君のところの定期人事異動はたしか春だったからまだ先だが、うちは昨日それがあって会社じゅう大騒ぎだったよ。
うちは創業以来のしきたりで事前に内示をしないことになっているんで尚更なんだが、まさに悲喜こもごもでね。とくに家族持ちの転勤者は気の毒だったね。
しかしわれわれの若い頃は否応なしで、辞令一枚でどこへでも飛ばされ、イヤな顔一つしなかったものだが、いまは異議申し立てが許されるようになったから、それだけでも進歩だよ。
それと、昔と違うのは、海外勤務を命じられた人間の反応だ。
僕らが若手だった昭和三十年代は、海外勤務といわれただけで、それがどんなに文化果つる僻地《へきち》だろうと赤道直下の炎熱地帯だろうと、こおどりして喜んだものだ。まして勤務地がニューヨークのパリのロンドンのという世界的大都会だったりしようものなら、それこそ鼻高々で親戚じゅうに触れ回ったくらいのものだった。ところが近頃はニューヨーク駐在を申し渡されても渋い顔をするのが普通になったんだから変わったものだ。
考えてみればムリもない話で、子供がいれば教育の問題があるし、といって単身赴任は一種の流刑のようなものだし、しかも昔はニューヨーク駐在はエリートコースの一つだったが、いまではNYだろうとPARISだろうと海外勤務はスゴロクでいえば“三回休み”みたいなもので、本社勤務から遠のくことで回り道になるのは目に見えているということもある。それに治安は悪いし、とくに日本人は金持ち扱いされるから、いつどこでどんな目に遭わないとも限らないという不安がつきまとう。
というわけで海外勤務はすっかり人気がなくなったが、私は少し違う意見を持っている。
これからの日本を考えると、サラリーマンの生活が日本に根を生やしたままで終るなどということはどんどん少なくなるはずだ、ということがまずある。
君も知っての通り、金融の国際化は目覚ましい勢いで、いまやジャパンマネーはドルにとって代わった感が深い。しかも、東西対立の雪どけがさらにそれに拍車をかける気配濃厚だ。これまで共産主義体制だった東欧諸国がまるでドミノゲームのように民主主義に衣替えし、ベルリンの壁ではないが、西側との経済交流を隔てていた障壁を一気に崩した。この変化の原因が東欧諸国の経済的疲弊《ひへい》にあることは紛れもないことで、ということはジャパンマネーによる経済復興の期待が大きいわけだ。カネだけではなく、日本のすぐれた技術とヒトも一緒に欲しくなるのは当然の成行きで、日本からの積極的な進出に期待する地域はこれからふえる一方だろう。
それどころか、会社自体が本社を海外に移すという企業も出てきたように、ビジネスに国境がなくなるのが二十一世紀初頭の特徴かもしれない。私なんかはどっちにしてもあと六、七年でリタイアだから、あまり関係ないが、君達は本気でその腹づもりをいまからしておいた方がいい。
そのためにはやはりなんといっても語学力を身につけておくのが一番だが、かりに勉強の甲斐《かい》あって“ネイティブ”といわれるほど流暢《りゆうちよう》になったとしても、それでいいというものではないのが外国語の難しいところだ。近頃テレビなんかに日本語の上手な外国人がよく出てきて、ベランメエ口調をまじえて達者に日本語を操ってみせるが、われわれの目からすれば、所詮《しよせん》は“外国人にしては”という割引感覚がついて回る評価でしかないのと同じなのだ。
それに、いくら日本が経済で優位に立ったとしても、ヨーロッパの文化的優位にとって代わるというわけにはいかないから、英語が事実上国際的公用語である限り、それを身につけなければ海外で仕事は出来ないということに変わりはない。
そこでその身につけるものの中身だが、日本人の英語力なるものの偏りとしてよく感じることは、言葉は出来ても西欧的教養にまるきり欠けるという点だ。
たとえば、アメリカにしろイギリスにしろフランスにしろ、向こうの知的エリートと呼ばれる階層の人達と話をしていると、歴史やキリスト教にまつわる比喩や警句がどんどんとび出してくるが、その多くは日本人にとってチンプンカンプンで、かなりな英語遣いを自負する日本人でも、その種のジョークの意味が分らず、笑いにとり残されるということがよくある。
これはしようがないといえばそうもいえなくもないのだが、これからの国際人がこのままでいいというわけにはいかない。
その責任の多くは日本の教育にあるのだが、とくに戦後の社会科教育の弊害は少なくない。私達のように戦争中にベーシックな教育を受けた人間は、敵国の文化や歴史を学ぶことを禁じられていたからしようがないにしても、君達のような昭和四十年代生まれの若い人までが国際的教養音痴というのでは大いに先が思いやられる。
だいたい勉強なんてものは学校教育の専売物ではないし、まして教養的知識は独学でも十分身につけられるものだから、君もこの辺で考え方を変えて、勉強し直してみてはどうか。といって、英独仏米といった文化的先進諸国にまつわる知識教養をすべて身につけるなんてことが出来るわけがないのだから、一点集中することを心掛ければいい。
たとえば私は英語はからきしだが、ことロンドンに関する限りはいささか詳しい。といってロンドンに足を運んだのは都合二回きりだ。ところが私は昔からの推理小説ファンで、なかんずくシャーロック・ホームズについてはちょっとしたマニアでいっぱし“シャーロキアン″のつもりでいる。だいたい、シャーロキアンというのは作品に詳しいだけでなく、十九世紀のロンドンのガス灯の色は何色だったとか、ホームズの住まいであるベーカー街の地図、その部屋のたたずまい、家具の一つ一つについてまでウンチクを競い合うもので、他人に自慢できるまでに詳しくなるにはちょっとやそっとののめり込みではダメな世界なのだ。
だから、私はニューヨークでは型通りのやりとりしか出来ずにおとなしくしているが、ロンドンに行くとちょっとばかり人が変わる。話がコナン・ドイルに及べば、あちらのマニアともどうやら太刀打ち出来るし、向こうも敬服のまなざしをこっちに向けてくれるからだ。
君はたしか大学での専攻はアメリカ史だったな。それならもう一回この辺でアメリカ史を勉強し直したらどうだ。それも学校の勉強とは違って、面白がって片っ端から本を読み漁《あさ》るという非アカデミックな学習姿勢の方がかえっていい。元来歴史なんてものはディテールの面白さが魅力なんだから。
とはいうものの、シャーロキアンという武器もあるに越したことはないという程度のもので、これからの日本人にとって大切なのは外国に対する尊重というものではないだろうか。日本人というのはちょっと懐があたたかくなるとそっくり返って人を見下すようなところがあるだけに尚更気をつけなければならないポイントだと思う。
とくにビジネスで外国人と真剣にやり合ってみると、国民性がまるで違うことがよく分る。アメリカ人はいい加減な推測や実証的裏付けに欠ける希望的観測にはけっして納得しないし、フランス人は言い出したら最後少々のことでは自説を翻《ひるがえ》さないし、中国人は狡《ずる》いといってもいいくらい粘り強く相手の譲歩を待つといった按配《あんばい》で、その姿勢を崩すことは少ない。
とかく経済力が優先すると相手の誇りを忘れがちになるものだが、それぞれの民族の誇りを知り尊重することが、日本人の本当の国際化への脱皮の第一歩ではないだろうか。