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受精17

时间: 2020-09-30    进入日语论坛
核心提示:17 マイクロバスが受付前に停まっていた。週末毎にサルヴァドールまで往復するという。前の夜、ユゲットが舞子や寛順の分まで申
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17
 
 マイクロバスが受付前に停まっていた。週末毎にサルヴァドールまで往復するという。前の夜、ユゲットが舞子や寛順の分まで申し込んでくれていた。
 バスは車体の下に、もう一段低いステップがはめこまれている。肥った初老の婦人の手を取って、ステップをあがるのを手助けしているのはジョアナだ。反対側から舞子が肘《ひじ》を支えてやると、ジョアナは胸の前で両手を合わせ、アリガトゴザイマスと言った。コンニチワ、コンバンワ、オハヨゴザイマスに続いて彼女が知っている四番目の日本語だ。
 前から三番目の席にユゲット、その後部に寛順《カンスン》と舞子が坐《すわ》った。二十名近い乗客の大部分が中年以上で、若い乗客は舞子たちだけだ。
「お年寄りたちは、ミサにいくのよ。病院の中にある教会は形だけでつまらないから、サルヴァドールの有名な教会まで行って、お祈りするの」
 ユゲットが耳打ちする。
「ユゲットは行かなくていいの?」
 寛順が訊く。
「わたしはどんな教会でもいい。全然こだわらない」
 運転席に坐ったのはジョアナだった。愛嬌《あいきよう》のある顔を向け、市内まで一時間ちょっとだと告げた。
 車体のスプリングも改善してあるのか、細かな揺れが極端に少ない。
 門を出てしばらく行くと車窓から森が見えた。沼の先で、ショベルカーがアームを上下させている。道の造成はだいぶ進んでいるようだ。
「やっぱり舞子の言った通りね」
 その方向を見やって寛順が日本語を口にする。
「あの日、馬に乗ってあそこまで行ったのが、夢か現実か判らなくなる」
「夢だと思えばいい」
 寛順が短く応じた。
 石畳の道を最徐行して通過したあと、車は舗装道路に出た。往来の少ない二車線をかなりの速度で走る。一週間前に見た風景が車外に広がっていた。
 道端によしず張りの小屋が並び、スイカやバナナ、サトウキビを売っている。破れたシャツを着た黒人がアスファルトの上を裸足《はだし》で歩く。家畜小屋のような家から、乳呑み児を抱えた女性が出てくる。
 自分たちの滞在する病院と比べて何という違いだろう。大理石像の置かれた回廊、豊富なメニューをもつレストラン、落葉ひとつないプールなど、庶民にとっては想像外の存在なのだ。日本にも貧富の差はあるが、ブラジルではその百倍以上の格差はあるとみていい。病院の中にいる限り、その落差は目にはいらない。
 マイクロバスは、道を横切る隆起の手前で慎重に徐行する。
「ロンバダ」
 ユゲットが後ろを振り向いて言う。
「そうロンバダ」
 ブラジルに来て最初に覚えた単語のうちのひとつだ。あとはまだオブリガーダ、ボン・ヂーア、ボーア・ノイチ、ボーア・タールヂくらいしか知らない。ジョアナの日本語なみだ。
「カンスンもマイコも、数字は覚えた?」
「少しは、ユゲット先生」
 寛順が笑う。
「今日は絶対必要になる」
 ユゲットは一から十までを数え始める。
「ウン、ドイス、トゥレース、クァトロ、シンコー──」
 寛順と一緒にユゲットの真似をするうちに、ジョアナが聞きつけて手本を示す。
「ウン、ドイス、トゥレース──」
 合唱になると言いやすく、四、五回で何とか覚えてしまう。
「その次は、ポル・ファヴォールとオブリガーダ。買物の時には欠かせない」
 これも寛順と二人でオウム返しをする。
 周囲の乗客がニヤニヤしながら見ている。
「その次は?」
 面白くなって舞子が訊《き》く。この調子ならサルヴァドールに着くまで、二十くらいの単語は覚えられそうだ。会話集で勉強するよりもよっぽど能率が良い。
「もうこれで全部」
「なあんだ」
 寛順が笑う。
「でもこれで、今までたいていは間に合ったのよ」
 ユゲットは澄まし顔で応じる。
 その後も何度か覚えた単語を口にしてみた。
 少しずつ通行量が増えている。特にトラックが多い。日本のように、ピカピカに磨かれたトラックは一台もなく、例外なく埃《ほこり》にまみれている。乗用車も似たりよったりで、洗車など一度もしてないように汚れている。
「もう市内にはいっている」
 ユゲットが言った。
 前方にビルの立ち並ぶ丘があった。マイクロバスが急坂を登り出す。坂の多い街だ。それもゆるやかな坂ではなく、断崖《だんがい》に近い。
「あれが、国際的な建築の賞を貰《もら》った建物」
 ユゲットが指さす方向に、赤と黒、黄の格子縞《こうしじま》のようなビルが見えていた。真四角ではなく、木のように横に枝を出した造りだ。鉄筋コンクリートで縦横の骨組みを造り、そこを土台に、矩形《くけい》の居住ブロックを載せた恰好《かつこう》になっている。そのブロックひとつひとつの色が異なるので、格子縞に見えてしまう。ブラジルらしいのは、その色の組み合わせだった。骨組みが赤、ブロックは黒、橙、そして一個だけ中央付近に黄色がある。日本でなら、入居者が敬遠するような色の配合だ。
 ジョアナがポルトガル語で何か叫ぶ。きょとんとして聞いていると、訛《なま》りのある英語でつけ加えた。
「今日停めるのは丘の上の教会前らしい」
 ユゲットが分かりやすい英語に直してくれる。「いつも丘の上か下かの、どちらかに停車するのよ。上はいろんな教会がある。下だったら市場の前なので、買物には便利」
 マイクロバスはさらにジグザグの坂を登って行く。
 眼下に海が見えるようになると、道は石畳に変わった。旧い市街地なのだろう。両側の建物も重厚な石造りだ。
 坂を登りつめたところが広場になっていた。ジョアナは古びた教会の前にマイクロバスを停めた。
「集合は三時。この場所です」
 ジョアナがポルトガル語と英語で言う。
「四時間はある」
 ユゲットが腕時計を見る。「時間は充分。問題はすぐに道が判るかどうかよ」
「病院を出る前に、電話は入れなかったの?」
 寛順が訊く。
「昨夜《ゆうべ》電話したから待ってくれているはず。道に迷ったら電話を入れて訊くわ」
「バーバラが死んだことは伝えたの?」
 舞子の問いにユゲットが頷《うなず》く。
「詳しくは直接話すことにしたの。でも辛《つら》い役目。こんなことって初めてだし」
「病院からその人のところへは連絡が行っていないのね?」
「保護者でもないし、知らなかったようよ」
 バスから降りて歩き出したとたん、物売りの少年たちから取り囲まれた。
「サンバ、ボサノバ。ファイヴ・ヘアイス」
 少年たちがさし出すのはカセットテープだ。ユゲットはそっ気なく拒絶する。物珍しげに立ち止まった舞子と寛順めがけて、四人の少年がいっせいにしゃべり出す。
「ポーチに気をつけて」
 ユゲットから注意された。寛順は肩から斜めがけしたポーチを小脇《こわき》にかかえた。舞子も思わず、ウェストポーチを手でかばう。
 カセットテープでは駄目と思ったのか、少年のひとりは、布テープの束を舞子の目の前に突きつけた。
「何なのこれ」
「お守り。これを指に巻きつけていると何か良いことがあるらしいわ」
 助け舟を出すようにユゲットが教える。
「一本で、ワン・ヘアウ」
 少年は一本指を立てた。
「三本で、ワン・ヘアウ」
 舞子が言い放つ。いくら御利益があろうと、たかが一センチ幅、五十センチくらいの長さの布に、日本円にして百円も払う気はない。
 少年は分かったというように頷き、束の中から三本を引き抜いて舞子に手渡す。仕方なく、舞子もポーチを開け、折り畳んだ一レアル紙幣を渡した。
 寛順のほうはまだカセット売りの少年二人につかまっていたが、払いのけるようにして、ユゲットと舞子のあとを追ってきた。
「いらないといくら言ってもしつこいのよ」
「カンスン、もっときつく言わないと駄目。怒ったように、きっぱりと」
 ユゲットが教え諭す。濃いサングラスをかけて、いかにも西洋人といった印象だ。
 舞子が買った布テープには、白地に黒く何か書いてあるが、どんな意味なのかは理解できない。ユゲットと寛順に一本ずつ渡すと、ユゲットがさっそく、右手の人さし指に巻きつける。
「一日中はめておかないと効果がないの」
「何の効果?」
「すべて」
「すべてだと、何だか無責任すぎる。日本だと、交通安全とか安産だとか、学業成就だとか専門があるのに」
「それぞれお守りが違うの?」
 ユゲットが面白がる。
「こんなテープではなくて、大ていは四角いお札。商売繁盛のお札は、学業成就には効かない。だから大変」
「まるで病院と同じね、いくつもの科があって。日本のお守りは進歩している」
 カセット売りの少年がひとり、まだ寛順につきまとっていたが、大声でノーと言われ、とうとう諦《あきら》める。百メートル近く押し問答しながら歩いてきた計算になる。並はずれたしつこさだ。
 石畳の両側には土産物店が軒を連ねていた。木彫りの仮面、大小の太鼓、マラカスなどの楽器が目をひく。弓にヤシの実をくくりつけたような楽器は、病院のショーで見たものだ。これ以上は思いつかないほどの派手な色に塗り分けられている。
 油絵や真鍮細工《しんちゆうざいく》、布もこの街の特産らしい。店の前に立つ店員が盛んに呼び込みをしている。
 三角形の広場で、道は三方向に分岐している。広場の隅に停めたバンのスピーカーが、景気の良い音楽をがなりたてていた。バンの車体の文字と音符からして、CD店の宣伝らしい。
「こっちらしいわ」
 革サンダル屋で道を訊いたユゲットが言う。
 石畳はさらに狭くなり、車は下りのみの一方通行になっている。土産物店は減り、両側の建物は住居用だろう、各階の窓に洗濯物が翻っている。汚れた石壁にスプレーの落書があった。
「十三番だから確かこの建物」
 左側にある建物プレートを見上げてユゲットが言った。両側の石造りに比べると、一階低く、間口も狭い。
 ユゲットは木扉の外にあるボタンを押した。内部でブザーが鳴り、ノブを回すと木扉は内側に開いた。
 中は薄暗く、外気に比べて温度が低い。暗い石段が上まで延びている。小窓からだけの日光で、足元がようやく明るいだけだ。
 ユゲットは先頭にたって四階まで上がる。赤い扉の前にユゲットが立つ。表札はなく、扉は何回も鍵《かぎ》を取り替えられたのか、釘《くぎ》の跡がいくつも残っていた。ユゲットが呼び鈴を押した。
 扉がわずかに開けられ、チェーンの向こうから中年男の顔が一部のぞいた。
「朝、電話したユゲット・マゾーです。こちら二人は友人──」
 英語で言うと、男は黙ったままチェーンをはずし、扉を大きく開けた。
 お香の匂《にお》いが鼻をつく。それも日本で使われる香ではなくインド産のような濃厚な匂いだ。
「クラウス・ハース」
 舞子と寛順が自己紹介をすると、短い言葉が返ってきた。そのまま無雑作に中に招き入れる。
 アトリエ兼物置きと言っていい部屋だ。窓際に四個のイーゼルが置かれ、それぞれに描きかけらしい絵が掛かっている。壁には、ブリキ板、ひしゃげた空缶、木の根っこなどが所狭しと吊《つ》り下げられていた。木箱の手前には、完成した大小の絵が立て掛けてある。土産物店で見たのと同じ様式の絵だ。
 不揃《ふぞろ》いの椅子を三脚持って来て勧め、クラウス自身は道具入れの箱に腰をおろした。
「バーバラが死んだって本当か」
 クラウスが怒ったように言った。抑揚のないブツ切りの英語だ。年齢は五十前後だろうが、薄くなった縮れ毛のせいで老けて見える。
「屋上から飛び降りて自殺したそうです」
 ユゲットが答える。「ときどき連絡はあったはずですが、自殺をほのめかす言動はあったのでしょうか」
「ない。その逆だ。殺されるのを恐れていた」
 頬骨《ほおぼね》に張りついたような薄い皮膚が、ピクピクと震えた。
「殺されるって、誰から?」
 ユゲットが驚く番だった。
「誰からかは知らん。しかし少なくとも、自分の身の上に変わったことが起これば、殺人かそれに準じたものと考えていい、と言っていた」
「殺人に準じたもの?」
 ユゲットが呆然《ぼうぜん》とする。
「ああ、例えば、口をきけない状態とか、植物人間だとか──」
「そこまで言っていたのですか」
 ユゲットが怯《おび》えた眼で舞子と寛順の方を見た。
「だから、今朝、あんたから電話で知らせを受けたとき、とうとう起こったかと思った。あんな感受性の強い子が、飛び降りなんかは絶対にしない。するなら、眠りながら死ぬ睡眠薬自殺だろう。建物から飛び降りれば、落ちるまで何秒かある。その間は生きているのだ。その恐さにあの子が耐えられるはずはない。強い酒でも飲んでいればの話だが、生憎《あいにく》彼女は酒は嫌いだ。口にしたことさえない。そういうわけの分からん物を、死ぬ前に口に入れるとも思わない。それとも、飛び降りた屋上に酒瓶でもころがっていたなら別だが」
 クラウスは一気にしゃべった。
「確かに、バーバラがアルコールを飲んでいるのは、見たことがないわ」
 ユゲットが述懐する。
「病院だから、ちゃんと死因は調べたのだろう? 何と言っていた?」
「わたしの主治医がやはりバーバラの担当だったので訊《き》いてみました」
 舞子が懸命に英語を口に出すと、クラウスはさらによく聞きとろうとして、身を乗り出した。「正式な死体の検査はやっていません」
「そこがおかしい」
 クラウスは首を捻《ひね》った。「病院で患者が死んだとき、解剖をするのは当たり前だろう。自殺患者であってもだ。いや、自殺患者こそ本当に自殺かどうか、調べなくてはいかん」
「バーバラは何を恐れていたのですか」
 寛順が横あいから訊いた。
「知らん。あんたはどうかね」
 クラウスは顔をユゲットの方に向ける。
「全く心当たりありません。時々顔を合わせるだけで、立ち入った話はしていないのです。彼女がどこの出身かも知らないくらいですから」
「バーバラが病院に来る前から、誰かにつけ回されていたとは考えられませんか」
 また寛順が訊いた。
「いや、それはない。サルヴァドールに来た当初は、そんな素振りはなかった。病院におれるのを運がいいと言っていたくらいだ。変わったのはこの一、二ヵ月くらいだ」
「検屍《けんし》しなかったのは、どう考えてもおかしいわ」
 ユゲットが呟《つぶや》くように言うのを聞きながら、舞子は、背中が冷えていくのを覚えた。主治医のツムラ医師も、早過ぎる死体の処理にひと役買っているのだろうか。いやそんなことはない。彼自身、バーバラの死には衝撃を受けている様子だった。
「腹が減った」
 思い出したようにクラウスが言う。「まだ朝飯を食べていない。あんたら、つき合わないか。うまい所がある。今の時間なら空いている」
 クラウスはもう立ち上がっていた。
 街路に出ると、クラウスもサングラスをかけた。絵の具で汚れた綿のパンツに、革のサンダルをはいている。
「バーバラも気に入っていたレストランだ──」
 クラウスはもっと言いたげだったが、途中で口元をぎゅっと締めた。
 坂をさらに一、二分下り、小さな公園の中を右に折れた。観光客の姿はない。木陰の草の上にタオルを敷き、三人の男が寝ていた。枕《まくら》は鞄《かばん》の類《たぐい》で、三人とも左を下にして川の字になっている。
 広場に面した石造りの建物に、クラウスは案内した。レストランらしい看板はどこにも出ていない。手前の階段を二階まで上がった。踊り場に木の彫刻が置いてあった。長い顔がモアイ像を連想させる。
 二階のレストランにはいると、黒いスーツを着た黒人の給仕が、テーブルに案内した。
 先客は遠くのテーブルにいる三人連れだけだ。壁際にズラリと並んだ給仕の数に舞子はびっくりする。二十人近くはいるだろう。まだ高校生くらいの年恰好《としかつこう》で、白い詰襟の長袖《ながそで》シャツに黒ズボン、黒靴という服装だ。
 全員が、同じように左腕にナプキンをかけている。
「ここは学校だから、さしずめ、あんたたちは教材」
 サングラスをはずしたクラウスの目が皮肉っぽく笑った。
「料理学校?」
 ユゲットの問いにクラウスは顎《あご》をひく。
「コックとウェイターの両方の学科があって、二年で卒業するとブラジル各地に散っていく。バイーア料理はブラジル料理の原点ということになっている。就職率は百パーセント、リオやサンパウロだけでなく、ブラジリア、ベレンやマナウスからも引き手があるらしい。料理はまあ、生徒が作るのだからね。それでも良い材料は使ってあるし、何より種類が多い」
 クラウスは立ち上がる。
 部屋の中央に楕円《だえん》形の上下二段になったテーブルが置かれていた。上段にはケーキとパン類、下段にはマンゴーやスイカ、ブドウなどの果物とコンポート類が載せられている。
 クラウスはまず食べるのはこっちだというように、三人を壁際に連れていく。左側に皿に盛られた料理、右側にステンレスで仕切られた容器があり、一区画毎に異なる料理が入れられている。全部で三十種類くらいはあるだろうか、ひとつひとつに料理名がつけられていた。しかしポルトガル語だから、舞子にはさっぱり分からない。料理の色合と形で、口に合うものか否かを判断するしかない。
 肉料理とウィンナー、魚のバター焼のようなものと、紫色をした野菜の煮つけを皿に盛る。紫色の野菜など、普通なら食指は動かないが、クラウスが勧めたので、結局四人全員が少しずつ皿にとった。
 席につこうとすると、給仕がそれとなく近づいて椅子《いす》を引いてくれる。飲み物の注文は別の給仕がとる。ひとつのテーブルに三、四人がかりだ。部屋の隅には、三十歳くらいのスーツ姿の男がいて、おそらく教師だろう、応対の様子を厳しい視線で眺めている。
 舞子は料理の味よりも、給仕の卵たちの振る舞いのほうに興味をひかれた。新たな客がはいってくるたび、室内の空気が張りつめた。
 料理はおしなべて油っこく、味もこってりとしている。これが本当のバイーア料理だとすれば、病院で出される料理は、外国人用に味が調節されているのかもしれない。紫色の野菜は少しすっぱく、それがなんともさわやかだった。
「ひと月前にバーバラとここで昼飯を食べた。あれが最後になった」
 クラウスが大豆の煮込みをスプーンですくいながら言った。
「その時、バーバラはどんな話をしましたか」
 寛順が訊くと、クラウスは口の中のものを咀嚼《そしやく》し、新たにビールをぐいっと飲んだ。
「それが思い出せない。食い物の話をし、食べ終わって、下町の市場《フエイラ》に行った」
「何か、彼女買いましたか」
「Tシャツや布製の袋かな。荷物にならない物がいいと言っていた」
「彼女、帰国するつもりだったのですか」
 ユゲットが眼を上げる。
「俺もそうかなと思った。Tシャツも五、六枚、袋も三個か四個買った。土産のつもりだったのかもしれない」
「バーバラの電話があったのは、そのあとですね」
 舞子の質問に、クラウスはそうだと頷《うなず》く。
「サルヴァドールに来た当初は、もっと長くいるようなことを言っていた。途中で気持が変わったのだろう。その理由が何だったかは、分からない」
 客が増え始めていた。
 料理はどれも違う味を持ち、決してまずくはないが、少量で充分という気がした。はじめから少量しか取っていなかったユゲットは、デザートを取りに席を立った。
「バーバラは、ドイツで何をしていたのですか」
 寛順がそれとなく訊く。
「コンピューター会社だ。大学での専攻が情報処理でね。大学は奨学金を貰《もら》って行ったはずだよ」
「両親はドイツにいるのですね」
 舞子が訊く。
「二人とも死んだ。俺《おれ》の兄は心筋|梗塞《こうそく》、兄嫁も二年前に癌《がん》で亡くなった。祖父母も、その前に死んでいたから、バーバラの身内は俺しかいない」
「恋人は?」
 ひと呼吸おいてから、寛順が質問した。
「好きな男はいるはずだよ。わざわざ、ブラジルまで病気の治療に来る気になったのも、それと関係あるのかもしれない」
「どんな病気だと言っていたのですか」
 舞子が訊く。
「不妊症《ステリリテイ》の治療だと言っていた。結婚してもいないのにそんな治療が必要かと思ったけど、そういうこと、俺から立ち入って訊けないからね」
 クラウスは瓶のビールがなくなったのを確かめて給仕を呼ぶ。
 舞子と寛順はユゲットと入れ代わりに席を立った。
「舞子、あのことは決して言ってはならないわ」
 寛順が、砂糖菓子のようなものを取りながら日本語で言った。「わたしたちはあくまで知らぬふり。クラウスに動いてもらえばいい」
 寛順の真意は充分にのみこめなかったが、舞子は同意する。
 デザートにパパイアと、イチゴジャムのようなペースト状のものを皿に載せた。
「あんたらもあの病院か」
 クラウスの質問に三人とも頷く。
「誰だって病院には行けるんだな」
「それはもう。普通の総合病院ですから」
 ユゲットが答える。
「このまま黙っておくわけにはいかない。納得がいくまで調べてみる」
 クラウスは決心したように言った。
「どこか身体《からだ》に悪いところがあれば、まず外来患者になることです」
 寛順が言った。
「以前、腹が痛んで町医者でレントゲンを撮ってもらったとき、胆《たん》のうに石が溜《た》まっていると言われたことはある。手術を勧められたが、痛みは一日でなくなったのでやめた」
「じゃあ、それです。もう一度診てもらうのです。入院になれば、もっといいかもしれません」
「しばらく外来に通ってもいい。病院の近くに宿はあるかい」
「一応観光地ですから、小さなホテルやペンションがあります」
 ユゲットが答えた。
「そのときは、あんたたちにもお世話になる」
 クラウスは勢いよくビールをコップについだ。
 室内はほぼ満席になっている。給仕の卵たちの何人かが教師から呼ばれて、小声で注意を受けていた。
「入院となれば、まずあんたのところに電話を入れる」
 クラウスがユゲットに言う。「入院にならなくてホテル暮らしになっても、頃合いを見て電話してみる。それじゃバーバラを悼んで」
 クラウスがグラスをさし出す。ユゲットはオレンジジュースのグラス、舞子と寛順はグァラナのはいったグラスで応じる。
「あんたら二人、バーバラに会ったことは」
 潤んだ目でクラウスが訊《き》く。
「ありません」
 寛順がきっぱりと答える。
「そうか。それなのによく来てくれた」
 しみじみとした口調でクラウスが言う。
 舞子の脳裡《のうり》にバーバラの最後の姿が蘇《よみがえ》る。
 バーバラは自殺などではなく殺されたのだ。舞子は自分に言いきかせた。
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