三時に受付の前で待っていると、ロベリオがやって来た。白のショートパンツに黄色いTシャツを着て、裸足《はだし》だ。舞子と寛順を見て、何だあんたたちかというような顔をした。
「馬に乗ったことは?」
「二人とも初めて」
寛順が代表して答える。
「だったら今日は歩くだけ。走るのはまだ先」
ロベリオはぶっきらぼうに言う。
芝生の上にいつもの三頭の馬がいた。つながれておらず、仲良く寄り添って草を食《は》んでいる。
ロベリオは寛順に白馬、舞子に栗毛の馬をあてがった。
「まずは乗り方」
そう言って、二人をそれぞれの馬の横に立たせる。
遠くから見るよりも倍近い大きさに舞子は圧倒される。自分の背丈よりも高い動物に、こんなに近づいたことはない。ぬいぐるみの動物と違って、腹の毛は硬く、生温かく、しかも呼吸のたびに動く。馬は首をもたげたまま横目で舞子をうかがうようにした。
ロベリオは少し離れた所で黒馬に二度乗り降りして手本を示す。そのあと、舞子たちに手取り足取りで要領を伝授する。
どうやら、はずみをつけて一気に跨《また》がるのがコツらしい。馬は相当訓練されているようで、舞子と寛順が及び腰で何度も失敗するのを、我慢づよく耐えている。ロベリオに尻《しり》を押され五、六度試すうちに、なんとか馬の背に跨がれるようになった。二階にいるような高さだ。
「あんたたちは、馬から好かれている」
二頭の手綱を引きながらロベリオが言う。まんざらお世辞でもなさそうだ。
ゆっくりと芝生の上を一周、二周する。どこか自動車学校での訓練に似ていた。自動車と異なりハンドルやブレーキがないだけ楽だが、振り落とされる危険度は高い。舞子は寛順の方を見て、無理に笑った。寛順はあまり恐がっていない。白い馬に赤いパンツと橙色の帽子がよく映える。小さい時からブランコに乗りつけているせいで、高い所で揺れるのも平気なのかもしれない。
「今度は、自分たちだけで一周。止まるときは、手綱をぐっと手前に引けばいい。それがブレーキ」
ロベリオが手綱さばきをしてみせ、放すと、馬は心得たとばかり、歩みを速めた。もともとの順番が決まっているのか、寛順の白馬が先頭に立ち、舞子の栗毛も心得顔でそのあとに続く。この速さなら振り落とされる心配はなさそうだ。一周を無事に回り終えたところで、手綱をぐっと引く。馬はまるでペダルを踏んだように停止した。自動車よりも素直な停止だ。
「さあ今度は三人で出発」
ロベリオが身軽なこなしで黒馬に跨がる。そのまま歩き出すと、白馬も栗毛もあとに続いた。一番後ろになった舞子はうろたえる。置いてきぼりにされたら、帰り道も判らない。落馬のときは大声をあげることに決めて、いくらか気が軽くなった。
馬は国旗掲揚台の横を通って門の方に向かう。ロベリオが振り返るたびに、舞子は精一杯の笑顔を返した。
守衛が門を開く。高級乗用車を送るときのような丁重さで三頭を通し、また閉めた。
赤土の道をしずしずと進む。池が見えていたが、周囲に眼を配る余裕などない。赤土の上だと落馬したとき痛いはずだ。舞子は馬のたて髪ばかり見つめた。
百メートルほど行くと、赤土道からはずれて小径《こみち》にはいる。左右は沼地で、水草が青と黄色の花をつけていた。舞子は頭を巡らせて病院の方向を確かめる。左後方の樹木の間に本館の建物が見えた。
川に細い土橋がかかっていた。馬がやっと行き交えるくらいの幅で、三、四メートル下に浅い流れがあった。馬の背からは、川底がずっと下にあるように見え、身がすくむ。川を渡るとヤシ林にはいった。陽がいくらか遮られ、ひやりとする。
海が見えた。渚《なぎさ》に白い泡が積もっている。昨日ユゲットと訪れた海岸だろう。
「あれは塩の花よ」
寛順に日本語で知らせる。
砂浜を横切って、馬は波打ち際まで進んだ。
寛順がロベリオに何か訊く。
「やっぱり舞子さんの言う通り」
舞子たちが珍しがるのを、ロベリオは逆に不思議がる。寛順と舞子の馬を自分の右側に歩かせた。寄せくる波を、ロベリオの乗る黒馬が足で蹴散《けち》らす。
いつの間にか、馬の動きに身体が順応していた。背筋をまっすぐにして、周囲の景色を眺める余裕ができている。
「気持いい。映画の主人公になったみたい」
寛順が舞子を振り返る。
「寛順は本当に白馬が似合う。カメラを持ってくれば良かった。きれいなプリンセス」
「プリンセス」
寛順が英語に直してロベリオに言う。
「二人のプリンセス。自分はそれを守るナイト」
ロベリオが嬉しそうに答える。
しばらく行くと塩の花は消えて、普通の砂浜になった。
「タルタルーガ?」
舞子がダミアンから習った単語を口にする。ロベリオは首を振った。
「海亀は反対側、病院より向こうの海岸」
ロベリオは英語で答え、大きく身体を捻る。後方に病院の本館だけがヤシの林の上に突き出ている。村のたたずまいは樹木のなかにおさまって見えない。
遠くの海岸に人が出ていた。近くに観光客用のホテルがあるのだろう。砂浜には小屋がたち並び、その前にパラソルを広げた椅子《いす》とテーブルがいくつも置かれていた。
客のほとんどが白人だ。水着になって砂の上に寝ころんだり、海にはいって泳いでいる。
舞子はそこまで行ってみたかったが、今日はここまでというようにロベリオが手前のところでUターンした。
今度は寛順と舞子の馬が波打ち際を歩く。
馬の足元に打ち寄せる波を見ていると落馬しそうになる。舞子は必死で足を踏んばった。
ロベリオが速度を上げる。白馬と栗毛も黒馬にならった。揺れのピッチも速くなり、舞子はますます身を硬くした。
橋の近くまで戻ってきたとき、悲鳴のようなものが聞こえた。
女性の声だった。英語で「ヘルプ」と叫んでいるのだと舞子が理解した瞬間、ロベリオは馬を駆って沼地の方に走り出していた。
「何かしら」
寛順と顔を見合わせる。馬の手綱を引き締め、停止させるのが、お互い精一杯だ。
ロベリオの馬は沼地を横切って疾走する。水しぶきが白く上がった。もう悲鳴はやんでいた。
ロベリオは森と沼地の境まで辿《たど》りつくと、慌てて馬から降りる。そのまま地面にかがみ込み、姿が見えなくなった。黒馬だけは首をもたげて、いい汗をかいたとでもいいたげにいなないた。
「行ってみよう」
寛順が言う。恐る恐る馬の腹を蹴《け》って、道から沼地へはいった。舞子の栗毛は何の指示もしないのに、白馬のあとに続いた。
沼地の中央まで進んだとき、ロベリオが立ち上がるのが見えた。舞子と寛順の方に向かって、来てはいけないというように首を振った。しかし寛順はそのまま馬を歩かせる。栗毛もそれに続く。ロベリオは素早く馬に跨がる。
「ここにいてくれ、知らせてくる」
英語で言い残すと、険しい表情で走り出す。すれ違うとき、黄色いTシャツの胸元と腕に、赤い血のようなものがついているのが見えた。
馬に乗っていなければ、舞子もその場に立ちつくしていたに違いない。しかし、寛順の乗った白馬も、舞子の栗毛も、当然のことのように森の方へ歩みを進めた。
キャーッと叫んだのは寛順だ。嫌なものを目にしたとでもいうように、顔をそむける。舞子は反射的に、寛順が眼をやった方向に視線を向ける。視野にはいったのは、白と赤と金色の色彩だった。褐色を主体にした沼地のなかで、その三色はいかにもどぎつかった。
気が遠くなりかけるのを必死でこらえる。馬の背中にしがみつく。
金色は仰向けに倒れた女性の髪の色、白は彼女が身につけているワンピース、そして赤は、血の色──。そこまで考えて、舞子は目を閉じる。
「舞子、どうしよう」
寛順から問いかけられて我に返る。馬から降りるべきだと思った。足元が濡《ぬ》れるなどどうでもよかった。倒れている女性は沼地に横たわっているのだ。
自分でも不思議なくらい軽やかに、下馬していた。寛順もそれにならい、二人で寄り添いながら、女性に近づく。
寛順は落ち着きをとり戻していた。かがみ込むと、胸元をじっと見つめる。決心したように、そこに耳をつけた。
「死んでいる」
そうだろうと舞子は思った。首筋が真一文字に深くえぐられ、そこから出た血液が、白いシャツと地面を赤く染めていたからだ。
寛順は蒼白《そうはく》な顔で、周囲を見渡す。まだ付近に犯人が潜んではいないかというように、腰をかがめた。
「犯人はこの近くよ。悲鳴を聞いてから、まだ五分もたっていない」
寛順が言うのに、舞子は返事しようにも声が出ない。立っていると危険な気がして、寛順と同じようにかがみ込んだ。
仰向けになった女性の腹部に視線がいったのはそのときだ。スリムな身体つきの割には、そこだけが異様に膨らんでいる。
「お腹の中に赤ちゃんがいるのではない?」
寛順に訊《き》いた。
彼女は今初めて気がついたというように、腹部に眼を向ける。
「妊娠していたのね」
寛順は蒼白の顔を舞子に向けた。「この人、きっとわたしたちと同じ入院患者よ。ここで出産するつもりだったのよ」
改めて女性の顔に見入る。陽焼けはしているが美しい白い肌だ。目はうっすらと開かれ、唇の間からきれいな歯がのぞいている。
傍にいた白い馬がいななく。舞子は立ち上がって橋の方を眺める。黒っぽいワゴン車が橋の向こうに停車し、中から男が三人出てきた。その後方から、馬に乗ったロベリオが追いつき、先導するようにして沼地に駆け込む。男たちは担架を手にして後に続く。
舞子はどこか妙だという思いがした。なぜ救急車が来ないのだろう。それともロベリオはもうこの女性が息絶えていたのが、はっきり判っていたのだろうか。
「二人とも、さあ馬に乗って」
ロベリオが険しい口調で命じた。
舞子は栗毛に近寄り手綱をとったが、あぶみに足がかからない。三、四回試みて、ようやく跨《また》がった。もうそのときには、男たちが死体を担架に載せて、橋のたもとまで運んでいた。ワゴンの後部ドアを開けて担架を入れると、二十メートルほど戻り、向きを変えて走り去った。
ロベリオは何事もなかったように、平然と馬を歩かせる。橋を渡って門の近くまで来たとき、馬を停めた。
「さっきのことは誰にも言わないように」
ロベリオは首を横に振った。もし口外すれば大変なことになるぞというすごみが感じられる。
守衛が門を開けてくれた。死体を運んだワゴンもここから病院の敷地内にはいったのだろうか。それともどこか別の場所に行ってしまったのか。付近を見渡しても、それらしい車はなかった。
芝生の上のポールに、各国の国旗が翻っている。死んだ女性がこの病院の入院患者だとすれば、この国旗のうちのどれかが国籍であるはずだ。馬の背に揺られながら、舞子は考えた。
「ありがとう、ロベリオ」
馬からおり、手綱を渡しながら寛順が言う。
「どういたしまして、ミズ・リーとミズ・──」
ロベリオは舞子の方をじっと眺める。
「北園です」
「ミズ・キタゾノ」
ロベリオは頭の中に刻みつけたとでもいうように、口の中で何か唱えた。
寛順が礼を言うのを真似て、舞子も英語でロベリオに感謝する。
「また、馬に乗りたいときはいつでもどうぞ」
そう答えたとき、ロベリオは初めて笑顔を見せた。
寛順と連れだって歩く。お互い黙っているのに、滞在棟ではなく、人の声のするプールサイドに近づいていた。まだ先刻の生々しい光景が頭から去らない。寛順も同じなのだろう、思いつめた顔をまっすぐ前に向けている。まるで余計な話はしてはいけないとでもいうように唇を引き締めていた。
プールでは水しぶきがあがっている。妊婦たちの水球遊びだ。
水しぶきのかからないところに木椅子が空いていた。二つを引き寄せて、その上に身体を横たえる。
「部屋で話をするより、ここのほうがいいと思ったの」
妊婦たちの歓声にかき消されない程度のはっきりした声で、寛順が言った。「まだ身体が震えているわ。何が何だか分からないまま馬に跨がっていた」
確かにそうだ。あの光景を目撃してからまだ二十分そこらしか経っていない。夢だったのかと思うほど、目の前の屈託のない光景とは落差がある。
「どうしてロベリオは救急車を呼ばなかったのかしら」
舞子は疑問を口にした。
「救急車も必要かもしれないけど、もう息はしていなかったから、呼ばなければいけなかったのは警察よ。現場をそのまま保存して、もちろん死体を動かさずに調べるのが本当」
「じゃ、あのワゴンは何のために来たのかしら」
「死体を片付けるためよ」
寛順の日本語が、〈死体〉の箇所で独特の言い方になる。注意深く発音するためか、シタイがシダイと濁り、それがまた舞子の頭のなかで不気味に聞こえる。
「じゃ、彼女を殺した犯人をロベリオたちがかばっているの?」
近くに日本語の分かる人間はいないと知っていても、潜めた声になる。
「そうとは限らない。病院としては、これがスキャンダルになるのを恐れたのかもしれない」
「いずれにしても、ロベリオはあの女の人がこの病院の患者だと、すぐ分かったのね」
舞子はロベリオが馬からおりてしばらくかがんでいた光景を思い出す。二分か三分、いや実際は一分くらいの時間に過ぎなかったかもしれない。妊婦だということにロベリオも気づいたのか。
「顔を覚えていたのよ。それにもしかしたら、ペンダントもつけていたのかもしれない。わたしたちと同じように」
寛順は、ルームナンバーが刻印された自分のペンダントに手を触れる。
「わたしたちが駆けつけたときは、彼女はペンダントはしていなかったわ」
「していなかった。胸に耳をつけたから。ペンダントがあれば覚えているはず」
「ロベリオが隠したのね」
「その可能性が高いわ」
寛順が重々しく頷《うなず》く。
舞子は足に何かが当たったのを感じ、思わず周囲を見回す。水球のボールが、ヤシの木にぶつかって方角を転じ、こちら側まで飛んできていた。舞子はボールを拾い上げて投げ返す。
少し動いただけで、息切れがした。
二人の様子をどこからか見られている気がした。
「人ひとり殺されたのを、そんなに簡単に隠し通せるかしら」
震える声で、舞子は訊いた。
「病院ならできるわ。妊婦には何が起きても不思議じゃないのよ。急激な妊娠中毒症でもいいし、心不全や腎臓《じんぞう》の病気、何でもあるわ。仮に家族が来ても、首筋の傷くらいきれいに隠せる」
寛順の声が冷え冷えと胸に響く。
「でも、寛順とわたしは知っている──」
「そうなの」
寛順は軽く顎《あご》をひく。「ロベリオをのぞけばね。だから彼が恐い目でわたしたちに口封じしたのよ」
「病院にとって、わたしたちは邪魔な存在ということね」
「その邪魔さ加減も、彼女が誰に殺されたかで変わってくる。病院側が単純にスキャンダルだけを恐れているのなら、たいしたことにはならない。でも、殺した犯人と病院がつながっていれば、わたしたちは本当の邪魔者」
「邪魔者?」
「そうならないためにはロベリオが命じた通りにするのが唯一の道」
寛順はきっぱり言い、遠くから投げられた水球が見事にネットにはいったのを見て手を叩《たた》く。舞子も拍手した。
いつもと同じ楽団が静かな演奏をしている。ひとつ前の曲は〈イパネマの娘〉だったが、今聴いている曲名は知らない。初めて耳にする曲でないのは確かだ。
寛順はポルトガルワインをもうグラスに二杯飲み、今は三杯目だ。舞子は酔いを感じなかった。寛順も同じなのだろう。真剣な目をして、ユゲットの話に耳を傾けている。
夕食に来る前に、寛順と連れ立って部屋に戻った。プールサイドで立ち上がるとき、「もうこの話は、廊下や部屋の中では絶対にしないこと」と寛順が念を押した。
シャワーを浴びている間も、どこからか覗《のぞ》かれているような感覚を追い払えなかった。そそくさと着替え、薄化粧をする。髪をブラッシングしながら、死体の金髪をいつの間にか思い出していた。あれほど美しい女性なら、レストランで食事をしていても人目をひいたはずだ。ユゲットに訊いてみれば、知っている可能性は大きい。
「明生、こういうとき、どうすればいいの」
ベランダに出て、夕暮の庭と海を見やる。いま明生の姿はどこにもない。
そうだ忘れよう。あの事件はなかったことにすれば万事がうまくいく。昼間みた夢だったのだ。
「二人とも馬に乗っていたわね」
ユゲットが言った。「診察から帰りがけに廊下から見えた。ちょうど門からはいって戻ってくるところだった。堂々として、とても初心者とは思えない」
「振り落とされないようにするだけで精一杯。少し駆け足になったときは、身が縮むほど恐かった」
寛順が答える。
「ロベリオは教えるのが上手だしね」
ユゲットは舞子のほうに確かめる。
「本当にそうかもしれない。一日で、病院の周囲を一周できたのだから」
舞子は何気なく答えたが、再び、目のなかに湿地帯の様子が浮かび上がった。
寛順がじっと舞子を見つめる。それ以上余計なことは口外するなという眼だ。
「どの辺まで行ったの?」
「塩の花の広がっている海岸。ユゲットと行ったところ」
「ああ、あそこね。あの渚《なぎさ》もいいけど、潮がひいたときに、川|を遡《さかのぼ》って行くのもいい。きれいな水鳥が顔の傍をさっと横切るの。宝石みたいに、青や赤い小さな鳥が──」
「しばらく馬には乗らない」
寛順がポツリと言う。
「あら、どうして」
「恐くて」
寛順は笑ったが、彼女もまた頭のなかで、あの死体の横たわる光景を思い浮かべているのは確かだ。
曲がまた変わる。囁《ささや》くような歌声だったが、舞台の上で赤い口を開けている木彫と同じように、今の舞子にはどこか不気味さを帯びて感じられた。