三日月が出ている。それでも砂浜は、星明かりで黄昏時《たそがれどき》くらいには明るい。二人の影さえも、足元には見分けられた。
「こんな晩だろうか、海亀が卵を産みにやってくるのは」
明生が言った。なつかしい声だ。耳に快く、胸に沁《し》みいるような響きをもっている。
「一度でいいから見てみたい」
舞子はその産卵場面を思い浮かべる。懐中電灯を親亀にあてるなど不躾《ぶしつけ》なことはしたくない。あくまでも月明かりの下で、息をひそめて眺めるのだ。母亀はこちらが危害を加えないと知れば、じっと動かずに、卵を次々と産み落とすだろう。白くピンポン玉のような、少しネバつく粘液に包まれた卵を──。
三十分あるいは一時間かけて産卵している間、母亀は何度か目に涙を浮かべるという話を聞いたことがある。わが身の命と引き換えに、子を産める幸運に感謝しているのだろうか。たぶん、そうだろう。悲しみの涙などであるはずがない。一年を荒海で耐えて生き抜き、伴侶《はんりよ》と邂逅《かいこう》し、その命を授かったのだから、砂の上に横たわっている間は、苦しいながらも恍惚《こうこつ》とした時間なのだ。
自分も赤ん坊を生むとき、涙を流すだろうか。舞子はふと考える。
全身の力をふりしぼり、胎内にあったものをついに外界に送り出すとき、そして赤ん坊の第一声を聞くとき、泣き出すはずだ。それは悲しみの涙などであるはずがない。明生の分身を、この身体《からだ》で養い続け、人のかたちとして生み出すのだから。
明生の手を強く握りしめる。明生は波の音を楽しむように、しばらく黙った。
昼間の高い波のうねりが嘘《うそ》のように、控え目な波の寄せ返しになっていた。
海も夜は眠るのだろうか。
渚は波が打ち寄せ、水に覆われたところだけ白く光る。踏みしだく砂の感触、冷たい水の感覚が快い。
「ぼくは舞子が楽しんでいる姿を眺めていると、心から嬉《うれ》しくなる。朝食の席で、パパイアを食べているとき、ベランダに出て深呼吸をしているとき、芝生の間にどんな小さな花が咲いているか、膝《ひざ》をついて調べているとき、ぼくは目を細めて見つめている」
「パパイアを食べる姿なんて嫌だ」
「実際おいしそう」
明生は笑った。
こんな夕闇《ゆうやみ》の迫る海岸なのに、海の上に漁火《いさりび》はひとつも見えない。夜に漁をするなど、この土地の村人たちは思いもよらぬのだろう。
「明生はこのあたり、ずい分歩いたでしょう」
「いろんな所に行ってみた。ブラジルって、正反対のものが矛盾なくおさまっている国。──貧と富、善と悪、文明と未開、白人と黒人、信仰と不信心、明と暗。それだけ、ふところの深い国なんだろうね。矛盾が当然だと、みんなが思っている。ぼくたち日本人にはない感覚だ。ぼくたちは統一とか画一とか均一が好きなのだから」
「その落差が恐いときがあるの。明暗の違い。明るいものの傍に、暗いものが口をあけて待っているような」
「そのほうが、人は一生懸命に生きるのかもしれない。暗い穴がどこにあるか、五感全部を使って察知しながら生きていかなければならないからね。いわば、ライブ感覚。そこが安全ボケした日本人と違うところ」
ライブ感覚──。明生の吐いた言葉が舞子の胸に深くつき刺さる。ブラジルに来て漠然と感じていたものが、そのひとことで言い当てられたような気がする。
何が起こるか分からない現場で、一瞬一瞬を精一杯生きる感覚。沼地の死体を目撃して以来、その感覚がますます研ぎすまされている。
「ライブ感覚のなかにいると、人はだんだんピュアになっていく」
今度は明生が舞子の手を握りしめる。「愛とか幸福とか、悲しみだとか、月や星について考えるようになる。お金とか名誉だとか、憎しみだとか、そんなドロドロしたものはどうでもよくなる。もっと美しいもの、もっと普遍的なものに、知らず知らず近づいていく。だからブラジルでは、貧しくても、星のように澄んだ心の持主がいる。日本だと、貧しいと心も貧しく、逆にお金がたっぷりあっても、心が腐ってくる」
明生の話を聞きながら、舞子は診療所で会ったダミアンを思い浮かべる。雨に濡《ぬ》れるのも構わず、地面に亀の絵を描き、いつか博物館に連れていってやると言ったのだ。
「心が腐るために生きるなんて、つまらない」
明生がぽつんと言い添える。
本当にそうだ。生きるというのは、頭上にある星のように、くっきりと光ることではないのか。ドロドロした醜いもの、腐ったものはどんなに大きな天体であっても、夜の暗闇《くらやみ》のなかで決して光らない。
浜辺とヤシ林の間に砂止めの仕切りがしてあると思ったのは、十数|艘《そう》の木舟だった。仕切りなら海岸線と平行になっているはずだが、それらはいずれも海に向かって、横にたてかけてある。幅一メートル、長さ五メートルくらいのもので、丸太を七、八本横に並べて結わえ、後方に坐《すわ》る台を取りつけただけの簡単なつくりだ。その舟に乗って漁師が海に出ているところは、遠くから眺めたことがある。椅子《いす》に腰かけて櫂《かい》を操り、釣糸を垂れているので、なんとものどかに思えた。
舟と舟との間に腰をおろす。左右の舟が衝立《ついたて》の役目をする。前方に、月に照らされた浜と海が見える。
「星がきれいだ。日本にはこんなに星はないよ」
仰向けになった明生が言う。
「日本では星は見なかったけど、ブラジルの夜はどこか違う、変だという気がした。それは星空のせいだったのだわ。日本と星座が違うので、そう感じたのよ。やっぱり日本でも知らないうちに星の位置は、頭のなかに刻み込まれていたのね」
「それは小さな頃の記憶かもしれない。ぼくたちの小さな頃までは、日本にも星空があった」
明生の声が快く舞子の耳に届く。この声が好きだった。女の人が幸せになるかどうか、顔や形より声を聞けば判ると言ったのも明生だ。不必要にカン高かったり、濁った声の女性は、幸福に縁がないそうだ。
それは男性に対しても言えるのではないかと舞子は思う。耳に快いバリトンの持主は、相手を幸せにしてくれるのだ。だから、当の男性も幸せになる。
明生の声の他は、潮騒《しおさい》しか聞こえない。
幸せなこの時間がいつまでも続いてくれればいい。朝になり、昼が来てまた夜が訪れる。変化はあっても、星空がいつも変わらぬ姿で立ち現れるように、明生との時間は未来|永劫《えいごう》まで続いて欲しい。
舞子は身を起こして、明生の胸に耳をあてる。押しつけた耳に鼓動が聞こえ、別の耳には海の音が届く。鼓動と潮騒の間に自分がいた。明生の腕が、舞子の髪を優しく撫《な》でる。
「本当に夢のよう。明生と二人でいられるなんて」
「夢でも何でもない。星の輝きや波の音と同じように、確かなことなんだ」
「本当にそう」
舞子は言い、手で明生の胸の広がりを確かめる。なめらかな感触が好きだった。
明生が舞子の身体を引き寄せ、唇を合わせる。
「舞子、舞子、舞子」
舞子の首筋に唇を這《は》わせながら何度も口にする。
舞子は耳なし芳一の話を思い出す。芳一は身体全体に南無妙法蓮華経を書かれたが、明生は舞子の肌のすべてに、舞子の名前を刻みつけそうな勢いだ。
舞子はたまらず、身を横たえる。渚が一瞬斜めになり、青光りする波頭が視野を横切った。あとは満天の星が目を覆った。静かに目を閉じる。明生が衣服を脱がせていくのが分かった。唇の愛撫《あいぶ》は、またしても耳なし芳一だ。身体全体が燃え上がり、明生の名を呼ぶ。
明生の身体がすぐ上にあった。星空を遮断するように、明生の顔がシルエットになる。二つの身体がひとつになっていた。両側を舟で仕切られた月明かりのなかで、お互いの名前だけを呼びかわす。
身も心も激しく反応するのが舞子には分かる。
明生が上体を離そうとしたとき、舞子もその身体にしがみつき、胸に顔を押しあてる。最後の瞬間まで溶け合っていたかった。
大波が渚を洗うように、それは繰り返し繰り返し舞子を襲い、そのたびに明生の背に爪《つめ》をたてた。
震えが何度か来た。
重なり合ったままで、海の音を聞く。波と波との間隔が間遠になっていた。先刻まで、急《せ》かすように押し寄せていた波が、今は眠るようにリズムを緩めている。
明生の指に自分の指をからませる。まるで波に漂う舟を舫綱《もやいづな》で繋《つな》ぎとめるかのように。
「離れないでね」
「離れないさ。いつも傍にいる」
明生の包み込むような声が返ってくる。舞子はその瞬間、沼地に横たわる金髪の妊婦を思い浮かべる。あれは白昼夢であって欲しい。
「何を考えている?」
明生が訊《き》く。
「何も。ただ、瞼《まぶた》を閉じても星の散らばりが見えるから、不思議」
まるで瞼は透明なスクリーンだ。まばたきをしても、星の群は消えずにそのまま夜空にはめこまれている。
舞子は星の散らばりに形をみつけようとする。自分と明生だけの星座をつくり出すのだ。例えばヤシ座。木がすっくと伸び、先の方で葉がいくつか垂れ下がる。あるいは、釣り舟座。長い舟の上で、人が釣竿《つりざお》を垂れている。
そんな形に近い星の群はあっても、どこかに不要な星が混じって、実際は別の形になってしまう。
今夜見つけてしまわなくてもいい。ここに滞在している間に、明生と自分だけが知っている星座を見つけ出すのだ。舞子は自分の裸身を星の下にさらけ出す。乳房にも太腿《ふともも》にも星の光があたるのを感じる。さらさらとした快い光だ。
「マイコさん」
海の方角から声がする。波が寄せるようにその声は何度か繰り返された。
舞子は暗闇の中で目を開けていた。目が慣れてくると、周囲が少しずつはっきりしてきた。ガラス台の上に横になり、透明な曲面の壁に取り囲まれている。
起き上がって自分の足で立つ。もうどう歩いていいかは覚えていた。海岸の砂を踏むような気持で足を進めた。
扉の外の茶室に辺留無戸《ヘルムート》が坐って、舞子に声を掛ける。
「どう、そちらの生活に慣れましたか」
「慣れました」
舞子は微笑を返す。
「何か不都合なことは?」
「何もないです。友達もできたし」
「それは良かった。ホームシックにはかかりませんね」
試すような訊き方だ。
「日本のことさえ思い出せません」
自分でも不思議ではあった。ここの生活に満足しているのか、それとも必死で溶けこもうとしているのか。
「たぶんそうでしょう。あなたの顔を見れば分かる」
辺留無戸は口のへりを吊《つ》り上げて笑った。
「もうすぐですよ。あなたが待ち望んでいる日は」
「はい」
素直な返事になっている。待ち望んだ日の意味は理解できる。
辺留無戸は立って隣室に移り、不動明王の前に正座した。舞子はその背後から不動明王の顔を眺める。もう何度見たことだろう。どういう表情をしているか、空で覚えていてもよさそうだが、いつも初めて見るような感覚に陥るのだ。
不動明王の前で辺留無戸が読経する。その背中に合掌したあと舞子は出口に向かう。
自動扉の前に立ったとき、外は雪かもしれないという思いにかられた。不動明王に最初に出会った日の雪の光景が蘇《よみがえ》り、全身に寒さを感じた。あの日、寒さから逃れるようにして御堂の中に足を踏み入れ、護摩焚《ごまだ》きの炎に遭遇したのだ。
しかし扉の外は寒くも暑くもない。大理石の母子像の間を静かに進む。
「ミズ・キタゾノ。明日はドクター・ツムラの診察です」
ジルヴィーが部屋から出て来て言った。いつも笑顔をつくってはくれるが、笑いの形になっているのは口元だけで、目は笑わない。紙片で顔の下半分を隠してしまえば、怒っている顔になるはずだ。
エレベーターを降り、ロビーを抜けて本館の外に出る。雪景色とは反対の、むき出しの日射しが照りつけていた。駐車場のアスファルトの上を歩く気にならず、横道にそれ、ハイビスカスの植込みに沿った小径《こみち》に足が向く。
赤と黄色のハイビスカスの間を歩くうちに、突然、沼地のあの現場に行ってみる気になっていた。足早に入口の方に急いだ。
ポールの旗がすべて垂れている。それでも日の丸と韓国の旗、フランスの三色旗は見分けられた。
守衛は舞子の顔をみると、開いていた通用門の方へどうぞという仕草をした。哨舎《しようしや》の中にも二人守衛がいて、テーブルに足を投げ上げ、サッカーのテレビ中継を見ていた。
高いヤシの並木道を三百メートルほど歩いた。
道端に、打ち捨てられたヤシの実があり、そこから新たな芽が出ていた。もうその芽も一メートルほどの高さになっている。
小径にそれて橋の方に向かう。
広い沼には釣り人の姿もなく、ひっそりと静まり返っている。
足元で羽音がして、カラスよりは大きい鳥が飛び立った。青味がかった美しい羽根の色だ。鳥は低く沼の上を飛びながら、そのまま森の中に姿を消した。
馬で渡った木橋の付近まで来る。沼には、水があり、仕方なく沼の端を迂回《うかい》した。
緑のなかで、ピンクのTシャツに白いスパッツという服装は目立つ。しかし引き返してしまえば悔いが残る。
雑草を踏みしだきながら水辺を歩き、十分くらいして森に行きつく。竹の大きな株があちこちにあり、その間を雑木が埋めている。通路らしきものはない。なぜこんな場所に彼女がいたのか不思議だ。
木橋の方角を沼の様子から大方の見当をつけた。森の縁に蹄《ひづめ》の跡があった。恐らくロベリオが馬をとめた場所だ。その向こうに水草が蹴散《けち》らされ、人と蹄の入り乱れた跡がかすかに見えた。
舞子は目をこらし、死体が横たわっていた場所を探す。血痕《けつこん》はもうどこにも残っていなかった。
車で乗りつけた男たちが駆けつけ、死体を担架に乗せたのを思い起こす。
その痕跡は残っているが、水草に付着していたはずの血の跡がない。
沼には強い復原力があって小さな凹凸や濁った水くらいは、またたく間に消し去ってしまうのかもしれない。数日後には、人馬の跡さえも消えてしまう可能性もあった。
舞子は森の中に眼を向ける。身重の女性が悲鳴を上げたのはたぶん森の中であり、そこから逃れ出ようとして沼の縁まで辿《たど》りついたのだ。
しかし森の中の地面は下草か落葉で覆われ、足跡などつきようがない。
もう一度沼の周囲を見回す。
やはりその場所以外は考えられない。死体とともに、現場すら消失しかけている。これなら警察官を連れてきたところで、相手にしてくれないだろう。
腰を上げようとして、地面に眼がいく。黄緑色の植物が密生していた。高さは十四、五センチで、カマキリのような葉が伸び、手に相当するところに小さな壺《つぼ》がひとつぶらさがっている。壺の内側には、下に向かって細かい毛が密集していた。食虫植物だと分かったのは、小さい虫がその壺の中にはいったまま出て来なかったからだ。
中を覗くと、虫は細かい毛にはばまれて抜け出せないでいた。断続的に羽根を震わせるだけだ。毛の向きから考えて、入るのは容易で、出るのは難しいらしい。
舞子はそのうちの一株を手で掘り上げ、ハンカチに包む。
立ち上がり、木橋の方向を眺める。明るかった空が陰り始めていた。舞子は急ぎ足でその場を離れる。森の縁を駆け、木橋を渡った。
門の近くまで戻ったとき、もう雨がパラつき出す。守衛は早く帰ったほうがいいと言うように、駆け足の真似をした。
部屋にはいり、ベランダに出た。プランターには赤と白のベゴニアが植えられていたが、空いた場所に、ハンカチに包んだ株を植える。
スコールは、土砂降りに変わり、プランターの上もまたたく間に湿ってくる。
手を洗い、濡《ぬ》れた髪をタオルで拭《ふ》いた。
寛順《カンスン》の部屋の戸を叩《たた》いたが返事はない。
雨の降り込む廊下を小走りで通り抜ける。
寛順はカフェテラスにひとり坐《すわ》っていた。
「どこに行っていたの。心配したわ」
軒下に垂らされた雨よけのビニールに雨滴が当たり、大きな音をたてた。いきおい、話し声も大きくなる。
「沼地の向こうの森まで。ほら、例のことがあったところ」
「何をしに?」
舞子の返事に、寛順の顔色が変わった。
「あそこがどうなっているのか、見てみたかったの」
「————」
「跡形もなくなっていたわ。血痕もなかった。この雨で、すべてが洗い流されるはずよ」
「誰からも見られなかった?」
「見られなかったと思う」
「危いわ。ロベリオが言ったこと忘れたの?」
「ロベリオも、あそこに行くなとは言わなかった」
激しい雨音にかき消されないように、大声でサンドイッチを注文する。寛順はコーヒーを追加した。
「でもね、寛順。わたしにはひと事には思えない。こちらの新聞なんか読めないけど、きっとどの新聞も報じていないわ。もし事件になっているなら、この病院にも警官が来るし、第一あの現場は検証のために立入り禁止になっているはず。彼女は葬り去られたのよ。それも一度ではなく二度」
舞子は寛順の目の前で指を二本立てた。
「一度は殺され、二度目はその死も抹殺されたということね」
寛順が間を置いてから、重々しく言った。
「そう。彼女の叫び声がまだ耳に残っている」
「わたしだって、目を閉じるとあの光景が浮かんでくる。地面に横たわる身体《からだ》。お腹が大きかった──」
寛順はビニールシートの向こうの雨脚をしばらく見つめたあとで、言葉を継いだ。「でもね、それとこれとは別。ロベリオの忠告は守ったほうがいい」
寛順が重々しく念を押す。
海の方角が少し明るくなっていた。しかし雨脚はすぐには衰えず、舞子と寛順がコーヒーを飲み終えた頃に小降りになり、その数分後にはピタリと止んだ。
「ロベリオだわ」
寛順が低い声で言う。
ビニールシートがはずされると、その席から庭園やプールが見渡せた。
ロベリオは長い柄のついた網を手にして、プールの中に散った木の葉を取り出している。いつでも鼻唄《はなうた》を口にしているような日頃の陽気さは消え、考え込んでいるような表情だ。
落葉を全部取り終えると、網を手にしてレストランの陰に姿を消した。
「わたしたちが、何にも気にしていないことを示すために、乗馬の練習は続けるべきよ」
寛順が言った。
「乗るには勇気がいる」
舞子は答える。実際、馬の背に跨《また》がっていると例の悲鳴を聞くような気がする。
「明日の午後、申し込んでおこうか。二人一緒なら平気よ。予定はどうなっているの」
「午後はあいている」
舞子はジルヴィーの言葉を思い出す。一週間毎のスケジュール表でも渡してくれれば良さそうなのに、翌日の分しか知らせないのは不自然で、あたかもこちら側の自由を束縛するようなやり方だ。
「海の方に行ってみようか。食後の散歩」
寛順が腰を上げる。
ロベリオが戻って来て、プールサイドにある濡れたベンチを丁寧に拭いている。二人に気づいた様子はない。
砂浜の上でシューズを脱ぎ、裸足《はだし》で歩いた。普段は熱をもっている砂も、今はひやりとしている。足首まで濡らす波のほうが生温かった。
「あの先に、海亀の博物館があるそうなの」
誰からか聞いたのだろう、寛順も知っていた。
「行ってみる?」
「今日は疲れた。またの機会がいい」
今はそんな気分になれない。
真中が擦り減って指輪のように穴のあいた貝を見つける。小指にならはいりそうだ。
波音のあい間に、二人の名前を呼ぶ声が届く。振り返ると、ヤシの木の下でユゲットが手を振っていた。
濡れた寝椅子《ねいす》を三つ並べ、ハンカチで拭き上げる。
ユゲットを真中にして横になった。
「お昼に会えるかと思っていたけど、どうしたの」
「雨も降っていたし、お腹も空かないから、ずっと部屋にいた」
ユゲットは、少しふくれたお腹をいたわるように、寝椅子の角度を調節する。「スコールが来ると、食欲がなくなるのよ。雨を見ながら何か食べる気がしないのね。だって、ここの雨って騒々しいでしょう。フランスのように静かに降る雨ではない」
「わたしはスコールがあがったとたん、お腹がすく」
舞子が言うと、二人とも笑った。
「本当はね。ドクター・ツムラから、嫌なことを聞いたの。そのショックもあったのよ」
「何?」
寛順が訊《き》く。
「自分の患者が急死した話。その患者、わたしも知っていた」
「女の人?」
舞子は何気なく質問していた。ユゲットの向こうで、寛順が上体をもたげた。
「そう。名前は、バーバラ。ドイツ国籍だけど母方にイタリア人の血が混じっていると言っていた」
舞子は寛順と眼を合わせる。二人とも同じ思いだった。
「どんな病気で亡くなったの?」
訊いたのは寛順だ。質問は自分に任せろといった表情を舞子にしてみせる。
「自殺。病院の屋上から飛び降りたのよ」
〈スイサイド〉という英語が舞子には分からなかったが、ユゲットがしてみせた仕草と、それに続く単語で理解できた。寛順の顔からすっと血の気がひく。
「それで、死体は、そのドクター・ツムラが見たの?」
寛順が抑揚のない声で訊く。
「呼ばれて駆けつけたときは、もう息絶えていたそうだわ。それもそうね。病院の屋上からだと即死のはず」
「いつのことなの」
寛順の質問が舞子の耳にも届く。舞子は視線を宙に浮かしたまま、ユゲットの返事を待った。
「昨日の夕方らしいわ。スキャンダルだから病院は黙っているのね。誰ひとりそんな話はしなかったし、職員だって口にしない。ドクター・ツムラから聞いてびっくりした」
ユゲットは嘆息する。
「その人、やはり妊娠していた?」
舞子が訊きたかった質問を、寛順が口にしていた。
「確か六ヵ月。もうすぐ超音波検査で男の子か女の子が判ると言っていたから」
寛順は舞子の顔を見て小さく頷《うなず》く。
ツムラ医師が見たという死体は、沼地にあった死体と同じものだ。
首筋の切傷に彼は気がつかなかったのだろうか。
四、五十メートル離れたヤシの木陰に警備員が立っていた。こちらは見ていないが、トランシーバーに口を当て、何か連絡している。
「その人、死ぬほどの悩み事があったのかしら」
上体を寝せたあと寛順が訊いた。
「何か悩んでいる様子はあったわ。それも、この半月くらいのこと。それ以前は陽気で、やっぱりラテン系の血が混じっていると思ったくらい」
沼地にあった死体が屋上から放り投げられ、落下していく光景が浮かぶ。
「可哀相《かわいそう》」
思わず舞子は口にする。
「もっと彼女の悩みを聞いてやればよかった」
ユゲットがポツリと漏らす。
トランシーバーを手にした警備員が、三人の前をゆっくり通り過ぎる。寛順はその姿を全く無視して、寝椅子の上に頭をのせ、目を閉じた。
「サルヴァドールには、バーバラの知り合いがいたはずだわ」
ユゲットが言った。「部屋に帰れば、その住所も電話番号も判る。いつか彼女がそこに遊びに行ったとき、電話をかけたことがあった。画家かデザイナーで、一度連れていってくれると言っていたけど、とうとう行けずじまい。彼女が亡くなったのも、もしかしたらまだ知らないかもしれない。今日のうちに連絡してみる」
「知らせたほうが絶対いい」
舞子は思わず言っていた。このままだと、彼女の本当の死因は闇に葬られ、自殺死にされてしまうのだ。