舞子を見送って診察室のドアを閉めたあと、ツムラは暗然として椅子《いす》に坐《すわ》り続けた。
ロベリオと一緒にバーバラの死体を運んだ男たちは、十中八九、彼女の落下死体の傍にいた連中と同じだろう。いずれも守衛室に所属する警備員で、そのうち二人には直接話を聞いていた。一番下っ端のザカリアスという男は、本館の屋上を何気なく見上げたら、女性が柵《さく》から上半身を乗り出していたと証言した。何をするのだろうとなおも眺めていると、はじかれたように屋上から宙に飛び、落下したのだと、身ぶり手ぶりを混じえて言った。もうひとりの警備員は音を聞いて駆けつけ、現場でドクター・ヴァイガントとザカリアスに会ったと話してくれた。
だが、事実が舞子の言う通りだとすれば、ザカリアスが嘘《うそ》をついていることになる。バーバラが自分で飛び降りたか、何人がかりで死体を抱え上げて放り投げたかは、遠くからでも当然見分けられる。
ヴァイガントはどうだったか。彼は今、隣の診察室にいるはずだが、一昨日宿舎に向かう際にそれとなく問いただしていた。
「どうしてそんなことを気にするのだ」
彼は不機嫌な顔になった。「何のためにひとりの妊婦が殺されなければならないのだ。患者に死なれた主治医はいろいろ思い悩むものさ。自分を責めたがる。きみのやったことに落度はなかった」
「コンピューターで彼女のカルテを取り出そうとしたんだ。全部抹殺されていた」
ツムラがつけ加えると、彼は瞬時考える顔つきになった。
「俺も一度苦い体験をしたことがある。子宮|癌《がん》の患者で、術中に死んだ例があったんだ。あとになって統計が必要になり、コンピューターで検索しようとしたら、出て来ない。結局、管理部門のミスだと判明した。死亡患者を別のディスクに移すとき、間違えて抹消してしまったらしいんだ。きみのケースもそうかもしれない」
ヴァイガントとのやりとりはそこで終わった。
もしヴァイガントがあの現場に先に来ていなければ、バーバラの死体を病理解剖に出していたはずだ。具体的には彼がどんな言葉を吐いたかは忘れたが、頭から飛び降り自殺だと決めてかかっていたので、こちらとしてもそれに抗《さから》えなくなってしまった。
バーバラの診療記録の消滅は、やはり故意になされたのだろう。そしてヴァイガントがあの場に居あわせていたのも作為あってのことなのだ。
ツムラは机を離れ、外来担当の看護婦に声をかけて、待合室に出た。他の診療科の患者がまだ十数名、ソファーに腰かけていた。
いつものように正面玄関から駐車場の方へ足を運ぶ。
車の進入路をスーが塞《ふさ》いでいる。わざわざ羽根を広げて通せんぼをしているので、車の助手席から男が出てくる。スーは横に逃げるのではなく、そのままスタスタと道の向こう側に歩いて行く。車は後ろからついていくしかない。
ツムラは本館の側面まで来て足をとめる。半地階に続く石段の入口は庭木に遮られて、通路からは見えない。一度その近くを通ったことがあったが、霊安室への入口かと思ったくらいだ。それほど人の出入りは目立たなかった。
ツムラはさり気なくその前を通り過ぎ、また庭の方に足を向けた。
あのメモを書いた人間は一体誰なのか。こちらがバーバラの死に疑いをもっていることを知り、おびき寄せるために郵便受に入れたのか。それとも、舞子と同じように、何かの手助けとして行動したのだろうか。
郵便受にはいっていたメモのことを、舞子は全く知らないと言った。嘘ではなかろう。彼女の表情がそれを物語っているし、第一、メモに添えられていた英文には誤りがない。舞子にあそこまで正確な英語が書けるとは思えない。
部屋に上がり、もう一度メモを取り出して眺める。〈冷凍庫〉〈コンピューター室〉〈バーバラが興味をもっていた場所〉〈巡回時刻〉、その四つが英文で書かれているすべてであり、あとは扉の入口の暗証番号らしきものが、手書きの地図に添えられている。
男文字か女文字かの判断はつけにくい。わずかに数字の丸みが女文字のような印象を与える。
絵葉書の写真は、病院の先にある灯台を上空から撮ったものだ。入江と教会、海亀の博物館が写っていた。病院の売店で手にはいる絵葉書だ。
仮に自分をその場所におびき寄せる文書であれば、もう少し英文が長くなり、いかにもそれらしい文句を書き連ねるのではないか。このメモはそれとは逆に淡々としている。執拗《しつよう》さが感じられない。
シャワーをあびたあと、七時過ぎに宿舎の中央にある食堂に足を向けた。
病院内の豪華なレストランと違って、食堂は定食しか出さない。内装も大学の食堂と大差ない。細長いテーブルが十数個並べられ、その間に天井まで届く観葉植物が配置されている。そのうちの傑作は、窓際にある巨大サボテンで、その先端が天井に食い込んでいるため、柱かと見間違うほどだ。
その横のテーブルにヴァイガントが坐っていた。ツムラはトレイをかかえ、彼の真向かいの席を取る。
ヴァイガントがツムラに気づき、テーブルの上の赤ワインを勧めた。一本をひとりで空けるつもりだったのか、色白の顔に赤味がさしている。夕食には、水代わりにワインを飲むのが彼の習慣だった。
「俺がサンパウロ時代、訴訟に苦しめられたのは知っているね」
ヴァイガントが不意に言った。
ツムラは頷く。仮死状態で生まれた赤ん坊に運動機能障害が出たため、主治医であったヴァイガントが訴えられたのだ。しかも出生の三年後であり、若い弁護士が両親の話を聞きつけて、訴訟に持ち込んだのが発端だった。一年半続いた裁判は、結局ヴァイガントに落度はなかったという判決を出した。
「今日、救急部に妊婦が運び込まれて、俺が呼ばれたんだ。明日なら、きみが当番日で呼ばれたのだろうがね」
ヴァイガントはワインを飲み干し、ステーキにナイフを入れる。
「交通事故か?」
「そう。運転していたのは亭主だ。センターラインを越えて対向車が来たので、慌ててハンドルを切って、逆に路肩の岩に激突した。居眠り運転だったのだろう。亭主のやつ、頭から血を流していたが、俺の顔を見て真青になった。俺もぎょっとした」
「きみを訴えた弁護士か?」
ツムラの問いに、ヴァイガントはしかめ顔で頷《うなず》く。
「一瞬その場から立ち去ろうかと思った。あの裁判で、どれだけ苦しんだか。時間をとられたくらいならまだいい。裁判で、こちらの医療の技量を相手からトコトン貶《おとし》められると、本当に心身共に参ってくる。その悪夢をもたらした張本人が目の前にいるんだからな。吐き気がしたよ」
「向こうはどう言った?」
「泣き出した」
ヴァイガントは蒼《あお》ざめた顔で答える。「母子とも救ってくれと言うんだ。結婚五年目にして、ようやくさずかった赤ん坊らしいんだ」
ヴァイガントはふっと息をつく。
「俺は、最善を尽くすとだけ答えて手術室にはいった」
「助かったのか」
「骨盤の骨折はあったが、子宮の損傷はなかった。帝王切開で、七ヵ月の胎児を無事とり出せた」
「母体のほうは?」
「肋骨《ろつこつ》も折れて気胸になっていた。これは外科に頼んで、二、三ヵ月もすれば全快する見込みだ。あの弁護士、女房の笑顔を見、保育器の中の赤ん坊と対面したとき、俺の手を握ってボロボロ涙を流したよ。三年前、あなたには実に申し訳ないことをしたと謝った」
「良かったじゃないか」
ツムラは慰める。
「偶然だろうね。一週間の休みをとって、この近くに滞在している間の事故だったらしい。よその地域だと助からなかった」
「そうだろうな」
フォルテ・ビーチ病院に運び込まれたからこそ、母子ともに助かったわけで、ヴァイガントの指摘は誇張でもない。
ツムラは、ヴァイガントが勧める二杯目のワインは断った。
「ところで、あの不幸な患者の足取りはつかめたかい」
あらかた食事を終え、ヴァイガントはワインだけを口にしていた。
「彼女か」
ツムラは名前を出さず、右手で落下する仕草をしてみせる。「おおよそは判った」
「それで」
ヴァイガントの眼がじっとこちらに注がれる。
「昼飯をとったあと部屋を出たらしい。どこに行ったかは知らない。病院の外でないのは確かだ」
まだそこまでは確認していないが、ツムラはさり気なく告げる。
「屋上へはどうやって行けたのか?」
「鍵《かぎ》はあの日かかっていなかったらしい。警備員から聞いた」
それも嘘だった。そのあたりの事実を確認しようと思った矢先に、舞子の告白を聞いたのだ。
「何か悩みがあったのだろうね」
ヴァイガントの顔に酔いが出ている。目もとが赤いのに、視線だけは相変わらず鋭かった。
「胎内にいる赤ん坊のことで悩んでいたのは確かだ」
「奇形か?」
「そう。超音波で判明していた。それでも生むと言っていたがね」
「それだな、原因は」
ヴァイガントが言った。「心理的な援助はジルヴィーがしていたと思うが。可哀相なことをした」
ヴァイガントがしんみりとした口調になる。「しかし、もうすべて済んだことだからな」
「そうだな」
ツムラは答え、ステーキを口に入れた。
食堂内に人が増え、周囲がざわつき出す。賑《にぎ》やかなのは、飲み放題のアルコールのせいもあった。
「きみの疫学調査のほうは進んでいるのか」
ツムラは訊《き》いた。生理前におこるさまざまな不定愁訴がヴァイガントの研究主題だった。性格と不定愁訴の関係、都市在住者と山村地域の住人での愁訴の比較に、テーマを絞り込んでいた。
「なにせ数をこなさないと説得力がないので、根気がいる」
「少しは結果が出ているのだろう?」
「まあな。一番目立つのは、症状の社会文化的な伝播《でんぱ》だろうね。母親に生理前の不定愁訴があれば、その娘にも出るようになる。体質の遺伝というより、一種の学習効果だろう。同じように、情報のいきとどかない山村の女性には症状が出にくい。労働条件は厳しいはずなのに、生理前症候群という考え方を知らないので、症状も出ない。面白いもんだよ」
「じゃ、結果はもう出たようなものだ」
「あとは例数を重ねていくだけだ。各群二百例ずつ集めれば文句は出ないだろう」
「いい研究だな」
ツムラはお世辞ぬきで言った。動物実験や臨床例に基づく研究には多くの医学者がとびつく反面、最も敬遠されるのが、足でデータを集める必要のある疫学調査なのだ。フィールドワークなど、臨床医がするべきことではないと言う連中が多いなかで、ヴァイガントは地道にデータを集めていた。
ツムラが食事を終えると、二人連れだって食堂を出た。
満天に星が輝いていた。いい夜空だとヴァイガントが空を眺める。同僚から誉められたせいもあって、上機嫌だ。自分の宿舎の前で別れるとき、ツムラに「ボーア・ノイチ」と手を上げた。
ツムラは階段を上がりかけて、郵便受に眼をやる。中はからっぽだった。
階段をゆっくりのぼった。
まだ決めかねていた。ヴァイガントがバーバラの死について何か知っているのは確かだ。しかし、郵便受にはいっていたメモは、たぶんヴァイガントのあずかり知らぬところだろう。
自室の明かりをつけ、ベランダに出る。風が心地よい。椅子《いす》に坐《すわ》った。薄暗がりのなかで考え続ける。
メモが仮におびき寄せの道具だった場合、自分もバーバラと同じような処理の仕方をされるのだろうか。自殺に見せかけるのは不自然なので、事故死が装われるかもしれない。一番手っ取り早いのが水死だ。夜の海を泳いでいて波にのまれたとするのは、さして難しくない。あるいは、病院内を歩いていて強盗に襲われたとする方法もある。警備員たちが口合わせをして証言すれば、警察も疑いをはさむ余地がなくなる。
万が一に備えて遺書めいたものを誰かに渡しておくべきだろうか。例えば、サンパウロの長兄に手紙を書いたほうがいいのか。
暗い海の方角に無数の星が散らばっている。
マリアのことが思い出された。
彼女の死も突然だった。一週間前まで元気で笑っていた顔、弾んでいた肉体が、ある一瞬を境にして動かなくなってしまう。冷たくなった身体を前にして、この世界には何ひとつ働きかけるものが残されていなかった。
どんな大きな山でも少しは削り取れる。どんなに広い海でも、その一部を埋め立てて形を変えることができる。
しかし人の死の事実だけは、一ミリとてつき崩せないのだ。
残された者にできるのは、死をこちらの側で飾ることでしかない。ちょうど愛する人の写真や肖像画を、廊下に掛けたり、あるいは寝室に置くようにだ。絵や写真にまでしなくても、ある者は心の奥底にしまい込んでいるだろうし、ある者は思い出の木を植えるかもしれない。またある者は、二人で訪れた場所に年に一度立つかもしれず、また、愛する人の墓を毎月のように訪れることもあろう。
自分はそうした具体的な処し方は何ひとつしてこなかった。強いていえば、星空のどこかで、マリアがこちらを見ているような気がした。雲ひとつない夜空に星があらわになっているのを眺めていると、決まってマリアのことが思い出された。暗い舞台でマリアがスポットライトをあび、自作のコルデルを朗読する姿が立ち現れる。
終わると立ち上がり、にっこり笑う。舞台の袖《そで》に引っ込んで、〈どうだった?〉とツムラに訊く。ツムラが頷く。〈良かったよ〉
マリアのつくったコルデルは、全部でいくつくらいあったろうか。二十は下るまい。そのどれも文字にはしていない。この耳と目が記憶しているだけだ。森の鳥の話、野原の草の話、星座の話、歌う岩の話──。
日本に留学しているときも、ブラジルを舞台にしたそれらの話をことあるごとに思い出した。稲妻を伴う日本の台風に、マリアのスコールの話を重ね合わせもした。日本の花火と、マリアのつくったカーニバル用のコルデルを比べたこともある。
今夜もマリアは星空から見ていてくれるはずだ。
腕時計を見る。十時半だ。
ツムラはベランダの戸を閉め、シャツの上から白衣を着た。夜目に白衣は目立つが、それも計算のうえだ。
右手には古びたノートと、学生時代に使った病理学の教科書を持った。ノートの間に、郵便受にはいっていた絵葉書を挟み込む。診察のときに欠かさないネクタイはしないほうが自然だ。研究の途中で用事ができ、現場に急いでいるという恰好《かつこう》にしたかった。
星明かりの下を、周囲には眼を配らず、真直ぐ歩く。通路から脇《わき》にはいると、水銀灯の明かりは届かなくなる。
半地下への階段を降り、そこで初めて診察用のライトをつけた。暗記していたコード番号を押す。ステンレスの扉についた把手《とつて》を回すと、内側に動いた。
廊下のスイッチを押すかどうか迷ったが、昼間外から見た限りでは、一階の庭側には窓は一個も設けられてはいなかった。明かりをつけても外に漏れる心配はない。それより、暗がりのなかで行動するほうがおかしい。
リードランプを押すと、廊下が明るくなる。掃除がいきとどいているだけでなく、廊下に何ひとつ置かれていない。まるで大きな金庫の内部と同じで、左側にいくつかある扉の上には標示板さえなかった。
エレベーターで六階まで上がった。動揺はなかった。誰かと会っても、堂々と言い逃れするつもりでいた。
六階の廊下も窓はなく、右側に三つのドアが並んでいるだけだ。一番奥のドアまで歩き、メモに従って暗証番号の通りにボタンを押す。
室内はなるほどコンピューター室で、壁いっぱいに張られたパネルが目をひいた。世界の大都市がほとんど網羅されている地図だ。何かのネットワークであるのは明らかだ。ツムラは白衣からカメラを出してパネル全体と、室内の様子を八枚に分けて撮った。
明かりを消して部屋を出る。ひとつの部屋をじっくり調べるよりも、三部屋の構造をまず大雑把《おおざつぱ》につかみたかった。
真中の部屋も、奥の部屋と造作はほとんど変わらない。パネルの中に描かれた都市名がわずかに変化しているだけだ。
地図上のネットワークが何を意味しているのか。あとで写真を引き伸ばしたときに比較すれば、違いは判るかもしれない。ツムラは同じように、室内の配置をカメラにおさめる。
最後の部屋にはいる。想像していた通りの造りだ。冷凍庫の前に立って、正面の様子を撮影する。
メモを見て冷凍庫のダイヤルを回した。中は二重構造になっていて、中仕切りの向こうにもうひとつ冷凍庫があった。
身体が冷えきる前に、ロッカーの中の防寒服と手袋、長靴を身につけた。カメラを防寒服の中に入れる。低温では作動しない恐れがあった。
中仕切りの先に足を踏み入れる。工場のような広さのところに、高い棚が整然と並ぶ。一見して、血液標本の貯蔵庫だと判別がついた。金属性の容器が棚にびっしり詰まっている。容器には番号が打たれ、貯蔵庫の外のレバーを操作して、目ざすサンプルを思い通り取り出せるようになっている。ひとつの容器に五百人分の血液標本がはいるとして、この部屋全体でどのくらいの標本があるのか、五十万人くらいか。
ツムラは防寒服の中からカメラを出して素早くシャッターを切る。中仕切りの外も撮影した。
ロッカーに防寒具を収めて、冷凍庫の外に出る。コンピューターの操作盤もカメラに撮った。机の上にキラリと光る物があった。
その小片を手にとった。ほぼ一センチ四方の薄いもので、金属でもプラスチックでもない。明かりに透かして見る。片面に無数の線がプリントされていた。電子回路を組み込んだチップだ。
ツムラはテーブルの上の装置を調べる。機械の中央に、チップを載せる四角い凹《へこ》みがあった。冷凍庫から自動的に出される血液標本、チップ、解析器、そしてコンピューターのモニター、その四パーツから装置が成り立っている。
ツムラは装置の電源を入れた。モニターが明るくなる。チップを中央の凹みに載せる。サンプル番号をコンピューターに打ち込む。当てずっぽうだが、最初の二|桁《けた》はアルファベットで、次の六桁は数字だったのを思い出す。
初めの二回はVACANTと標示が出た。その標示番号にまだサンプルが納められていないのだろう。三回目のインプットは有効だった。装置の動く音がかすかにする。モニターを見つめながら待った。モニターが動き、標本番号と名前、年齢、性別、住所さらに国籍が表示された。二歳の男児で、合衆国の住所だ。
冷凍庫から出た金属の容器が頭上のレールをつたって、装置の上に止まる。さらに、その中の一本が装置の中に誘導され、赤ランプが緑色に変わった。
操作盤上のボタンを押すと、チップが上にあがり、また下がるのが、プラスチックの窓を通して見えた。サンプル中の血液がチップにかけられたのだろう。チップの表面には特殊な加工がなされているのか、血液はチップ全体に拡散した。表示が赤から緑に変わったのを見届けて、キイボードを操作する。モニターに新たな表示が浮き上がった。〈診断:筋ジストロフィー(デュシャン型)〉
ツムラは呆然《ぼうぜん》としながらモニターを眺める。わずか一滴の血液で確定診断がなされていた。しかも二歳の男児に対してだ。
この時期にはまだ症状は現れない。両親にも分からないどころか、かかりつけの小児科医でさえも、その患児の筋肉の異常には気づくまい。
ツムラは、コンピューターの画面と装置をカメラに撮った。
終了のボタンを押すと、金属の容器がひとりでに動き出し、天井をつたって冷凍庫の中に消えた。その間、チップは自動的に装置の別の場所に移され、洗浄される。乾燥後、再び元の位置に戻った。
ツムラは新たに別の番号を画面に入力する。背後で音がして、自動検索装置が作動した。
容器が天井に飛び出して、同じようにレールをつたって下降し、解析器の上方に接続した。
血液標本のかすかな一滴がチップの上に垂れ、広がった。
ツムラはモニターに見入る。オーストラリアの三歳の男児だった。診断のボタンを押す。文字が浮かび出る。〈診断:ハンチントン舞踏病〉
ツムラは唸《うな》った。ハンチントン舞踏病は第四染色体短腕に異常がある優性の遺伝病だが、三歳で症状が現れることは絶対にない。とすれば、家族に負因を持つ親が、子供の血液を送って、早期診断を依頼したのだろう。そうでなければ、無作為に血液を集めて、これだけの頻度で遺伝疾患が判明するはずはない。
ツムラはその画面もカメラに収める。
操作を終了させ、使いきったチップを取り出して元の位置に置いた。
もう小一時間近くが経過していた。警備員が巡回してくる恐れがあった。テーブルの上に何も痕跡《こんせき》を残していないのを確かめて、部屋の外に出た。
この区画が、遺伝子疾患を調べるための血液貯蔵庫と、データ分析に使われているのは確実だった。しかし何のために、病院の診療部門と完全に切り離されているのか。
六階廊下の照明を消してエレベーターに乗り込む。一階で降りたとき、そこが明るいのに気づいた。不審に思った瞬間、横あいから声をかけられた。
「ボーア・ノイチ」
ツムラは平静を装って言った。中年の警備員は、これまでも病院内で見かけている。馬に乗って騎馬警官よろしく、海岸を巡回していたこともあるので、格付けは上のほうだろう。アルコールを入れているのか、褐色の顔が妙にギラついている。
「何の用で?」
訊問《じんもん》口調で訊《き》かれた。
「ドクター・ヴァイガントから頼まれて、資料を取りに来た」
ツムラは高飛車に答える。
「ドクター・ヴァイガント?」
警備員は了解したように頷《うなず》き、ツムラが手にした古びたノートに眼をやる。
「彼の研究熱心さには頭が下がる。おかげでこちらも徹夜の勉強だ」
ツムラは苦笑しながらつけ加えた。
「ご苦労さまです。ボーア・ノイチ」
警備員は言った。
一階の扉から外に出たとき、どっと疲れを感じた。すべてはカメラに収めている。自室でひと眠りしたあと、考えなければならないことが山ほど残されているような気がした。