出来る人間なのに、なんで自分から好んでいまのセクションに行ったの?」
それに対して彼は、
「僕はね、だいたいサラリーマンには向かないのに、おやじの関係でこの会社へ入ることになったんだが、本当は中学か高校教師にでもなってのんびり好きな本でも読みながら一生を終れたらと思っててね。だから、五時になったら誰に気兼ねすることなく引き揚げて、自分の時間を自分の好きなように使えるセクションということで、いまのところを希望したんで、その意味じゃ望みが叶《かな》ったってわけで、ホッとしてるんだよ」
と、真顔でそう言ったものだったが、彼はついにその意志を貫き通して、とうとう役員にもならずに、部長待遇のまま去年退職していってしまった。
——私が何を言いたいのか、君にもだいたい分ったことと思うが、会社というものは、いろいろな能力の、いろいろな立場の人間が長短補い合って初めて成り立つ組織で、自分の負わされた荷を迷わず担い通すしかないのだ、ということに気づいて欲しかったまでだ。