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受精16

时间: 2020-09-30    进入日语论坛
核心提示:16「血液検査、ホルモン検査、尿検査、心電図、胸部レントゲン、腹部超音波検査、すべて正常。つまり、完璧《かんぺき》な母体に
(单词翻译:双击或拖选)
16
 
「血液検査、ホルモン検査、尿検査、心電図、胸部レントゲン、腹部超音波検査、すべて正常。つまり、完璧《かんぺき》な母体になることができます」
 ツムラ医師はコンピューターの画面を操作しながら言った。
「そうすると、もうこれからは検査は当分ないのですね」
「あとの検査は妊娠後です。確実に赤ん坊が育っているか、追跡します」
 ツムラ医師はすべて任せなさいという表情で、片目をつぶってみせる。日本人離れした仕草だ。
「コーヒーでもどうですか」
 コンピューターの画面を消して彼が言う。
「よろしいのですか」
「大丈夫です。日本からの患者さんは初めてですから、こういう時でないと話を聞けません」
「日本人は、これまで誰も来なかったのですか」
「日系ブラジル人はいても、日本から来た日本人はあなたが初めて。だから芝生の中の掲揚台に日の丸があがったのも初めて。あの旗を見ると嬉《うれ》しくなります」
 ツムラ医師は立ってコーヒーサーヴァーのスイッチを入れた。舞子にコーヒーを出す心づもりは初めからあったのだ。
「ツムラ先生は日本へ行ったことはあるのですか」
 後ろ姿に問いかける。
「あります。三年前です」
 振り向いた顔が懐かしそうにゆるむ。
「どちらへ」
「千葉大学の産婦人科。半年間、そこで超音波診断の研修をしました」
「じゃあ、その時、日本もあちこち見て回られたのですね」
「いいえ、祖父の出身地の熊本と、学会で行った京都だけです。あとは、東京に週末に何度か行きました」
 ツムラ医師は二人分のコーヒーを机の上に置いた。添えられた砂糖は黄色味を帯びた塊だった。
「祖母は天草《あまくさ》の出身ですが、そこにはとうとう行く機会はありませんでした」
 当時を思い起こすように、ゆっくりスプーンをかき回す。「熊本の親戚《しんせき》の家に泊まってみて、やっぱり自分はもう日本人ではないと思いました。何から何まで、慣れないことばかりです。言葉づかいはもちろん、洗顔からトイレ、食事まで。本当に地球の裏側に来たと感じました」
「千葉大学では、そんな体験はなかったのですか」
「大学は短期滞在用の宿舎があって、いつも十五名くらいの外国人が住んでいたのです。すべて西欧式でした。あれなら、サンパウロ大学の学生寮と同じです」
 舞子の目の前にいる三十歳を少しばかり過ぎた医師は、顔を見る限り、正真正銘の日本人だ。それなのに、日本の風習から遠く隔たったところに行ってしまっている。日本に住んでいた祖父から数えて、わずか三代というのにだ。
「たった半年間なのに、日本語は本当にお上手です」
 お世辞抜きの感想だった。
「日本語は子供時代に父母からも習ったし、中学、高校の頃は日本語セミナーにも通いました。こんな変わった言葉を勉強して何になるのかなと思っていましたが、実際留学してみて、言葉のうえではあまり苦労がなかったので、努力は報われました。しかし、今でも書くのは駄目です。日本の同僚なんかに日本語で手紙の返事を書くときは、パソコンを使います。あれだと、難しい漢字を書く必要がありませんから」
「この病院はもう長いのですか」
 日本語の会話だといろいろ訊きたくなる。いつもの控え目さが消えてしまう。
「まだ一年足らずです」
「この病院に来られたのは、技術が進んでいるからですか」
 どうしても訊いておきたかった質問だ。
「一種のヘッド・ハンティングでした」
 半ば得意気にツムラ医師は答える。
「雇用の条件も良かったし、病院の水準も一部の特殊技術では、大学病院を超えていました。しかし決定的な動機となったのは、この土地をあまり知らなかったことです」
「未知の場所への憧《あこが》れ?」
「そうです。日系ブラジル人というのは、ほとんどがサンパウロの周辺に住んでいます。それ以外の土地に定住しているのは、ほんのわずか。特に黒人文化が濃厚なこのサルヴァドール一帯は、日系人にとって縁遠い場所です。ブラジル人でありながら、ブラジルを知らないという後ろめたさはずっとありました」
「進んだ医療と、未知の土地への興味。その二つともかなえられたのですね」
「今のところは」
 ツムラ医師は答えたあとで言い澱《よど》む。「しかし、良いことずくめでないのは確かです。この地方の風物を知るといっても、そんなに出歩く暇はありません。医療のほうだって、悲しい出来事もあります」
「分かるような気がします」
 舞子は小さく相槌《あいづち》をうった。
「とくに産婦人科はそうなんです。生命を誕生させるそばで、人の命が消えていく──」
 ツムラ医師はコーヒーカップを口にもっていき、何か考える表情になった。
「ユゲットから聞いたのですけど、お腹の大きい女性が亡くなったとか」
 舞子は身じろぎもせずに言った。
「ミズ・マゾーが漏らしましたか。彼女にとってもショックだったのでしょうね。妊娠六ヵ月です。一度に二つの命が消えました」
「死ぬには、何か理由があったのでしょうか」
 舞子は〈自殺〉という単語を故意に避けた。
「全く分かりません。患者にとって、主治医なんか遠い存在なのでしょう。心の内までは見せてくれない。あなたもそうでしょう?」
 ツムラ医師が皮肉っぽく笑う。
「最初はそうでも、長いつきあいになるにつれて、そうでもなくなると思います」
 舞子は真剣に答える。
「あなたも何か気になることがあれば、ぼくに言って下さい。同じ日本人の血が流れているし、日本語で語り合えるのですから。それに、ブラジルはぼくの生まれた国。できることは何でもします」
 舞子は主治医が微笑《ほほえ》むのをじっと見つめる。初対面のとき、鼻髭《はなひげ》が何かわざとらしく思えたが、今はたいして気にならない。
「高い所から落ちた人の死体って、どんなふうになるのですか」
 舞子の質問に、ツムラ医師は驚いたような表情をした。
「あなたは、自殺死体に興味があるのですか」
「いえ、高いところから飛び降りるなんて、わたしにはとても恐くて──」
 舞子は背筋を伸ばして答える。
「人間も物も、本質的には同じです。皮袋の中に固い物を入れて、高い所から落とせばどうなるかの問題です」
 ツムラ医師は残酷さをいくらかでもやわらげる言い方をした。「皮袋の中味はぐしゃぐしゃに砕けます。もっとも、頭部だけは別です。これは卵を袋で包んだのと同じですから、殻は壊れ、中味もぐしゃぐしゃになっています。身体《からだ》の中の赤ん坊も、そうです。人間の皮膚は比較的強いので、丸い形は一応保たれていますが──」
 舞子は思わず顔をしかめる。首をえぐられたバーバラの死体も残酷そのものだったが、まがりなりにも美しい身体は保たれていた。しかし落下死体は、それとは比べものにならないくらいに悲惨ではないか。
「皮袋そのものは破れないのですか」
「落ちただけでは、そう簡単に破れません。ただ、ミズ・ハースのように、途中に何か余計な物があって、ひっかけられたりすると、皮膚も傷つきます」
「そういう場合、出血はどうなのでしょうか」
 舞子は、多量の出血が見られた彼女の死体を思い浮かべていた。あれだけの出血があれば、屋上から投げ落としたところで、もう血は出ないだろう。
「内臓に損傷があっても、身体の中に出血すれば、外からは判りません」
 ツムラ医師はそこまで答えてから、何かを思い出したように口をつぐんだ。
 これ以上は踏み込めない気がした。
「コーヒー、ごちそうさまでした」
 舞子は礼を言う。
「いいえ。いつかこのあたりを案内しましょう」
 ツムラ医師は立ち上がり、ドアを開けた。
 外来のロビーは患者で賑《にぎ》わっていた。
 子供連れの若夫婦、中年の男性に付き添われた若い妊婦など、小さな子供やお腹の大きい女性にばかり眼がいく。
 しばらく玄関ホールに坐《すわ》って、花束を掲げた大理石像を眺めた。白い肌に緑の衣裳《いしよう》が美しい。とても大理石の模様だとは思えない。
 カフェテリアまで戻る途中で、土産物店に寄った。絵葉書やガラス細工、砂絵などを売る店と、Tシャツや帽子、水着、サンダルを売る店が並んでいる。
 舞子は窓際にぶら下がっている風鈴のようなものに魅かれ、ドアを押した。
 風鈴は、陶磁器でも金属でもなく、色のついた石を五ミリほどの厚さに切り、五、六個を円形にテグスで吊《つ》るしたものだ。風で石片が揺れるときに互いがぶつかり、涼しい音をたてる。石の厚さと大きさで音色も異なった。
 黒人の女性店員は、椅子《いす》に腰かけて、舞子の様子をにこやかに眺めている。
 紫色の縞《しま》模様のある石と、琥珀《こはく》色の石が気に入ったが、音色をどちらにするか迷った。カン高く品のいい色は琥珀色のほうだが、涼しい音色は紫色の石だ。
「これをもらいます」
 舞子は紫のほうを選ぶ。店員は頷き、鉤《かぎ》から石風鈴をとりはずした。
「きれいな音でしょう」
 店員はにこやかな顔で言う。訓練を受けているのか、なめらかな英語だ。
「ストーン・サウンド」
「そう。石の音」
 舞子は日本語で言い直す。そう言えば、細い葉巻のような貝を何本か吊るして風鈴にしたのは日本でも見かけた。あれが貝の音とすれば、これは確かに石の音だ。ブラジルには似つかわしい。
 店員は石片をぴったり重ね合わせる。もともとひとつの石から切り出したものなので、原石の形になってしまう。石の表面は灰黒色で内部の切り口の美しさとは似ても似つかない。
 店員は石を輪ゴムで固め、さらにその上を薄い紙でくるんだ。舞子の胸にかかった鍵《かぎ》のペンダントを見て、部屋番号を記入した。舞子がサインをすると、複写になっている部分を、品物に添えて渡した。千円弱の値段になる。高いようでもあり、とてつもなく安いような気もした。
 初めての買物だった。病院にいる限り、現金を扱う機会はなかった。レストランやカフェテラスでの食事、部屋の冷蔵庫の中の飲み物、ブラウスなどのクリーニング、一切が無料だ。乗馬のレッスン料だってとられない。
 ユゲットが言っていたように、それは却って、不自由さを意味するのかもしれない。物の値段を知るのは、その土地を知る基本ではないだろうか。病院の中に一日中とどまっていてはいけないような気がする。
 ベランダの軒下に吊るした風鈴は網戸越しの風が当たると、澄んだ音をたてた。
 プランターのベゴニアの横で、植えたばかりの食虫植物が緑の葉を伸ばしている。水などやったことはないのに、もう完全に根づいていた。
 ドアにノックがあった。チェーンをかけたままで小さくドアを開ける。寛順だった。
「壁に掛けてある絵だけは違うのね」
 室内を見回して寛順が言う。
 ベッドの上にある黒人の顔を描いた絵は、ピカソばりの抽象画だが、もっと土俗的だ。舞子が気に入っていたのは、絵そのものではなく、竹でできた額縁だった。日本の竹と違って、肉質が厚く節が多く、その力強さが原色の絵によく似合っている。
「可愛い。買ったの?」
 寛順が、目ざとく石の風鈴を見つけていた。
「さっき。音もいいし、眺めるだけで美しい」
「ガラスかと思ったら石なのね」
 寛順が指で触れて、音を出す。「わたしが買ったのは砂絵」
「細首の瓶に色砂を詰めたものね」
 土産屋のショーウィンドウに飾ってあるのを見て知っていた。瓶は香水瓶の大きさから缶ビール大のものまでさまざまだが、中に描かれた絵は、海岸風景だ。海があり、砂浜があり、ヤシが繁り、家が並んでいる。海に舟が出ているところまで描いているものもあって、どうやってそれを作るのか、首をかしげたものだ。いまだにそれは分からない。
「机の上に置いているけど、見るたび不思議だと思う。色のついた砂を上から詰めていくとしても、ヤシの木を一本描くのだって難しい。ずっと解けないパズルが目の前にぶら下がっている感じ。それに比べると、風鈴はいい。時々聞きに来るわ」
 寛順はいかにも気に入ったというように、また指で石片を揺らせた。
「さっき、ドクター・ツムラに会った」
 舞子が言うと、寛順は唇に指をあて、眼で制した。
「食事に行こうか」
 それだけ言って、舞子を外に連れ出す。
「部屋の中での会話には気をつけないと。大切な話は、こうやって歩きながらが一番」
 舞子は寛順の言葉に頷《うなず》きながら、胸に吊るした鍵のペンダントに手をやる。まさかそこにまで盗聴器は仕掛けられてはいまいが、確かめるにこしたことはない。
 首からはずして、亀のデザインと鎖の部分を調べる。
「わたしも、それを疑ったの。大丈夫みたいよ」
 寛順が笑った。
「ドクター・ツムラは、あのことを知らないみたい。飛び降りたと信じきっている。もう少しで、本当のことを言いそうになった」
「駄目。わたしたちだけの秘密。秘密が漏れたとき、わたしたちにも災難がふりかかってくる。ここは当分、だまされたふりをしておくのが一番。午後に馬に乗るのも、そのためよ。逆にわたしたちが、ロベリオを観察するの」
 カフェテラスで軽食をとった。ユゲットの姿を探したが、見つからない。
 濃いコーヒーを飲んだ。
「寛順の主治医はどんな人?」
「ラクビー選手のように体格が良く、金髪で青い目。ああいう整った顔を見ると、こういう男性を五十年前のドイツがつくりたかったのだなと思う。レーベンス・ボルヌで」
「何よ、それ」
「ナチス・ドイツが実行した〈生命の泉〉。金髪で青い目の若者ばかりを集めて集団生活をさせ、子供を生ませたの。生まれた子供はもちろん国家の手で育てるという計画。いわば飼育場みたいなもの」
「じゃ、その先生も東洋人には偏見がありそう?」
「そんな風には見えない。患者を対等に扱う訓練を受けているのじゃないかしら。むしろ、丁寧なくらい。でも、無駄口はきかない。わたしとしては、いろいろな質問をしてみたいのだけど、そんな雰囲気ではないの」
 寛順は二時になったのを見届けて席を立った。
「舞子、いいわね。例のことに関しては、全く忘れたという顔をするのよ」
 寛順は念をおした。
 芝生の上で、三頭の馬とロベリオが待っていた。
 二人が笑顔で挨拶《あいさつ》すると、ロベリオも笑いながら、乗れという仕草をした。相手もこちらの出方をうかがっていると舞子は直感した。
「馬の夢を見たの」
 舞子が言うと、ロベリオが興味深そうな視線を向けた。
「馬から落ちた夢?」
「いいえ、馬がわたしを乗せたまま、停まってくれないの。海岸を全速力で走って、最後には、空に舞い上がった」
「空に?」
 ロベリオが驚いた表情をする。
「海岸線がどんどん遠ざかっていくの」
「それで、最後はどうなったの?」
 寛順までが訊いた。
「停めるのはどうすればいいのか、必死で考えた。手綱を引くのか、足で締めつけるのか、お尻《しり》を叩《たた》くのか。ちょうど、壊れた機械のボタンを、手当たり次第押すのと同じで、いろんなことをしてみた。馬の耳をひっぱったり、首に抱きついたり。それでもとまらないから、トマッテェーと日本語で叫んだの。そしたら目が覚めた」
「気持良さそうで、恐い夢」
 寛順が胸を撫《な》で下ろす。
「落馬する夢よりは、ずっといい。俺もそんな夢みてみたい。空飛ぶ夢など、生まれてこの方、みたことがないな」
 舞子と寛順がうまく乗馬したのを見届けて、ロベリオは身軽に黒馬に跨《また》がった。準備運動をするように、まずは芝生の上を並足で一周する。
「どちらに行く?」
 ロベリオが訊《き》いた。
「どこへでも。あなたのお勧めの場所」
 寛順が毅然《きぜん》と答える。二回目だというのに、乗馬姿も堂々としていた。
 ロベリオは頷き、先頭に立つ。守衛たちに見送られたあと、赤土の道に出る。
 ロベリオの黒馬、寛順の白馬、舞子の栗毛の順に続いた。
 赤土道から沼地に向かう小径《こみち》に折れたとき、寛順もさすがに驚き、ちらりと舞子の方を振り返る。自分は大丈夫だというように舞子は頷く。
 木橋から意外な物が見えた。
 沼と森の境界付近で、大型のショベルカーがアームを持ち上げていた。操作をする運転手以外、人の姿はない。
 道路を作っているのだろうか。バーバラの死体のあった場所とショベルカーのいる所は、わずかしか離れていない。
「少し速度を上げる」
 ロベリオが言った。白馬と栗毛も、ロベリオの言葉を理解したように、歩みを速めた。
 ショベルカーの手前からヤシ林の方に向かう。
 車が通れるくらいの道が、ヤシ林を貫いていた。ヤシの木陰を通り抜けたあと、左右は雑木林に変わった。
 道はゆるやかな上り坂になり、ロベリオは速度を落とした。
「見晴らし台がある。もう少しだ」
 ロベリオが叫び、寛順と舞子の横についた。
「二人とも大分うまくなった。ほら、背中を丸めてはいけない」
 ロベリオは舞子の方を見て、正しい姿勢の模範を示す。
 突然、頭の上でけたたましい鳴き声がした。
「猿」
 ロベリオが言う。
「病院にいる小さな猿と同じ?」
 寛順が訊いた。
「いや違う。もっと大きいやつ。人間を襲うことがある」
 ロベリオがニコリともしないで答えた。
 ロベリオの素振りが以前と微妙に違うのを舞子は感じる。こんなとき、前のロベリオだったら、笑って歯をむき、おどけてみせたはずだ。
「猿に襲われたら、わたしたちは逃げられない。木の上に登っても、猿はどこまでも追いかけてくる」
 寛順が頭上を見上げ、気味悪そうに言う。
「ひとつだけ安全なのは、水の中」
 真面目な顔でロベリオが応じる。「泳ぎの上手な猿は少ない。だから川の中央にくるか、海にはいるといい。俺《おれ》なんか、一度襲われてみたいと思うけど、近づいてもくれない。向こうも相手を選ぶようだ。狙《ねら》われるのは、決まって女子供と年寄り」
「でもこちらが何もしなければ、安全なのでしょう」
 舞子は助けを求める気持になっていた。
「猿は、この森を自分のものだと思っているから、はいってくる人間はみんな敵になる」
 バーバラが森の中を逃げる姿が、頭に浮かんだ。いくら逃げたところで、猿の速さにはかなわない。それも一匹や二匹ではなかろう。数匹が前後しながら、身重のバーバラを追いかける。
 ──いや、バーバラを襲ったのは猿ではない。人間なのだ。むしろ、猿は木の上から惨劇を目撃していたのかもしれない。
 舞子は混乱した頭を整理するように、木の枝を見上げる。緑の葉の間に赤い実が見えた。いかにも猿が好みそうな木の実だ。
 もしかしたら、あのショベルカーは証拠を消し去るための工作ではないのか。──そんな考えがひらめく。道を作るのを口実にして、死体の横たわっていた地形までも変えてしまう。現場が消えてしまえば、残った証人は寛順と自分の記憶だけではないか。
 ロベリオは無表情で手綱を操っている。寛順は背中だけしか見えないが、しっかり坂の上に眼をやっているようだ。
 ロベリオは自分たちをどこへ連れて行こうというのだろう。何か企《たくら》んでいるのではないか。
 舞子は平静さを装いながら、ロベリオの服と馬の装備を観察する。橙色《だいだいいろ》のTシャツに白いショートパンツ、そして白いズックをはいている。持物は何もなく、馬の鞍《くら》にも荷物などはない。
 坂を登りきった高台に樹木はなく、四方の見晴らしがきいた。
 海岸の左端に白い塔の先がのぞくのは、灯台だろう。右端は弓なりの岬になっている。
「こちら側は、俺の村があるところ」
 ロベリオが内陸の方を指さした。村といっても、一面の森、あるいは耕地で、村落らしいものは見えない。
「ここから、およそ百五十キロくらい離れたところ」
 二人の怪訝《けげん》な表情を読みとってか、ロベリオがつけ足す。
 地平線まで平地が連なっている。百五十キロといってもどのあたりか見当がつかない。
「どんな村?」
 寛順が訊いた。
「どこに行ってもサトウキビ畑。それ以外、何もない。だから俺は嫌になって町に出てきた。サトウキビ畑の中で、一生を終わりたくなかった」
「海のほうが気に入ったのね」
 舞子が訊く。
「サトウキビよりはいい。海だと何でもある。魚も船も、人間も」
「じゃあ、今の生活、満足?」
 寛順が確かめる。
「ああ、そこそこにね。でも夢にはまだ遠い。金を貯めたら、小さなホテルを建てる。バンガローが十個くらい散らばったのをね。そこに、村の連中を年に何組かずつ連れてきて、ただで泊まらせる」
「ただで?」
「そう。一週間くらい。その手始めは、もちろん両親、その次が兄夫婦、そして姉夫婦という具合さ。十年もすれば、村人全部をひと通り呼べる勘定さ」
「いい夢ね。素晴らしいわ」
 寛順が言う。もしかしたら、ロベリオは悪い人間ではないのかもしれないと舞子は思う。
「そんなホテルができたら、わたしたち泊まりに来る。ね」
 寛順から屈託のない笑顔を向けられて、舞子も同意した。
「あんたたち病院の待遇に満足しているだろうけど、やっぱりあそこは、ブラジルではない。本当のブラジルはもっと違う」
 ロベリオは一瞬怒ったような顔になった。
「でも、こうやって馬に乗るのも、ブラジルをもっと知るためよ。病院内のプールで泳ぐより、よっぽど良いと思ったの」
 寛順が言うのを、ロベリオは真剣な顔で聞き、しばらく黙った。
「さあ、もう時間だ。今日はこのくらいにしておこう」
 ロベリオの腹蔵のない言い方に、舞子は救われたと思った。
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