黒馬に乗ったロベリオが病院の門を出て沼地に向かったとき、舞子は身がすくむのを覚えた。白馬に跨《またが》る寛順《カンスン》の顔をさりげなく見やる。橙色《だいだいいろ》の麦藁《むぎわら》帽子の陰になって、彼女の表情は読みとりにくいが、動揺している気配はない。
湿地を迂回《うかい》して、新しくできた道にはいる。
バーバラが倒れていた場所は、跡形もなく消え去っていた。
突然、先頭を行くロベリオが歌い出す。自分でリズムをとり、馬に跨がったまま上体を動かす。
歌詞は同じ発音の繰り返しだ。
「はいこれは、二人の楽器」
ロベリオが馬をとめ、ポケットから木片を取り出して寛順と舞子に渡した。手のひらに載るくらいの平べったい笛だった。
寛順が吹いてみる。舞子も真似する。思ったよりも高い音だ。柔らかい木の中をT字形にくりぬき、中の空洞に小さな木玉を入れ込んである。吹くたびにその玉が回転して乾いた音が出る。
「俺が手を上げたら、二人で思い切り笛を鳴らす。いいな」
ロベリオが笑顔を向けた。
ロベリオ、寛順、舞子の順にゆるい坂を登って行く。ロベリオが歌《うた》う。さっきと同じ歌だ。右手が上がるのを見て、舞子も寛順も笛を吹く。またロベリオが歌い出す。いつの間にか二人の吹く笛が、音頭のようになっていた。民謡の合いの手に似ている。人の声ではなく笛の音だから、祭り気分になってくる。
馬までが歩調を合わせていた。拍子は四拍子でも三拍子でもない。もっと複雑なリズムで、いくつかの旋律を終えると再びもとに戻ってくる。そのうち、ロベリオの手の動きを見なくても、笛の鳴らしどころが判るようになった。
寛順もロベリオの背に合わせて、身体《からだ》を動かす。笛を吹くところで舞子の方を振り向き、ピーッと鳴らす。ロベリオの合図がなくなると、寛順は大きく頷いてみせた。
丘の上まで行きつくとロベリオは歌いやめた。馬から降りて、手綱を木の枝に結びつける。寛順と舞子にも小休止を告げた。
「あの唄の踊り、あんたたちが習いたかったら、いつでも教えてやるよ」
ロベリオはステップを踏んでみせた。
「歌詞はどんな意味なの」
寛順が訊く。
「恋唄さ、片思いの。
あんたは俺を知らないだろうが、俺はあんたを知っている。あんたの名前と住所、通る道、好きな色、好きな食べ物。でもいつか来る。あんたが俺を知る日が。俺の名前と住所、通る道、好きな色、好きな食べ物──」
「簡単ね。唄の中味は」
「簡単。誰にでも歌える。子供から年寄りまで。バイーアの音楽ってそんなもの」
ロベリオは何か思いついたように言いさす。「ちょっと待っていてくれ。すぐ戻る」
ロベリオは身を翻して森の中にはいって行く。その後ろ姿を舞子はじっと見つめた。
「舞子、大丈夫よ」
こちらの心細さを察知したように寛順が言った。「馬の様子を見れば分かるわ。恐いことにはならない」
白馬と黒馬は草を食《は》み、舞子の栗毛は、何か命令を待つかのように左目でこちらを眺めている。
「ロベリオがわたしたちをこちらに連れてきたのは、あのことを確かめるためよ。現場はすっかり変わった。だからあの事件もなかったのと同じ。忘れろ、と言いたいのだと思うわ」
寛順が、帽子で陰になった顔を向ける。「でもね。あのロベリオ、気の良いところがあるわ。唄を聞いていても、そう思うでしょう。どこかでわたしたちをかばっていてくれている」
「忘れていなくても、忘れたふりをしておけという意味?」
「そう。それを彼は願っている。でなければ、こんな風に現場の前を通るはずはない。乗馬を練習する場所なんて、他にもいっぱいあるはずだから」
二人は倒木の上に腰をおろす。
寛順が笛を口にして勢いよく吹いた。鋭い音は森の奥深く吸い込まれていく。不安な気持が鎮まりそうで、舞子も吹く。音色は微妙に違うが、響き渡る強さは同じだ。
「バーバラは病院の重要な秘密を知ったのよ。それをどこかに漏らそうとしたから殺された」
寛順は言い、また笛を吹く。
「どんな秘密?」
口の中が急に渇く。
「今に分かるわ」
寛順は短く答え、笛を吹き鳴らす。「多分ロベリオ、慌てているわ。何事かと。あの人、見かけはぶっきらぼうだけど、悪人ではない」
そう言ってまた吹く。舞子があっけにとられていると、後ろのほうで音がしてロベリオが姿を現す。両手いっぱいにパパイアを抱えていた。
「笛はそんな具合に吹くものではない。非常ベルとは違う」
それでもどこか安堵《あんど》したように言った。「もぎたてのパパイアだ。持って帰って冷蔵庫に入れておくといい」
ロベリオは鞍《くら》についている袋にパパイアの実を入れ、馬に跨がる。舞子と寛順も鞍に手をかけた。
「どこか行きたいところがあれば」
ロベリオが訊いた。
「できれば海岸の方」
舞子が答える。前に渚《なぎさ》を通ったのは乗り初めのときで、周囲の景色を眺めるゆとりなどなかった。
「それでは出発」
ロベリオの号令に合わせて、寛順が車掌のように笛を吹いた。
「下り坂は用心。唄ってはいけない」
ロベリオが注意する。
湿地帯まで狭い道を一列になって下る。
海岸に出ると、日射しが強くなる。昼顔に似た植物が砂地の上を這《は》い、ピンクの花をつけていた。
馬は波打ち際すれすれのところで並足になった。やはりロベリオ、寛順、舞子の順だ。もう海も波も見渡せるだけの余裕ができている。前を行く寛順が、背筋をピッと伸ばして手綱を握っている。つば広の麦藁帽子とノースリーブのシャツがよく似合う。映画の場面のようだ。
ロベリオの黒馬が速度をあげた。後ろの二頭もそれにならうが、乗っている人間を気づかうような走り方だ。振り落とされそうになれば停まってくれる、そんな思いやりを栗毛に感じた。
病院の庭に続く浜まで来たとき、椅子《いす》に坐《すわ》っている女性が手を振り出す。寛順と舞子の名前を呼んでいる。ユゲットだった。
「あんたたちの友達だ。じゃ、ここでレッスンは終わり」
ロベリオが言った。寛順と顔を見合わせながら馬から降りる。
「これは?」
寛順が木笛を見せる。
「プレゼント。でも無闇《むやみ》やたらに吹いてはいけない」
ロベリオはウィンクして注意する。舞子と寛順に三個ずつパパイアをやると、黒馬に跨がった。白馬と栗毛の手綱を握って悠然と帰っていく。
「二人とも上手になったわ」
近づくとユゲットが言った。手許に小さな本が置いてあった。
「馬がいいのよ」
寛順が答える。近くの寝椅子を運んできて、屋根の影にはいるように三つをうまく並べた。
「乗馬は無理、水の中が一番いいって主治医は言うの。ほらプールで水球みたいなゲームをやっているでしょう。あれ」
「知っている」
プールサイドでいつも見かける遊びだ。
「頭に色のついた帽子をかぶるのが嫌なの。それよりはひとりで海に出たほうがいい。陽が傾いたら泳ごうと思っている。あなたたちは泳いだ?」
舞子は首を振る。海辺にいながら、海にはいるのはむしろ稀《まれ》だった。いつでも泳げると思う気持が、却って災いしているのかもしれない。
「でも、カンスンやマイコと違って、わたしの醜い身体は人に見せられない」
「そんなことないわ。お腹に赤ん坊をもっている女性って美しい。もう四、五年になるかしら、妊婦だけを撮った写真集を見たことがある。美しいと思った。みんな満ち足りた顔をしていて、嫉妬《しつと》さえ感じた」
寛順がユゲットに反論する。「いずれ、わたしたちも、ユゲットと同じ身体になるのだから」
相槌《あいづち》を求められて舞子も同意する。
「わたしに赤ちゃんができたら、プールよりも海で遊ぶ。波遊びをしたり、砂でお城を作ったり。だから、真黒に陽焼けするわ。構わないの。馬に乗るのは今だけ」
「三人ともお腹が大きくなったら、わたしも心強い。何をするのも一緒」
ユゲットは膨らんだ腹部に手をやった。
左側にある小屋から、男たち五人がカヤックを運び出していた。服装からして二人の黒人は病院の職員だ。中年の白人男性三人が救命ジャケットを着るのを手伝っている。三人はどうやら初心者らしく、注意を受ける顔も真剣だ。
準備ができると、ひとりずつカヤックに乗り込み、指導員から船体を波に向かって押しやってもらう。三人とも必死で漕《こ》ぎ出す。どうにか波に直角に進んではいるものの、速度が出ない。指導員が心配気に眺めている。
「ドクター・ツムラと会ったけど、だいぶ調べが進んだらしいわ」
ユゲットが言った。
「バーバラのことね」
寛順が低い声で応じる。
「死体を発見した職員に会って確かめたらしいの」
舞子は周囲を見渡す。警備員の姿はない。カヤックの三人は岸から四、五十メートル離れたところでUターンする。波と波の間で素早く身体の向きを変えるのがコツらしい。
「職員たちは音がしたのを聞きつけて現場に駆けつけたらしいの」
「自分で飛び降りたか、突き落とされたかは、調べようがないのね」
寛順が念を押すと、ユゲットは首を振った。
「仕方がないので、ドクター・ツムラはあの日のバーバラの足取りを調べてみるつもりらしい」
「屋上には誰でも簡単に上がれるの?」
舞子が訊《き》く。
「屋上には星を観察するための望遠鏡が備えつけられているので、受付で鍵《かぎ》を貰《もら》えば誰でも上がれるらしいわ。でもバーバラが鍵を借りた形跡はない」
「どうやって上がったのかしら」
舞子は不思議がってみせる。ツムラ医師がバーバラの死因をつきとめようとすればするほど、彼の立場は危険になる。いや彼だけでなく自分たちも怪しまれるのだ。舞子はさり気なく寛順の顔をうかがった。
「それが判ればね」
寛順は何か考える表情で言う。
「わたしは突き落とされたのではないかと思うの」
ユゲットが呟《つぶや》いた。
「どうして?」
寛順が振り向いた。
「無理に連れて行かれて、数人がかりで屋上から落とすのよ。前以《まえもつ》て注射か何かで眠らせておけば、抵抗もされない。ドクター・ツムラの話では、屋上には腰の高さの手摺《てすり》しかなく、人ひとり投げるくらいは簡単らしいわ」
「ドクター・ツムラも、ユゲットと同じ考えなの?」
寛順が確かめる。
「可能性のひとつだと考えているようよ」
落下死体の発見者たちひとりひとりに質問し、当日のバーバラの行動を掴《つか》もうとするツムラ医師のやり方は、やはり危険だ。ツムラ医師に事実を告げるべきではないだろうか。
カヤックに乗った三人が岸に近づく。そのまま渚に乗り上げるつもりだったらしいが、波にあおられてカヤックもろともひっくり返った。哀れな恰好《かつこう》で砂浜に打ち上げられる。
「カヤックって思ったより難しいのね」
寛順がその有様を眺めて言った。「一度やってみようかと思ったけど」
「わたし二度、乗った。海ではなく、沼地まで運んでもらって。波がないからなんとか乗れた」
「沼というのは森の傍?」
舞子は湿地帯に舟を浮かべるのは困難だと思って訊く。
「いや、村に行く途中にある沼で、水深は一メートルか二メートル。ワニがいると指導員が脅かすので、恐くなっちゃった。もちろん嘘《うそ》でしょうけど、ワニがいなくてもヘビはいそうな気がした」
確かにブラジルにいると、一番安心して見ていられるのが海で、その次が川、最も不気味なのが湖か沼。特に沼や湿地帯になると、何が出てくるか予想もつかない。
「お昼にしようか。あなたたちが貰ったパパイアを食べよう」
ユゲットが立ち上がる。
カフェテラスのテーブルにつき、注文を取りに来たウェイターにパパイアを切ってくれるよう頼んだ。
「バーバラの叔父《おじ》さんと本館の中で偶然会ったわ。入院になったらしい」
「何か分かったの?」
寛順が尋ねる。
「入院している間に、もとの主治医に会うと言っていた」
「ドクター・ツムラね」
舞子が言う。「本当はドクター・ヴァイガントにも会うといい。寛順の主治医よ。バーバラの死体が見つかったとき、彼が傍にいたらしいの」
「変ね。ドクター・ヴァイガントが、バーバラの死体の傍にいたということ自体、不自然な気もする」
寛順が納得できないといった表情で首をかしげた。
ウェイターがサンドイッチとパパイア、ビールとジュースをもってくる。パパイアは形良く切り分けられていた。
「おいしい」
寛順がひと口食べて言う。「ロベリオはおいしい実のなる木を知っているのね」
「あなたたち気に入られているわよ。わたしのときには、そんなサーヴィスしてくれなかった」
ユゲットがわざとむくれてみせる。「案外、白人のわたしより、東洋人のあなたたちに親しみを感じているのかもしれない」
「そうかしら」
舞子はためらいがちに言う。
「彼のことよく知らないけど器用さでは職員随一よ。乗馬はするし、カヤックも教えるし、カポエイラ・ダンスやサンバもうまい。一度、プールで彼が泳ぐのを見たけど、バタフライなんて、もう本格的。スポーツマンで、遊び好きというところかしら。ここにいる限り、彼と仲良くなって損はしない」
ユゲットが気楽に答えるのを、寛順は真剣な顔で聞く。
しかし、舞子はバーバラの死体を見つけたときの彼の振る舞いと声が忘れられない。漏らせば殺すとは言わなかったものの、それくらいの凄味《すごみ》は態度にこめられていた。
ユゲットが言うようにスポーツ万能だとすれば、彼はこの病院の用心棒、あるいは刺客のような役割を任されているのかもしれない。馬の上で歌ってみせたり、パパイアの実をプレゼントしたのは、あくまでこちらの目を欺くためではないのか。
寛順はビールを飲み干して庭の方に眼をやっている。芝生の上に容赦なく陽が降りそそぎ、スプリンクラーが水しぶきをあげながら回っている。しぶきが作る虹《にじ》の向こうに、大理石の野外チェス盤があった。緑の中に、白と灰色の大理石で碁盤の目が描かれ、その上に白と黒のチェスが向かい合う。ゲームは、ある時点で中断したままなのだろう。その緊張感が駒《こま》の配置から伝わってくるようだ。
陽が傾いてテーブルの近くに日陰がなくなったのを機に席を立った。
「わたしたち二人のこと、ロベリオは安心しているみたいね」
階段際でユゲットと別れたあと、寛順が言った。話の深刻さを紛らすように、木の笛を軽く鳴らす。舞子はとてもそんな気分にはなれず、手の中で握りしめるだけだ。
「このまま安心させるべきだわ」
「そうね」
舞子も頷く。しかしその行為がどこかでバーバラを見捨てることにつながっているのではないかと思う。
「ビールがきいた。少し眠るわ」
寛順は舞子に笑いかけ、自室の戸を開けた。
舞子の部屋はきれいに片づいている。掃除は午前と午後の二回されていることもある。部屋係と顔を合わせないので、不在のときを見計らってはいってくるのだろう。
ベランダに出て、ハンモックに身を沈めた。初めのうちは窮屈さを感じたが、馴《な》れると宙ぶらりんの姿勢に快さを感じる。空を眺め目を閉じているうちに、二時間も眠り込んだこともある。
馬に跨《また》がり、ロベリオの後ろについていく光景が頭に浮かんだ。ロベリオが歌ったサンバのリズムまでが蘇《よみがえ》ってくる。
舞子は目を開けて、ヤシの木立を眺める。この病院に来て以来、目の前に実際にある風景と、思い出す光景の間に、少しずつ差がなくなってきている。
例えばハンモックの中から見える青空と中庭の緑だ。こうやって目を閉じても、空と樹木は脳裡《のうり》から去らない。去るどころか、瞼《まぶた》が外からの刺激を断った分、よけいに鮮やかに思い出される。こうした変化もブラジルでの生活が板についてきた証拠だろう。
どこかで蝉が鳴き始める。鳥の声のようにかん高い鳴き声だが、鳥と違って息を継ぐための小休止がない。一分も二分も同じ調子で音を出し続ける。
風が少し出てきた。スコールの前ぶれかもしれなかった。
ハンモックから降りて、部屋にはいり、シャワーをあびた。髪をとき、化粧をし直した。
診察の前にはいつもそうやって身だしなみを整えている。
鏡の前に立つ。陽焼けのせいか、少しばかりやせて、身体《からだ》が引き締まった感じがある。首筋も二の腕も同じように黒くなっているので、胸元の白さと比べなければならない。
Tシャツもブラウスも、黄色やピンクが似合うようになった。サルヴァドールで買った黄色のワンピースは薄手の合成繊維なので、洗って絞らずに干しておくと、そのまま着られた。日本円にして千円の代物を、今ではほとんど三日おきに着ている。夜着る時は、これに黄色のヘアバンドをし、昼間は白いズックとの組み合わせがいい。
今もその服装だ。布製の白いポーチを肩から吊《つ》るし、部屋を出た。
水平線上に黒雲が出ていた。次第にこちらまで広がって来る気配だ。知らぬ間に、スコールの前兆を見分けられるようになっていた。
回廊を通るとき、ヴェールをかぶった女奴隷の像の前で足をとめた。何か訴えるように、顔をこちらに向けている。それがバーバラに見え、彼女が呼びかけているのではないだろうかと思うときがあった。
診察室で、ツムラ医師に体温表をさし出す。舞子が毎朝つけているものだ。
「間もなく排卵ですね」
表を見て主治医は言う。「それにあわせて受精を試みます。ドクター・ライヒェルからの連絡でも、あなたの心理状態は申し分ないということです」
あの背の高い心理学者とツムラ医師が自分のことを話し合っている光景は、あまり想像しにくい。直接面談するのではなく、メールでのやりとりかもしれなかった。
「受精の方法は簡単です。静脈麻酔で眠っている間にすべて終わります。苦痛はありません。いやむしろ、夢見心地の間にすべてが終了します」
「夢見心地?」
「そうです。通常の受精と本質的には同じですから」
ツムラ医師は微笑を浮かべて答える。「成功率は百パーセントで、これだけは普通以上です」
いよいよ来るべきものが来たのだ。嬉《うれ》しくて飛び上がりそうになる半面、不安もある。ユゲットの膨らんだ腹部を思い出した瞬間、気分が少し楽になった。
「受精の日は追って知らせます。何か質問は?」
ツムラ医師の日本語が、最初の頃と比べて上手になったと思う。言葉だけでなく、仕草も日本人のように控え目になっている。もっともこれは舞子に接しているときだけなのかもしれないが。
舞子は白状するなら今しかないという気がした。ロベリオから口止めされ、寛順からも厳しく注意されてはいたが、このまま黙っていれば、ツムラ医師自身が危険にさらされる。それを見過ごしていいはずはない。
最後の質問を待つようにして、ツムラ医師は机の上に両手を重ねた。
診察室の中には二人の他、誰もいない。看護婦はツムラ医師が呼ばない限り、はいって来ない。
「バーバラのことは調べがついたのですか」
気を鎮めながら訊《き》いた。
「今、あの日の足取りを調べているところです」
ツムラ医師の表情が引き締まる。
「彼女を見たのは、多分わたしが最後です」
わたしたちと言う代わりに、わたしと言っていた。それでいいと自分で納得する。ツムラ医師の顔色が変わった。
「どこで見たのですか」
「病院の外にある沼地です。首から血を流して死んでいました。いえ、駆けつけたときは、まだ最後の息があったのかもしれませんが」
「舞子さん、誰かと一緒だったのですか」
ツムラ医師の目が光った。
「ロベリオです。乗馬のレッスン中でした。湿地帯のところまで来たとき、女性の悲鳴が聞こえて、そこにバーバラが倒れていました」
何故か涙がこみあげ、舞子はハンカチを取り出す。
「その死体を病院まで運んだのは?」
声を低めて、ツムラ医師が訊く。
「ロベリオがいったん病院まで戻り、ワゴン車に乗った男たち三人が来て、死体を運び去りました」
「じゃ、あなたはロベリオに口止めされたのですね」
沈黙のあと、ツムラ医師が舞子の顔を覗《のぞ》き込むようにして問いかける。
舞子は頷《うなず》く。
「舞子さん、ありがとう」
ツムラ医師はわずかに表情をゆるめる。「ロベリオはぼくも知っています。あとの三人は覚えていますか」
舞子は首を振る。
「三人とも黒人で、病院の警備員のようにも見えましたが、誰というふうには覚えていません」
「そうでしょうね」
ツムラ医師は納得し、黙った。
これで良かったのだと舞子は思う。寛順との約束を守り通すよりも、主治医にこうやって危険信号を送っておいたほうが結局はいいのだ。
「舞子さんも苦しかったでしょう? こういう悲しいことを自分の胸の内にしまいこむなんて」
ツムラ医師はゆっくり言葉を継ぐ。「でも、これからは舞子さんに危害が及ぶようにはさせません。実は、ぼくの宿舎の郵便受に、差し出し人のない手紙が入れられていたのです。手紙といってもメモみたいな英文です。絵葉書に手書きで、封筒も病院の売店に売っている航空便用のものです」
「何と書いてあったのですか」
「病院内の地図と、入口のドアの暗証番号、それにここを調査する必要があるという添え書です。文字はブロック体なので、男文字か女文字か判断しにくいのですが」
「病院のどの場所を調べろというのですか」
もう病院のほうでツムラ医師の行動に疑惑をいだき、何か働きかけているのだろうか。
「ぼくも、病院の中にそういうセクションがあるのは知りませんでした。しかしいったい誰があの手紙をよこしたのか。その動機もつかめずにいるのです」
「どうするつもりですか」
「すぐには動けません。とくに舞子さんから、今のような話を聞いたあとでは、用心深くなります」
主治医は考える顔つきになる。「舞子さんが彼女の死体を見た場所は、そのままになっていますか」
舞子は首を振った。
「ショベルカーがはいって、あっという間に林道ができました。その事件の直後三、四日のことです」
「偶然ではありませんね」
ツムラ医師は唸《うな》った。
「彼女の大きくなったお腹が記憶から消えないのです。本当に可哀相《かわいそう》でした」
「そうでしょうね」
ツムラ医師は何度も頷く。「言いにくいことを告げてくれて、舞子さんありがとう。いいですか、これから先も、ロベリオには怪しまれないよう、平気な顔を見せておくのです」
「はい」
舞子は答える。寛順には申し訳なかった。しかし少なくとも彼女の名前は出していない。最低限の約束は守ったつもりだ。
ツムラ医師は診察室のドアを自分で開けてくれた。舞子の目を直視して、「アテー・ローゴ」と優しく言った。
外来ホールを通って回廊まできたとき、ツムラ医師の郵便受に投げ込まれた手紙を思い出す。あるいはもう既にツムラ医師は、相手の術中にはまりつつあるのではないか。そうであれば、バーバラを死に追いやった見えない組織は、早晩こちらにも手を伸ばしてくるに違いない。ツムラ医師が言ったように、知らぬふりを決め込んでいるだけでいいのか。それとも何か対処法を考えたほうがいいのか。
舞子は、ヴェールをかぶった女奴隷像を眺めながら考えた。