手術は思いの他、短時間で済んでいた。
〈ハースさん、目を開けて〉と若い女性の声で言われたとき、自分は女中を雇っている覚えがないがと不思議に思った。いや自分の家ではなく、ペンションに来ているのだと考え直した。朝寝坊をして、そこの娘に起こされている。目を開け、上体を起こそうとしたが、身体《からだ》が動かない。
顔の上に、ピンク色のマスクをつけ、同色のキャップをかぶった女性の顔があった。自分が手術室にいるのが分かったのはその時だ。〈手術は終わりました〉麻酔担当の女医はそう言って微笑した。
「何時ですか」
自分の第一声は掠《かす》れていた。喉《のど》に入れられていた器具はもうない。
「五時十分」
そうすると手術は一時間半くらいしかかかっていない。うたた寝をしたのと同じくらいの眠りでしかない。
手術室には、主治医に付き添われてはいっていた。徒歩でだ。手術室はホールのように広く、周囲に大小の小部屋が十室ばかりあった。そのひとつひとつが手術室だと気づいたのは、四番の部屋に案内されてからだ。ばかでかい電灯の下の台にも、自分でよじのぼって横になった。何だかセルフ・サーヴィスのレストランに似ていると思った。
主治医は手術室の隅で何か操作していたが、突然音楽が聞こえてきた。手術室に有線放送を引いているはずはないので、主治医がカセットテープをかけたのだろう。曲は何度も耳にしたことのある〈バイーアの月〉だ。それも原作者のジョアン・ボスコの唄《うた》だった。主治医がこちらにウィンクして出て行った。
緑色の手術衣を着た看護婦二人が、手術台の周囲に道具を揃《そろ》え、枕元《まくらもと》に麻酔科医が坐《すわ》って器具を扱っている間、その音楽を聞いていた。
やはり前の日、主治医があなたは手術室でどんな音楽が聞きたいかと質問した。まさか内臓の一部を切りとってもらうハラキリに際して音楽など聞けるとは思ってもみないので、咄嗟《とつさ》には思い浮かばなかった。しかし数秒後、〈バイーアの月〉を口にしていた。
主治医はしかしその曲を知らなかったらしく、歌手名を確かめたあとで、音楽ライブラリーで探しておきます、なければすぐにでも買いにやらせますと答えたのだ。ジョアン・ボスコが作詞・作曲をし、クララ・ヌネスが歌って一時は少しはやった歌だが、もうヌネスが死んで十五年にはなる。三十歳そこそこの主治医が知らないのも無理はない。
『バイーアの月は太陽よりも明るい。月を眺める女たちの目が輝きはじめるから』
そんな出だしの歌を聞いているうちに、左腕に点滴の針が入れられ、半分眠たくなり、麻酔科医の質問が催眠術のようになって眠ってしまったのだ。
目を覚ましたときの音楽も、やはり〈バイーアの月〉だった。まさか手術中の一時間半、その曲ばかりかけていたわけではなく、執刀者たちは好きなサンバあたりで景気をつけていたに違いない。それでも主治医の心遣いは嬉《うれ》しかった。
「手術は成功です」
切り取った胆のうをトレイに載せて、主治医が言った。ハサミで胆のうを切開すると、黒っぽい石が十個ばかり出てきた。
「持って行きますか」
冗談かと思ったが、主治医は大真面目だった。体内にできた石を棚に飾っておくような趣味はない。丁重に断った。
手術室からも歩いて出たのには、自分でも驚いた。腹壁に四個穴が開けられただけらしい。麻酔がきいているのか、痛みはどこにも感じない。
病室に戻ると別の点滴が待っていた。空腹だったが、食事開始は明朝からだと、看護婦が告げた。
もうその点滴も三分の一ほどになっている。
窓の外は暗くなりかけていた。麻酔の切れがけに、手術創に痛みが戻るかもしれない、そのときは知らせるようにと看護婦が言ったのを思い出す。ガーゼをあてられた腹部に手をやって、痛みを確かめる。鈍いひきつりのようなものがあるだけだ。
ひと息ついて目を閉じようとしたとき、今朝外来ホールで見かけた老人のことが思い出された。
手術前の不安をおさえるために、外来待合室まで降りて、売店で新聞を買った。エレベーターのところまで戻りかけて、その老人とすれ違った。どこかで見たと思い、振り返って背中を眺めた。小柄で白髪、年齢は七十近いだろうが、背筋をピンと張った姿勢にはまだ若々しさが充分残っている。
彼の姿を最初に見たのはサルヴァドールの旧市街地区でだ。それも一度や二度ではない。よく食事をしにいく料理学校の近くで何度も出会っていた。歩道で行き会ったこともあるし、カフェテラスに坐っていて、彼が建物の中にはいって行くのも見た。
観光客の多いあの地区で、彼の姿が記憶に残ったのは、ひとつにはあの建物によく出入りしているからであり、もうひとつには、Tシャツに半ズボンというような軽装とは正反対の、スーツにネクタイという恰好《かつこう》だったからだ。七十歳に近い老人が堂々とスーツを着こなしている姿は、あのサルヴァドールでは目立たないのがおかしい。
その彼がこの病院に来ているのは、持病の診察のためだろうかと思いながら、後ろ姿を眼で追った。病気をかかえている様子には見えない。いつもの軽快な足取りでエレベーターまで行き、勝手知ったように乗り込んだ。
旧市街地区のあの建物が売りに出されたのは、もう十年も前だ。持主だった歯科医師が引退のために、建物ごと手放したのだ。
二百年以上たつ古い建物なので簡単に買い手はつかず、一、二年後にドイツ人企業家が購入したらしかった。新しい所有者が決まっても、外見は全くそのままで、内装だけが変えられたという話だ。看板が出るわけでもなく、人の出入りがあるわけでもなく、建物の存在は数年間近在の住民から半ば忘れられていた。
しかし、二年ばかり前から、その建物に出入りする人間がぽつぽつ現れた。黒人やメスチーソ、ムラータではなく、すべて白人というのも、人目をひいた。かといって、その建物に何があるかは定かではなく、近くの商店主たちは、屋上に新しく設けられた二種類のアンテナを眺めて、ポルノ映画でも鑑賞する白人のクラブができたのではないかと噂《うわさ》をしていたのだ。
なるほど、いかがわしい映画の秘密鑑賞クラブだとすれば、一見紳士風の白人ばかりが通うのも納得できた。若い者は少なく、中年から高齢者が大部分で、稀《まれ》に中年女性が混じっていることもあった。
出入りする連中のなかでも、白髪の老人は一番の長老格だったろう。ポルノ映画鑑賞と老紳士の組み合わせを、内心では傑作だと思った。
その老人が、病気の治療でこの病院に出入りしているのではないとすれば、ポルノ映画鑑賞の会員が病院内にでもいるのだろうか。
クラウスは目を閉じたまま考え続けた。
点滴がもう終わりかけたかと思い、目を開けたとき、ドアにノックがあった。「どうぞ」返事をした。
黒人看護婦と一緒にはいってきたのはユゲットだった。
ユゲットは、看護婦が点滴セットを片づけるのをドアの近くに立って待つ。看護婦が出て行ったあと、改めて笑顔を向けた。
「よく来てくれたね」
実際に嬉しかった。
「手術が終わったばかりなんですってね。いつもの様子と変わらないので驚きました」
ユゲットは、手にしていた小さな花瓶を枕頭台《ちんとうだい》の上に置く。小ぶりなひまわりが四つ、花をつけていた。
「腹に穴を四つ開けられただけですんだ。安静は必要ではなく、少々の痛みくらい我慢して動いたほうがいいと言うんだ。これじゃ病院というよりも、スポーツの強化合宿所のようなものだ」
クラウスは苦笑する。手術前の病院生活で栄養状態が改善したのか、あるいはアルコールぬきが良かったのか、ひとり暮らしのときより皮膚に血の気があった。
「しかし、ありがとう。明日になったらさっそく、ひまわりを写生してみる」
クラウスは花に眼をやる。
「わたしだけでなく、三人からのものです」
「あとの二人は元気か。確かカンスンとマイコ。どっちがどの名かは忘れた」
「背の高いほうがカンスン、丸顔の日本人がマイコ」
ユゲットは教えてやる。「二人と一緒に、昨日サルヴァドールに行きました。いつか昼食をご馳走《ちそう》になったレストランで、お腹いっぱい食べた」
「思い出させないでくれ。この病院の食事も悪くはないが、あそこの味つけと種類の多さにはかなわない」
クラウスは唾《つば》を呑《の》み込む。
「あのレストランの真向いに、ひょろ高い建物があるでしょう? 五階建で、暗い感じの」
ユゲットが訊《き》く。
「屋上にアンテナのある建物かい」
「そうです。どういう建物なのですか、あれは」
「俺《おれ》もはいったことはない。昔は歯科医の所有だったのだが、七、八年前に持主が変わって、近所の者も出入りしなくなった」
クラウスはベッドの上に身体を起こし、ユゲットに椅子《いす》を勧めた。
「あの建物に、わたしたちを担当している心理学者がはいっていったのです」
「ほう」
クラウスは驚く。「この病院の職員だね。男か」
「いいえ、女性です。ジルヴィー・ライヒェルといって、四十歳くらいでしょうか」
「ライヒェル? ドイツ人か」
クラウスが首を捻《ひね》る。
「ドイツ系ブラジル人」
「背が高くて、髪は少し栗色がかった金髪ではないか」
「知っているのですか」
ユゲットがびっくりして訊き返す。
「いや俺も見かけたことがある。黒人の多い界隈《かいわい》なので、どうしても白人は目立つ。俺のようにだらしなくなってしまえば、泥の中のなまずと同じで人目もひかない。そうか、あの女がこの病院に勤めているとは」
クラウスは老紳士のことも思い浮かべたが、ユゲットには言わなかった。
「直接彼女に訊いてみてもいいのですが、悪いような気もするし。カンスンやマイコは、あそこに彼女の若い恋人が住んでいるのだと言うのです」
「全くの的はずれでもないだろうな。分かった。彼女には訊かないほうがいい。俺が退院したあと、調べてみる」
クラウスが考える表情になる。「その金髪の心理学者というのはどんな人間なんだ」
クラウスは声を低めた。
「わたしたち患者の心の状態を観察し、ケアしてくれる人」
「じゃ、頻繁に会うのだな」
「初めの頃は、面接も長時間だったけど、この頃では週二回、顔を合わせて様子を訊かれるくらい」
ユゲットは言葉を探しながら言う。何故だか分からないが、ジルヴィーとの面接の内容になると、すべてがおぼろげになってしまうのだ。この病院に到着した当初の面接は、二時間、三時間にもおよぶことがあった。自分の生いたち、家族のこと、恋愛の体験、仕事、趣味などについて詳細に訊かれた。そして何よりもこと細かに質問されたのが、アランに関する事柄だ。
どこで出会ったのか、どんなふうにして好きになっていったのか、彼との性体験、その感激、何を将来誓いあっていたのかと、彼女の部屋で訊かれた。部屋は広くなかったが、スイッチひとつで薄暗がりになり、プラネタリウムのように天井に小さな明かりがついた。壁からは波の音が響いてきて、あたかも夜の海辺に二人|坐《すわ》っているような錯覚にさせられた。向かい合ったジルヴィーの顔はかすかにしか見えない。
彼女の声は波の音とともに耳に届き、自分の気持が何の抵抗もなく口から出ていく。まるで寄せる波がひくように、問答が行われた。
ジルヴィーが身動きひとつせずに耳を傾けてくれたのは、アランの事故とそのあとの悲しみについてだった。ユゲットは、話しながら涙が出るのをおさえられなかった。
事故があって、アランが病院に収容されたと聞かされたとき、あるいはもしやと最悪の事態を一瞬思い描いた。足から力が抜けて立っていられなくなり、椅子に坐り込んで、受話器だけはしっかり耳に押しつけていた。病院の名前と住所、電話番号をメモしたが、それが墓碑銘のような気がして、受話器を置いたあとも呆然《ぼうぜん》としていた。
霧の濃い道をパリ郊外に向け、車を走らせるとき、胸の内で祈り続けていた。こんな理不尽なことは、この世に起こるはずはなかった。アランが一体どんな悪いことをしたというのだろう。わたしがどんな悪いことをしたのかと、ユゲットは問い続けた。周囲が次第に暗くなっていくのが、そのままアランの命を象徴しているようにも感じ、必死でハンドルを握りしめた。
三度ほど車を停めて道順を訊いたから、病院に行きついたのは真夜中を過ぎていた。警備員が救急外来まで案内してくれたが、もうそこには誰もいなかった。手術室の上のランプも消えたままだった。
警備員は電話で連絡をとってくれた。〈植物状態《ア・レタ・ヴエジエタテイフ》〉という単語が彼の口から漏れたとき、頭から血がひくのが分かった。
ブルターニュから両親と妹が駆けつけ、事故から二十時間後に人工呼吸器がはずされた。遺体の安置された霊安室まで足を運ぶのが恐かった。アランの両親と妹がそこにいた。母親は、取りすがっていた柩《ひつぎ》から顔を上げ、無言で首を横に振った。妹がまた声を上げて泣きじゃくった。ユゲットを柩のそばまで誘導したのはアランの父親だった。
「最後のお別れをしてやってくれませんか」
と彼は言い、柩の蓋《ふた》を下方へずらした。
包帯でぐるぐる巻きにされたアランがそこにいた。閉じた目と整った鼻だけが、包帯の間から出ている。ユゲットは思わず上体をかがめて、両手でアランの頭部を挟んだ。名前を呼んだが、目は開かない。頬《ほお》をすり寄せる。包帯が邪魔になった。いつもそうやって触れ合ったアランの唇を包帯が遮っていた、何よりも体温がなかった。包帯を通して伝わってくるのは、石のような冷たさだ。
またひとしきり声を上げて泣く。一晩でも二晩でも泣き続けたい気がした。アランの父親がそっと肩に手を置き、柩から身体を引き離した。
蓋が閉められ、もうこれで永遠にアランとは会えないのだと思った。アランの母親が勧めてくれた椅子に坐った。
「ユゲット、ごめんなさいね」
そう母親が言ったとき、また涙が溢《あふ》れ出した。「ごめんなさいね」
ユゲットは両手で顔を覆う。柩が大きければ、アランと二人並んでそこに横たわることができる。墓の中で朽ち果ててしまえば、永久にアランの傍にいられるのだ。涙の下で、その光景がありありと思い描かれた。
「アランも、さぞかし口惜しいだろう」
アランの父が言った。「ユゲット、本当に申し訳ないことをした。アランは、うちに帰ってくるたび、あなたのことを話していたよ。それがこうやってひとりで旅立ってしまう──」
父親が絶句する。これから埋めていかねばならない悲しみの深さに圧倒されたのか、黙り込んだ。
もうこの悲しみの淵《ふち》から抜け出ることなどありえない気がした。
その後どうやって葬式に参列し、何日後に仕事に復帰したのか、よく覚えていない。化粧はルージュだけをひいて出社し、着ている物が一週間同じだったこともある。衣裳《いしよう》ダンスを開けるのさえ、おっくうだった。
ただ言いつけられた仕事を黙々とこなしただけだ。能率はあがらなかったかもしれないが、上司は大目にみてくれた。魂の抜けた操り人形を前にしては、そうするより他はなかったに違いない。
涙混じりのユゲットの回想を、ジルヴィーは時々|頷《うなず》きながら聞いた。浜辺の乾いた砂に、寄せる波がしみ込むように、ユゲットが口にした悲しみはジルヴィーの耳に無限にはいっていく。
ジルヴィーに会う前、誰にもそんな話をしたことはなかった。モレの町の教会堂でも、キリスト像に向かって〈助けて下さい〉と祈っただけだ。
苦しみと悲しみは、身体《からだ》の隅々までいきわたり、爪《つめ》を切っても、指先をひっかいても、苦悩と悲嘆がほとばしり出るような気がしていた。百時間、千時間話をしたところで、その悲哀は到底尽きることがないと思われたのだ。
ところが、ジルヴィーと四回、五回と会ううちに、身体が軽くなっていった。同時に、あれほど身体の中に詰まっていたはずの悲しみも、ドロドロしたものから、澄んだものに変化し始めた。
そんなときだ。それまで頷くことしかしなかったジルヴィーが初めて言葉を発した。
「よくここまで耐えてきました。本当にあなたは強い人です」
そう言って肩に手を置き、抱擁してくれた。
新たな涙が溢れてきて、ユゲットはジルヴィーの肩に顔を押し当てて泣いた。
「これからは、その悲しみが喜びに変わるのです。耐えてきた分だけ、幸せが戻ってきます」
そんなジルヴィーの言葉が、天の啓示のように耳にはいってきた。冷えきっていた胸の中に温《ぬく》もりを感じたのも、その時だ。
「あなたとアランの思い出の地、モレの教会で、彼に会ったでしょう」
静かな声が響いていた。ユゲットは頷く。
「彼は死んでなんかいませんよ。生きているのです。その証拠に、あなたは彼を見、感じることができた──」
ユゲットはまた頷く。「わたしも、彼を見ることができます」
ジルヴィーは重々しく言い添えた。
耳に波音が届き、頭上には星がまたたいている。アランが生きていると思うと、身体のなかに力が湧《わ》いてくる。確かに、モレの教会堂でアランと会い、彼に触れて言葉も交わした。あれは夢でも幻覚でもなかったのだ。
「彼もここに来ています。会う機会もずっと増えます」
ジルヴィーが言った。「そして、あなたが望んだように、彼の子を妊《みごも》ることができます。あなたたちの愛の結実が、あなたの胎内に宿るのです」
彼女の声は、波音とともに静かに耳にはいってきた。涙が頬をつたう。苦しみ、悲しみ続けた甲斐《かい》があったのだ。やっと暗いトンネルから抜け出せたのだ。ジルヴィーが、何か訊きたいことはないかと尋ねる。何もなかった。頭の中も胸の内も嬉《うれ》しさで一杯だった。
「それでは案内しましょう。アランが待っています」
ジルヴィーはユゲットを部屋の外に導いた。
廊下は薄暗く、大理石の彫像だけが白く浮かび上がっていた。母子像ばかりで、ユゲットは思わず立ち止まる。母親と女の子が花摘みをしていた。ルノワールの絵をそのまま大理石に刻み込んだような像だった。
うっとりとするユゲットを、ジルヴィーはかたわらで微笑しながら眺めた。
「ここにあるのは、すべてわたしのコレクション。えりすぐったものばかり。あなたが見ているのは、ローマの遺跡から出てきたものだわ。傷ひとつないでしょう」
そのときだけ、ジルヴィーは得意そうに顔を上に向けた。
奥の部屋は、モレの教会堂にあった部屋と瓜《うり》二つだった。
手前にある前室で、ヴェルナー神父と会った。神父から長旅の疲れを訊かれた。もうそれもとれたと答えると、神父は微笑し、次の間へ行きなさいと促した。神父は本当にそこにいるのではなく、ホログラムで目の前に投射されているのに違いなかった。
次の部屋に移る前に、双眼鏡のような装置を覗《のぞ》き込む。それもモレの教会と同じで、奥の方に赤い鉤十字《かぎじゆうじ》が光っている。クリック音のあと、顔を離すと扉が開いた。
暗い部屋に、透明な床と、曲面で仕切られた迷路だけが白く浮き出ていた。天井はどこまで高いのか判らず、やはりプラネタリウムのように、高い位置に星座が散らばっている。
ユゲットはゆっくり迷路の中を歩み、中央にある寝台に横たわった。目を閉じると、まず身体が沈んでいき、ついで水の底を流れるような流動感に襲われた。モレの川底だとユゲットは思った。水の匂《にお》いすら、記憶にあるものと重なった。アランはそこにいたのだ。いつの間にか、二人で魚のように川底を泳ぎ始めていた。水中なのに息継ぎの必要がないのが不思議だった。
「会えたね」
アランが言い、笑った。元気そうに陽焼けした顔だ。ユゲットは、これがジルヴィーの言ったことなのだと思った。嬉しさがこみ上げてきた。アランさえ傍にいてくれれば、何もいらないのだ。
「もう絶対に離れないから」
ユゲットはアランの手を強く握りしめる。太くて頑丈な指が握り返してきた。
「ここいらで上がろうか」
アランがユゲットを導くようにして、身体の向きを変える。水の流れが消えて、ひなげしの咲く川岸に二人は立っていた。何度も散歩した場所だった。
アランは革のジャンパーを脱いで、坐る場所をつくってくれた。
そこで長い間抱き合ったのだ。アランの胸に耳を当て、心臓の鼓動を聞いた。視野は赤いひなげしの花で埋められた。
そのまま眠り、目を開けたとき、再びガラスの寝台に横たわっている自分に気がついた。身体には不思議な活力が漲《みなぎ》っていた。迷路の床を踏みしめて部屋を出ると、祭壇にひざまずいていた神父が振り返り、一緒に祈りませんかと勧めた。ロウソクの火が十数本、ゆらめいているのが見えた。
ユゲットは感謝の言葉を唱えた。アランと共に生きていける自分を、この上ない幸せ者だと思ったのだ。
神父の笑顔に送られて廊下に出た。大理石の母子像が目にはいる。ひなげしを摘む母親と娘の像を、もう一度眺める。この像は単なる作り物ではなく、自分の未来をも描いているような気がする。
ジルヴィーが傍に立っていた。
「よかったわね」
彼女から言われて、ユゲットは素直に頷く。「ここで体験したことは、口外無用よ。いつか人に言える日が必ず来るから、それまでは辛抱」
その瞬間だけ、ジルヴィーは厳しい表情になった。言われたことは守ろうと、ユゲットは心に誓った。
そのときから、あの場所に行くのが楽しみになった。迷路の部屋で必ずアランに会えるからだ。そして普通の場所でもアランが現れるようになった。病院の中庭、海岸、森の中、沼のほとり、というように、いろんな場所で彼が待ち受けていてくれる。
「あなたの望み通り、二人の愛の結晶が宿ったそうよ」
妊娠の第一報を告げてくれたのもジルヴィーだった。ユゲットの目から涙がこぼれ落ちるのを、ジルヴィーは優しく眺め、ハンカチで涙をふいてくれた。
主治医のツムラ医師が妊娠の成功を告げたのは翌日だ。ユゲットはもう泣くこともなく、穏やかな気持で礼を言った。
妊娠して以後、ジルヴィーの面接は少しずつ短くなった。あの部屋の入りがけに、挨拶《あいさつ》程度に顔を合わせるだけの日もあったくらいだ。
「退院はいつですか」
ユゲットはクラウスに訊《き》いた。
「三、四日後らしい。痛みがなければ一日くらい早まるかもしれない。退院までは、スケッチでもして過ごすつもりだ」
「わたしも習ってみたい。絵は好きなんです」
「絵は習うものじゃない。あんたが見たままを描けばいいのだ。こんなに楽なことはない」
クラウスは真顔で言う。「その代わり、よく見ないといけない。穴のあくほど見るんだよ。見つめ方がしっかりしていると、手も自然に動く。感情も、おのずから湧き出てくる。見るのが先決」
クラウスはギョロリと目をむき、ひまわりの花に視線を転じた。
「では、また来ます」
ユゲットは言う。
「花をありがとう。あとの二人にもよろしく。えーと、スラリとしたほうがカンスンで、丸顔のかわいらしいのがマイコ。またいつか、あのレストランで食事をしたいな」
「ええ、快気祝いを」
ユゲットは手を振りながらドアを閉めた。