「赤ん坊は順調に育っていますね」
モニターを見ながらツムラ医師が言った。画面は、妊婦のほうも顔を上げれば眺められる。主治医はそれまでも毎回、難しい地図を教え諭すようにして説明してくれたが、ユゲットはいまだに画像に馴染《なじ》めない。黒い画面に、白い大小の線が切れ切れに集積しているだけなのだ。そのうちのどれが子宮でどれが膀胱《ぼうこう》であると言われても、すんなりとは頭にはいらない。第一、膨れた腹の表面に四角い探査器具をあてただけで、腹の内部の様子が判るということ自体、不思議でならない。
「身体《からだ》の調子はどうですか。疲れやすさとか、食欲とか」
器具をしまい、腹についた潤滑剤を拭《ふ》きとったあと、ツムラ医師が訊《き》いた。
「食欲はあり過ぎて困るくらいです。そのせいか、疲れもあまり感じません」
ユゲットは上体を起こして答える。
「運動も適度にしていますね」
ツムラ医師の黒い目がじっとこちらに向けられる。口髭《くちひげ》がなければ、まだ二十歳くらいにしか見えないほどの童顔で、東洋人というのはどうして年齢より若く見えるのか、ユゲットは不思議に思う。マイコやカンスンも同様で、ことにマイコに至っては、フランスでならまだ高校生としても通用するほどだ。
「例のプールの中のバスケットボールみたいなのには加わりませんが、よく歩いています。海岸や川べりや森の中を」
「それはいい。海の音を聞き、樹木の香をかぐのは、あなただけでなく、お腹の中の赤ん坊にもいいのです。大都市のスモッグの臭いや、警笛の音に比べたら、天と地の違いです。それでこそ、ここに滞在する価値があります」
ツムラ医師は真顔で言った。
もともとこの病院には優秀な医師ばかりが集められていると聞かされていたが、単に手術の手技や検査機器の操作と診断技術に秀でているだけではないようだった。それは、ツムラ医師から妊娠の成功をほのめかされたときに感じたことだ。
それまで順調だった生理が予定日を過ぎてもないので、ユゲットはツムラ医師に告げた。
「ぼくの診断では九割以上の確率で、妊娠ですね」
上半身を診察し終えて、彼は言った。「尿検査をすればはっきりしますが」
検査もしないで妊娠がどうして判るのか、ユゲットは訊いた。
「乳首の周囲の色の変化です。片方がくすんで片方が光っているようでしたら、妊娠の兆候です。両方とも光っていたり、逆にくすんでいるようでしたら、妊娠していません。もっともこれは、初産婦だけにあてはまるもので、経産婦では判りません」
ツムラ医師が予言した通り、その後の尿検査で妊娠は確認された。
ユゲットは裸の乳房を鏡に映して、主治医が言ったように乳暈《にゆううん》が変色しているか観察してみたが、どんな具合に違うのか、とうとうつかめなかった。まさか主治医にもう一度説明してくれとは言えず、そのままにしてしまった。
今はその乳首も赤味を増してきている。しかし何といっても、目立つのは膨らみ出した腹部だ。まだこれが手始めなのだと思うと、最後にはどのくらいまで大きくなってしまうのか、横からの姿を鏡に映して溜息《ためいき》をつく。
とはいえ、毎日自分の姿を眺めていると、腹の突き出た女体も次第に美しく思えてくる。それどころか、女性はこんな姿のほうが、一番美しいのではないかと勝手な考えにとらわれてしまう。
医学的な知識や診察手技だけでなく、一見非科学的に見えるものにも、ツムラ医師は理解を示した。
「ブラジル人がサンバを踊れるのは、もう母親の胎内でリズムを聞いているからですよ。同じように、胎内で波の音を聞いていると、天才的なサーファーが生まれます」
冗談とも本気ともつかぬ話を真顔で口にした。
「もともと目や耳は、意地悪で疑い深い感覚なのです」
そんな抽象的な話題も主治医は好んだ。「何故かというと、目は敵をいち早く見つけること、耳も外敵の音をいち早く聞きつけることが主な役割だったからです。嗅覚《きゆうかく》や触覚、味覚は、そこへいくと、猜疑《さいぎ》心はぐっと低くなって、むしろ仲間やパートナーを探しあてたり、愛を確かめあったり、身体を養ったりする穏和な感覚ですよ。平たく言えば、視覚と聴覚はいつもビクビクしている。戦々|兢々《きようきよう》としている。そんなところへ、安らかさを与えると、視覚と聴覚は心底ほっとする。何よりの慰みになります」
主治医の話は、まんざら荒唐無稽《こうとうむけい》にも思えず、ユゲットは傾聴する姿勢になった。
「だからこそ、美術や音楽が成立しているんです。猜疑心の強い、いつもびくびくしている目と耳に、美しい形や色、音を呈示するのは、ちょうど狩人に追われ、手傷を負ったウサギを保護し、治療してやるようなものです」
ツムラ医師はそこでちょっと言いさし、机の前のボードに掛けた絵に眼をやった。半具象の木版画で、三、四色に彩色されている。描かれているのは船のようでもあり、平原の中の一軒屋にも見える。
「その目と耳からの感動はそのまま、お腹の中の赤ちゃんに伝わって行きます。いいですね。あなたの感動は、そのまま胎児の感動です。言うなれば、あなたのハートと胎児はコインの表と裏──」
そこまで言われたとき、ユゲットは思わず頷《うなず》いていた。この日系人の医師は、女性以上に女性の身体と心理を知り尽くしている、そんな感慨に包まれた。
──胎児はハートと同じ。
これまでは、お腹の中にいる赤ん坊に対して、どこか異物感をもっていた。自分とは違う物体が身体の一部に巣食っているという感覚だ。しかし、その赤ん坊に自分のハートが重なっていると思えば、限りなくいとおしくなる。
主治医とのそんなやりとりのあと、日々のちょっとした動作もないがしろにできなくなった。
朝の日の出、海の青さ、白い波、波音、緑色の樹木、鳥のさえずり、スコールの音、雨上がりの景色、ハイビスカスの花、白い馬、マイコやカンスンたちとの会話、レストランでの音楽。──自分を取りまくすべての人間や事物に、歓びと美しさを見いださねば損だと思う。
例えば、海に面した寝椅子《ねいす》に横になっているとき、目の前の砂浜を土地の老人が横切って行く。真黒の膚、皺《しわ》くちゃの顔、色の褪《あ》せたパンツに裸足《はだし》、手にしているのは粗末な銛《もり》と小さな水中眼鏡だけだ。ユゲットは初めその姿を、このリゾート海岸にふさわしくない闖入《ちんにゆう》者と感じ、眉《まゆ》をひそめたものだった。海岸の汚点だとさえ思ったのだ。
いまは違う。あの老人が銛で突いた魚をぶら下げて帰る姿を美しい光景だと思って眺める。おそらくこの近くに住み、小さい頃から五十年、六十年にわたって同じ漁をしながら生計をたてているのだろう。その生き方と歴史を、老人の後ろ姿に感じて、感動してしまうのだ。
あるいは、その老人が海に潜る光景も想像してみる。そんなに深くないこの付近の岩場や浅瀬は、彼にとって大地の地形以上に親しいものに違いない。地上の樹木の配置、地面の隆起と同じように、潮の流れや海底の凹凸を知りつくしているはずだ。だから岩と岩の間に潜むどんな魚でも、彼の目から逃れることはできない。音も影もなく接近した彼の銛が、自分の胴体を貫いたとき、ようやく身の不運を覚えるのだ。
彼は、その日の家族の糧《かて》と隣人に分けてやる分量だけを捕獲すると、海から上がる。決して魚を一網打尽にすることはない。恵みの海に感謝しつつ、帰路につく。
夕陽が老人の横顔を赤々と照らす。ユゲットは、そんな彼に一度話しかけてみようかと思う。〈たくさん獲《と》れましたね。何という魚ですか〉そんな会話もポルトガル語で、できそうな気がする。
老人は何と答えるだろうか。ひとことふたことしか会話は成立しないだろう。しかし、そのやりとりは、自分のハート、腹の中の赤ん坊に喜びをもたらすはずだ。
二日に一度、ライヒェル女史の許《もと》を訪れる意味も、改めて分かるようになってきた。本館六階に設置されたあの不思議な場所は、今もってその造りがどうなっているか理解できないが、時空を超えた特異な空間であることは確かだ。
白く光る透明な迷路と、前室のなつかしい風景が絶妙の対比を形づくっていた。白い大理石像の並ぶ廊下を歩いて、第一の扉の前に立つ。扉の先には、モレ村の教会堂の内陣が再現されていた。黒光りする祭壇や、川面に反射する陽光を受けるステンドグラスは、見る者を自然にひざまずかせてしまう。
奥からヴェルナー神父が優しい微笑を投げかけ、今日も一緒に祈りましょうと言う。素直に頭を垂れる。外界から切り離されて、気持がさらさらと透明になっていく。
そして十分後には第二の扉の中にはいる。透明な床と壁は、初めは水のような冷たさを感じたが、次第に安らぎさえも覚えるようになった。天井の見えない、床の下も見えない迷路は、それまでの人生で体験したことのない空間だった。それだけに、過去のどんな記憶をも喚起されず、そこで味わう体験のみが蓄積される。いわば、純粋培養された体験が、汚染されることなく何層にも積み重ねられるのだ。
妊娠前と妊娠後で、中央にあるガラスの寝台が一部だけ変化した。妊娠後、寝台に横たわると、下部に納められていたガラスのフードがもち上がり、すっぽりと下腹部を覆った。あたかも、不慮の事故から胎児を守るかのような装置だった。
目を閉じると、自分の身体がゆっくり下降していくのを感じる。ある程度まで沈むと横に滑り始める。まるで水底を流れていくように、目の前に澄んだ水の層があり、その上から日光が降り注ぐ。
気がつくと川の傍でアランと魚釣りをしていたり、川に面した中世の城跡を二人で散歩をしている。アランは、お腹の中の赤ん坊を気づかい、ゆっくり歩く。一メートル九十センチはある彼が歩幅を縮めて緩慢に歩くのだから、傍目《はため》には足踏みしているくらいにしか見えない。城跡に登りたいというと、高そうな石段のところでひょいと身体を持ち上げてくれた。
「やっぱり赤ん坊の分だけ重くなっている」
ある時などは、ユゲットの身体を丸ごと抱えて、城跡の下から上まで一気に駆け上がった。転んで落とされはしまいかと、必死で首にしがみつき、声をあげた。それをアランは却って面白がり、速度を早める。さすがに城のてっぺんに着いたときには、息を弾ませていた。
眺望が素晴らしかった。てんさい畑のゆるやかな起伏の向こうに、夕陽が沈みかけていた。
アランが近くにあった棒切れを地面に突き刺し、静かに頭を垂れる。
「ほら何かを思い出さないかい」
「分かった。ミレーの晩鐘」
「そう。場所は違うけどね」
顔を上げて笑い、また祈る。ユゲツトもその横に立ち、手を胸の前で握りしめた。
「お腹の中の赤ん坊が生まれてきたら、ブルターニュの田舎に戻るかもしれない。それでいいかい。ユゲットは農婦になるのさ。赤ん坊は籠《かご》に入れて地面に置いておく。ぼくらは畑仕事。もっともミレーの頃と違って、鍬《くわ》ではなくトラクターを使って土を耕すのだけど」
アランは初めて胸の内を打ち明ける。畑なんかいじったことさえなかったが、アランと一緒なら何でもやれそうな気がした。
城跡からの下りがけにも、アランはユゲットの手をとり、危なっかしい場所では軽々と抱き上げてくれた。崩れかけた城壁が茜色《あかねいろ》に染まっている。見とれていると、アランがユゲットを後ろから抱き寄せた。アランとの口づけは、いつも踏み台が必要だった。石段の落差とか、石の上だとか、絶妙な足場をアランは決して見逃さない。いつしかユゲットのほうでも、そのタイミングの予想がつくようになっていた。
そのときもそうだ。壁の根元にユゲットが立ち、アランは地面の凹《へこ》みに足を置く。そうすれば背をかがめるだけで、ユゲットの唇を奪うことができる。
アランの首に手を回してキスを受ける。二人の影が長く尾をひいている。ミレーの絵と同じだ。そう思ったとき、本当に遠くで教会の鐘が鳴った。
丘の下にトラックは停めてあった。夕陽が地平線に沈んでいくのが、トラックの荷台からも眺められる。てんさい畑ととうもろこし畑が橙色《だいだいいろ》に染まり、空には赤紫の雲がたなびいていた。
アランはユゲットの肩をひき寄せて、やさしく言葉をかける。わずかに突き出た下腹部にも手を触れた。
「ここにぼくたちの宝物がある。ユゲットとぼくがこの大地で出会った証《あか》し」
ユゲットは、フロントガラスを透過した夕陽がアランの髭面《ひげづら》を赤く染め上げるのを眺める。それでなくとも陽焼けしたアランの精悍《せいかん》な顔が、アポロンのように見える。アランの手がユゲットの着ている物をゆっくりとはぎとる。白い肌が夕陽に赤く染まっていく。
ハンドルに手をかけて、身体《からだ》の均衡をとる。アランがぴったりと胸を寄せる。夕陽が赤味を増しながら、もう半分まで地平線に隠されていた。
「ユゲット、素敵だよ」
アランが叫ぶ。ユゲットもアランの名前を呼ぶ。身体が散り散りになりそうだった。身体の内部で何かがふくらみ、はじける。真赤な夕陽が、ほんの一点だけを地上に残している。抱き合ったままで、その一点が消えるのを眺めた。
「このまま運転して行こうか」
アランがおどけて言った。
「わたしは平気よ」
胸を張って答える。本当は、膨らんだ腹部など、アラン以外の誰にも見せたくはなかった。
「駄目、風邪をひいたら、それこそ一大事」
アランは身体を離し、ユゲットが服を着るのに手を貸す。
丘を下るとき、トラックの運転席が小さな家のように感じられた。赤ん坊が生まれたら、あやしながら、外に流れゆく景色を思う存分見せてやるのだ。ユゲットはそんな場面を想像して、アランの肩に頭を寄せていた。
「バーバラについて訊《き》きたいのですが」
衣服を着終わったとき、ツムラ医師が質問した。
「何でしょうか」
「彼女、お腹の中の赤ん坊のことで、何かあなたに相談しなかったですか」
「いいえ」
ユゲットは首を振る。妊《みごも》った女性は、腹の中の赤ん坊を宝物のように思っているものだ。その宝物について、第三者にくどくどと話したくはない。
「彼女、赤ん坊のことで何か悩んでいたのですか」
ユゲットはひっかかるものを感じて逆に問いただす。
「もう亡くなったから言っていいでしょう」
ツムラ医師は一瞬考える表情になる。「十六週を超えた頃、胎児に奇形《アノマリ》があるのが判ったのです」
「奇形《アノマリ》?」
「先天異常です。上肢の発生異常でした。通常の胎児と比べて、明らかに腕が短いのです。超音波診断で分かりました」
ユゲットは咄嗟《とつさ》にサリドマイド児の奇形を思い浮かべる。テレビで見ただけだが、その女性は肩に直接手のひらがくっついているような上肢をもっていた。用を足しにくいその腕の代役を、両足が見事に果しているのには目を見張った。じゃがいもの皮も、右足で挟んだ包丁と左足が協同してむき、四つに切った。乗用車のハンドルを操作するのも足だった。
「奇形がある胎児は知能の低い確率が高くなる、と統計的な数字を示して正直に説明しました」
「バーバラは驚いたでしょうね」
「どの母親もそうです。しかし、事態をそのままにして引き延ばすより、早い時点で告げるのが主治医の務めです。できることなら、したくない役目ですが、こればかりは産婦人科医が背負った運命です」
ツムラ医師は自分に言いきかせるように言葉を継ぐ。「それも単に告げるだけでなく、あくまで相手の立場に身を寄せて知らせてやるのです。ぼくだってまだこんな経験は数回しかありません」
「彼女は何と言いました?」
「原因は何ですか? と彼女は尋ねました。当然の疑問です。ぼくは分からないとしか、答えようがなかったのです。精子側の要因と母体側の要因のどちらか、あるいは双方か。いずれにしても確かめようがないのです。すべては神の意志のまま、と考えるのが一番正確かもしれません」
「バーバラはどう答えたのでしょうか」
「よく分かりました、ときっぱり言いました。何の迷いも、その表情にはありませんでした。奇形であろうが、少し知恵遅れであろうが、わたしの子供です。これまで通り、お腹で育て、立派に生みます。どうか主治医として手を貸して下さい、と頼まれました」
「そうですか」
バーバラなら、そんな風に答えただろうとユゲットは思う。何度も話したわけではないが、彼女にはどこか芯《しん》の強さがあった。
「しかしその後、ドクター・ライヒェルからは再考するように促されていたようです」
「人工的に流産するほうを選べというのですね」
ユゲットの問いにツムラ医師は頷《うなず》く。
「まさか、それで悩んでいたとは思わないのですが」
「彼女、そんなことで気持は動きません」
何故かユゲットはそう確信した。
「そうですよね」
ツムラ医師は安堵《あんど》する。「それ以後、彼女も奇形についてずい分調べ始めたようです。二階にあるコンピューター室によくこもっていました。もともとコンピューターが専門だったので、いろんな大学のコンピューターにアクセスもしたのでしょう。知識を得れば得るほど出産への意志を固めていったようでした。例えば、こういうことがありました。ある時、バーバラがこう言ったのです。ダウン症の子供に早期から教育を施すと、さしたる知能低下も目立たなくなるそうですが、それは教育の効果ではなく、親の愛情効果らしいですね、と訊くのです。コンピューターのデータで知ったのでしょう。昔の親は子供がダウン症だと判ると、もう意欲をなくしていた。それが結果的に知能低下をもたらした面があるのは本当なのです。たとえ奇形児だったとしても、健常児以上に愛情を注げば素晴らしい子供になる。彼女はそう信じていました。だから、ぼくは彼女の死が自殺とはどうも思えないのです」
最後のところでツムラ医師は声を潜めた。
「思い詰めていれば、傍目《はため》にもそれとなく分かります」
ユゲットは率直に言った。
「あなたもそう思いますか」
ツムラ医師は考える目つきになった。「主治医として、バーバラの死が何だったのかつきとめる責任を感じます」
ユゲットは黙って、ツムラ医師の顔を見つめる。バーバラの死が自殺ではないとしたら、事故死か他殺ではないか。過失によって屋上から墜落するとは考えられない。残るのは他殺だ。
大柄なバーバラがひとりで浜辺のほうから歩いてくる姿を思い出す。目が青いので、ブルー系の衣服を身にまとっていることが多かったが、そのときも青いゆったりとしたワンピースを着ていた。よく似合うと誉めたユゲットに、サルヴァドールの市場で買ったのだと答えた。本当は3Lサイズの服だったのを、妊婦用に自分で手を入れたのだと言う。膨らんだ下腹部が、何か誇らしげに見えた。彼女が亡くなる二週間ばかり前のことだ。
「このことは内緒に」
ツムラ医師が診察の終わりを告げる。「どうか良い刺激をお腹の赤ん坊に」
「オブリガーダ、ドウトール」
ユゲットはポルトガル語で言い、手をさし伸べる。
一階の待合ロビーに出て、バーバラの叔父《おじ》のことが頭に浮かんだ。入院したとは連絡があったが、どこの病棟かは判らず仕舞いだ。連絡を待つしかない。
ユゲットは診療所の方に足を向ける。
「地域住民向けの診療所で診ている患者が重症だった場合、この病院に入院させるのですか」
いつかツムラ医師に訊いたことがある。
「入院費が高いので、彼らには無理です」
「すると、あくまでも通院ですね」
驚いてユゲットは訊き返した。
「そうです。受診資格を、この地域の住民と制限したのはそのためもあると聞いています。患者のなかには、診療所の紹介状をもって、町中の病院に入院しにいく者もいます。診断もつき、治療法も書いてあるので、先方の病院も受け入れやすいはずです」
ツムラ医師はひと呼吸おいてから続けた。「仮にあの診療所が、ブラジル全土に向かって開かれていたとしたら、それこそ巡礼の地になって、各地から貧しい患者が集まってくるでしょうね。山奥から何日もかかってここに来、診断をつけてもらって、また山奥に帰っていく。どんな重症患者でも、放っておかれるよりはいいし、周囲の者も安心します。一度、医者に診てもらったという安堵感がありますから。その代わり、診療所の前にはテント村ができますよ。それがブラジルの現状です。医療水準が地域によって違うし、懐具合によって、受けられる医療に天地の開きがあります」
この病院は、村人にとって、収入と健康の源でもあるのだ。ツムラ医師の言葉を聞きながらユゲットは思った。職にありつけ、かつ無料の通院治療を受けることができる。大きな産業もないこの地域の住民にとって、フォルテ・ビーチ病院の存在は大きな福音なのだ。
診療所の周囲は、いつ見ても清掃が行き届いている。診療所に世話になる村人たちが、交代で掃除をしているからだ。木陰のベンチに痩《や》せた老婆が横になり、その横に少女が付き添っていた。診療の順番を待っているのだろう。
赤土の道に出た。村のある方向に歩き、三叉路《さんさろ》を左に折れた。右に行けば村の中心に出るが、左はやがて坂道になり、小高い丘に行きつく。ユゲットはその道が好きだった。村のたたずまいを見おろせ、その向こうに青い海と灯台が望見できた。
たぶん村人が植えたのだろう、道端にはハイビスカスが咲き乱れていた。手入れはされていないが、思い思いに枝を伸ばして黄色い花をつけている。ハイビスカスは赤い花も好きだが、黄色いほうがブラジルの大地には似合う。そういえば、ブラジル人そのものが総じて赤よりも黄色好みではないか。赤土、緑の樹木、青い海、そんな色彩の中で、黄色に出会うと気持がなごむ。
ハイビスカスの後方から鳥が飛びたつ。鳩くらいの大きさで、頭のてっぺんが赤い。この付近ではよく見かける鳥だが、名前はまだ聞いていなかった。これだけ植物や鳥、昆虫、岩石に囲まれながら、ほとんどその呼び名を知らないのが不思議だった。もともとそういう博物学に詳しいほうではないが、フランスにいるときは、普段目にする木や草花、鳥や虫の名は知っていた。
名称が分からないと、刺激が五感に生々しくはいってくる半面、思考につながってこない。刺激が知覚されただけで終わり、そこから先に進まない。自分が幼児あるいは未開人になったような気がする。いや未開人だってそれなりに事物に名前をつけ、植物の用途や岩石の使い方は知っていたはずで、貶《おとし》めるわけにはいかない。
逆にそれらの名前を知らない効用はある。先入観がないから、その草木、鳥や昆虫のあり方がまっすぐ五感に突きささってくる。
黄色いハイビスカスの花は、道の両側に咲き誇ってはいるが、ひとつひとつの花は一日でしおれてしまう。何日も咲いているように見えるのは錯覚だ。その証拠に、花びらを大きく広げている花のそばに、咲き終えて萎《しぼ》んだ花があり、地面を眺めると、まだ黄色味を残した花が葉巻の形になって落ちていた。
蝉が鳴いている。フランスで聞く蝉よりもずっと力強い声で鳴く。しかも人の足音で鳴き止む気配もない。声は横からではなく、頭のはるか上の方から降ってくる。人の話し声も消し去ってしまいそうな勢いだ。
丘の上に近づくにつれて樹木が少なくなり、白い山肌が露出してくる。海を見渡せる高台に小屋がぽつんと立てられていた。
小屋の中から人が出て来て手を上げた。アランに間違いなかった。小屋の前に立ち、じっと眼をそらさずにいる。
登って来た甲斐《かい》があったとユゲットは思う。小屋の手前で立ち止まり、額の汗を拭《ふ》いたとき、アランが歩み寄ってきた。Tシャツに半ズボン、革のサンダルという身なりは、夏のトレーラーに乗るときのものだ。筋肉質の毛深い長い脚がズボンから出ている。
「大変だったろう。その身体《からだ》で」
腹部の膨らみに眼をやりながらアランが言った。
「まだ大丈夫。あと二ヵ月もすれば登れなくなるかもしれないけど」
言い終わらないうちに、アランに抱きすくめられる。いつもの癖で、反射的に足場を探す。しかしアランはユゲットの身体を軽々と抱え上げ、赤ん坊を運ぶようにして、小屋の前まで戻った。
「ほら、ここからの眺めはどこかイル・ド・フランスの大地と似ている。海を畑と思えばいいのさ。小麦畑やとうもろこし畑、てんさい畑が地平線のかなたまで続いているように、ここでは海が水平線まで広がっている。時々漁師が小さい舟で漕《こ》ぎ出していくのが見える。小さなトラクターで、丘ひとつ耕す農民と瓜《うり》二つだね」
ユゲットも頭を巡らせて海の方角を見る。穏やかな海だ。畑の中をまっすぐ延びるマロニエの道の代わりに、海岸寄りにヤシの林が細長く横に広がっている。
「一日中ここで海を眺めていることだってある。倦《あ》きることもない。そしてユゲットのことも考える」
「わたしは、忘れたことなどない」
ユゲットはアランの顔を眺める。髭《ひげ》が少し伸びているが、唇の血色も良い。少しばかり尖《とが》った顎《あご》が、アランをどことなく学者風の顔にしている。スーツを着こみ、小脇《こわき》に書類|鞄《かばん》でもはさめば、銀行員としても立派に通用しそうな顔立ちだ。もっとも陽焼けしているので、バカンス帰りの九月でないといけない。
小屋はヤシの葉で深々と屋根が葺《ふ》かれていた。中にはいると、ひんやりとし、汗がひく。
「ぼくはいつもここで昼寝をする。海から吹いてくる風が窓を抜けていって、気持がいい」
白いシーツを敷いたベッドにユゲットを横たえると、アランは言った。
「もう動くだろうね」
ユゲットの腹に耳をつけて、アランが訊く。
「まだよ」
「そうかな、心臓の鼓動が聞こえるけど」
「本当に? わたしは自分で聞けないから」
「確かに聞こえる」
アランは耳をユゲットの胸につけ直す。「ユゲットの心臓の音とは違う」
アランは新しいものでも発見したように微笑する。
ツムラ医師がユゲットの腹に機械をあて、胎児の心音をモニターに描出してくれたことはあった。波形だけでは実感が湧《わ》かないと言うと、今度は音を増幅器でひろってくれた。タッタッタッという速いリズムが胎児の鼓動だと知らされたとき、自分の身体の中にもうひとつの生命が宿っているのだと初めて実感できた。
アランの逞《たくま》しい身体に胸を押しつける。もう全身の力がゆるみかけていた。
アランがまた自分の名前を呼ぶ。身体がひらひらと舞い上がる。一枚の木の葉になって宙に浮かんだかと思うと、水面に落ち、清流の中を流されていく。
葉は岩の間で激しく揺れ、渦巻にかかって回転し、また波しぶきの中に引き込まれる。アランの名を呼ぶのは自分だ。
流れはまたゆるやかになり、再び激流にさしかかる。木の葉になった肉体は、波しぶきの先に突き上げられ、空を舞う。回転しながら水面に落ち、渦の中央深く吸い込まれていく。
お互いに名前を呼び続けつつ、水底で回転する。そしてまた、ゆるゆると水面近くまで浮上する。漏れ入る光が虹色《にじいろ》になっている。
アランの両腕も自分の胸元も、淡い虹色に染められている。ユゲットはアランの胸に顔を埋める。そうやって休息をとるのが好きだった。
「また来てくれるね」
アランの声は、胸郭の中でくぐもって響いた。
「来るわ。あなたの赤ちゃんと一緒に」
ユゲットは膨らんだ下腹部を撫《な》でてみせる。
「名前はもう考えている。フィリップだ」
「フィリップ・ポアンソー。いい名前だわ。政治家でも実業家でも似合いそう」
「農民としてもいい名前だよ。新鮮な野菜を作って、朝の暗いうちにトラックに積み、町に売りに行く。ポアンソー親子の野菜なら文句のつけようがないと、町の住人にも評判さ。自分の手で作った野菜を、自分の知った客が食べてくれると思うと、それだけで嬉《うれ》しいものさ。食卓で、みんながおいしいと舌鼓《したつづみ》をうっているのを想像してみるだけで、疲れはふっとんでしまう」
「あなたに似て背が高いわ、きっと」
「それは分からない。ユゲットに似ているかもしれない。女だったら、ぼくみたいに大きくなるのは考えものだ」
アランは困ったという顔をする。
「女だったときの名前は?」
「考えていない。エリザベトでもいいし、マドレーヌでもいい」
「あまり乗り気ではなさそうね」
ユゲットはおかしくなる。まるで初めから赤ん坊は男の子と決めてかかっている様子だ。
「いっそユゲット・ジュニアにでもするか」
笑いながらアランが答える。
不思議なのは、自分でも腹の中の赤ん坊が男児のような気がしてならないことだ。
ユゲットは下着を身につける。もう行かなければならない時間だ。アランは寝ころんだままユゲットの動きを見つめた。
「そのまま横を向いて」
アランが命令した。まだ下着姿だった。
「お腹がいい形になっている」
うっとりした顔でアランが言った。「もっともっと大きくなっていくんだね」
「まだ始まったばかりなの」
ユゲットは答える。もっとお腹が大きくなれば、この丘に登ってくるのもひと仕事になるに違いない。しかし、必ず登ってくる自分の姿を確かに思い描くことができる。途中で何回も休み、息をつくだろう。自分の眼はヤシの葉葺きの小屋をしっかり見据え、一歩一歩足を踏みしめるのだ。そのうちアランが小屋の外に出てくる。その広げられた両腕の中に思い切り、飛び込んでいく。まるでゴールがそこにあるように──。