サルヴァドールから四時間のフライトでサンパウロに着く。帰るたびに、ツムラは異国から戻ったような感慨をもつ。海に面したサルヴァドールと違って、サンパウロは二百メートルの高さに開けたテーブル状の台地の上にある。どこかヨーロッパの清淡な気候を思わせる。街で見かける黒人の数もぐっと少なく、代わりに東洋人が目立つ。
ベラビスタ地区のホテルにチェックインしたあと、タクシーでサカガミ弁護士の事務所があるパウリスタ通りまで急いだ。
サルヴァドールで舞子から焼き付けしてきてもらった写真は、鞄《かばん》の中にある。土曜の夕方、舞子はわざわざ宿舎まで訪ねてきてくれた。プリントの出来上がりを急いでいると知っていたのだろう。
「先生、この写真を三人で見たのです。ごめんなさい」
領収証とおつりを添えながら、舞子は頭を下げた。
「先生はこの写真をどこで撮ったのですか」
訊かれても、本当のことを言えるはずはなく、ツムラは返事に窮した。
「大きな実験室かなと三人で言い合っていたのですが、このパネルとコンピューターの写真から、ユゲットが考えたのです。当ててみましょうか」
舞子が無邪気に言う。ツムラも頷《うなず》くしかなかった。
「世界地図のパネルにある赤い点は、保険会社の本社所在地です」
舞子の発言に、こちらの顔色が変わったのだろう、彼女は幾分得意気に続けた。「どうして判ったかというと、この画面にある文字です」
舞子は二枚の写真を示す。そこには姓名、性別、年齢、診断名などが表示されていた。
「この二つとも保険会社の名前です。そうすると、見えにくいのですが、パネルの赤い点の下にある文字も想像がつきます。一部は読めます」
今度はパネルの写った写真を指さした。「東京にも赤い点が三つあって、よく見ると文字が判読できます。全部実在する生命保険会社です。韓国のソウルにも点が二つあるでしょう。見えにくいですけど、寛順によると〈韓進《ハンジン》〉〈亜州《アジユ》〉〈天馬《チヨンマ》〉と読めて、いずれも韓国を代表する生命保険会社だといいます」
「ありがとう。そこまで気にしてくれて」
ツムラは平静さを装って言った。
「約束を破ってすみません」
もう一度頭を下げ早々に帰りかけた彼女をツムラは呼びとめた。
「サルヴァドールは面白かったですか」
「ええ、旧市街が特に。あそこから眺める海はまた格別です」
笑って答え、軽快な足取りで帰って行った。舞子とは逆に、ツムラは暗然と立ちつくしていた。
遺伝疾患の診断装置と血液標本の保存庫、そして生命保険会社という三つの項目から考えつくのは、ただひとつしかなかった。そしてそれこそが、あの区画の存在理由だったのだ。
総ガラス張りのビルの前でタクシーを降りる。十八階に、アントニオ・シゲル・サカガミの事務所はあった。ツムラと同じ日系三世で、高校までは同窓だった。サンパウロ大学の法科を出たあと、わずか三十歳過ぎで、一等地にあるビルにはいることができたのも、手広く肥料会社を経営している彼の父親のおかげだ。しかしそれが信用となって顧客は増え、父親の紹介もあって、日系企業数社の顧問弁護士も務めるようになっていた。
秘書はツムラの顔を見ると、そのままサカガミの部屋に案内した。
「サルヴァドールから直行か」
サカガミは丸太のような腕を伸ばしてツムラを迎え入れる。中学から大学まで柔道でならした体格は、今もって衰えを見せていない。
「一面ガラス張りというのはいいね」
ツムラは窓際に寄って、市街地を見下ろす。
「世間では、総ガラスの建物は、地震がくると地面に割れたガラスが落下すると思っている。これは建築家に確かめたのだが、一番安全なのは総ガラスのビルさ。万が一、地震でもあったら、ガラスの建物の下に避難すべきだよ。他のビルのほうが、頭上から窓枠ごとガラスが降り注ぐ」
ツムラと並んで立ちながらサカガミは言った。背丈はさして変わらないが、ダブルのスーツに身を固めた肩幅はツムラの倍はあった。
サカガミの祖父は移民としてブラジルのコーヒー農園や砂糖きび農園で働き、最後には自作農となって野菜づくりに励んだ。その子、つまりサカガミの父は高校を出て肥料の販売店を始め、後にはサンパウロ郊外に肥料工場を作った。そして息子を大学にやって、弁護士に仕立て上げたのだ。
三代にわたって、内陸部の農園から少しずつサンパウロに近づき、ついに市内の一等地に事務所を持つに至った一族の歴史が、この場所に立つと実感できる。サカガミはそういう気持で毎日窓の外を眺め、日々の仕事の糧にしているのだろう。
日系ブラジル人の若い世代は、誰もが父や祖父、あるいは曾祖父《そうそふ》を意識している。もちろん思春期には、日本語を習うことに反発を覚え、両親にも反抗し、完全なブラジル人になろうと努力する。一方で、日本的な残渣《ざんさ》をひきずっている旧世代を軽蔑《けいべつ》するのが普通だ。ところが、二十代後半あるいは三十歳を過ぎ、実業家や弁護士、医師などの道を歩み出すと、決まって回帰現象がおこる。父や祖父の辿《たど》ってきた道を、自分もまた辿り始めるのだ。
サカガミの事務所の壁にも、日本から取り寄せた書の扁額《へんがく》が掛けてある。ツムラの十分の一も日本語は読み書きできないくせにだ。〈観天下理〉、天を観て理を下す。あらゆる欲を払い、物の道理のみに従って決断せよ、の意味だとサカガミ自身は大威張りでツムラに説明した。
「きみから連絡を受けて、ある程度は調べたんだ」
サカガミはツムラにソファーを勧めた。「もともとこの種の問題には興味をもってはいた。いちおう医事紛争に関連することだからな」
サカガミの得意とする分野は二つあって、ひとつが企業がかかえるさまざまな特許問題、もうひとつが医療問題だった。二つとも、その分野に日系人が進出している結果から生じた戦略とも言える。とくに、医療事故にあった日系人患者や、医療過誤の疑いで訴訟を起こされた日系人医師は、サカガミの事務所に相談を持ち込むことが多かった。
「きみが言う遺伝子診断は大きな問題をはらんでいる。純粋に医学の問題にとどまらず、社会的な問題がそれに付随してくるからな」
クーラーは程良く効いているのに、サカガミはネクタイをゆるめる。ツムラは先を促した。
「合衆国でも、実際に法廷論争があったばかりだよ。話はそう単純ではない。三十二歳の女性が、乳房|卵巣癌《らんそうがん》症候群を将来発生する可能性があると遺伝子診断されて、予防的に外科手術を受けたんだ。乳房切除と卵巣摘出術──」
「ま、理には適っている」
「ところが、保険会社がその手術に対して支払いを拒否した」
「ほう」
ツムラは首を捻《ひね》る。
「保険会社の言い分は、遺伝子診断で将来のある時期に癌を発症するといっても、現時点では病気ではない。病気でもないのに支払いはありえない、というのだ」
「なるほど」
ツムラは唸《うな》る。法律問題ともなると、言葉の端々にまでこだわるのだと感心する。
「保険の誓約書を見ると、保険の支払いが可能なのは、〈病気《イルネス》〉か〈身体的障害《ボデイリイ・デイスオーダー》〉と明記されている。そうすると、将来、高い確率で癌になるといっても、現在は〈病気〉でも〈身体的障害〉でもない」
サカガミは教え諭すように言う。
「それはそうだな。現時点では健常人だ」
「そこで、このままでは不利だと見てとった患者側の弁護士は、医学的に必要な治療かどうかに、論点をずらした。医学的に必要な外科手術に対して、保険会社が支払いを拒否するのは法律違反になるからな」
「しかし、医学的に必要な処置かどうかは、微妙な決定だよ。例えば遺伝子診断で、高頻度にいずれ癌が出現するとなっても、それが十パーセントの確率であれば、医学的に必要な処置とは言えないだろうし、九十パーセントなら、予防的外科手術も医学的に必要と言える──」
「じゃ、三十パーセントならどうなる?」
間髪を入れずにサカガミが訊く。ツムラは返答に窮した。
「それとも四十パーセントなら?」
「難しいな」
ツムラは考え込む。「医師と患者で、または医師によっても考え方は異なるだろうな」
「一審での判決は、原告は現時点で病気ではないので、予防的手術に対して保険金を支払う必要はないというものだった。二審では、それが逆転した」
気をもたせるようにサカガミは言いさす。秘書が運んできたコーヒーカップを手にとる。小さなカップがサカガミの巨体には不釣合だ。
「病気を将来発症する危険性を遺伝的に持つというのは、保険機構の目的からして、病気を有しているのと等価だというのだ」
「しかし、危険性というのは曖昧《あいまい》な概念だよ。一方で、保険の目的と医学とは無関係だ」
医学上での討論と違って、サカガミと議論するときには、いちいち前提を吟味しがちになる。
「そうだな。最終的な裁判官の判定はこうだ。保険というのはあくまで、人の健康に寄与するのが目的だから、健康維持に向かって本人が行う努力には積極的に援助を与えるべきだと結論づけた。つまり、危険性《アツト・リスク》を排除、あるいは減じるべく医師が勧めた手術というのは、通常の手術と同じであり、保険適用という論法だ」
「しかし、そのときの危険性が何かという問題は依然として残る。十パーセントや二十パーセントが、果たして危険性と言えるか」
今度はツムラがコーヒーを口に含む番だ。慣れてくると、法律談議もチェスのようにゲームとして楽しめる。
「そこさ。その〈危険性〉というのが、保険業界に衝撃を与えたんだ。それが拡大解釈されれば、予防的治療や手術が格段に増加する。もともと保険というのはそういう事態を想定していない。すべての予防的処置に支払うとなれば、財政上|破綻《はたん》するのは目に見えている」
サカガミは言葉を探すようにゆっくりした口調で続けた。「要するに〈病気《イルネス》〉とは何か、というのが法律で問われているのさ。遺伝的な危険性を有している状態が、果たして病気と言えるか。病気であるとすれば、それに対する処置は、保険で面倒をみなければならない──」
「しかし、物事はそう単純じゃないよ。遺伝的な危険性というのは、高血圧や糖尿病だってある。そういう遺伝素質をもっている人間は、発病する前から、食事に気をつけたり、運動に励んだりしている。それも医療の管理下でやるとすれば、費用は保険会社に請求できることになる」
ツムラの反論をサカガミはやんわりと制した。
「いや、極論はいかん。法律というのは、あくまでも常識の延長になければ成立しないものなんだ。法廷では、ウェブスターの辞書やドーランドの医学辞典に定義されている〈病気《イルネス》〉の意味も引用して、それを健常状態から逸脱した身体《からだ》の状態と解釈したんだよ。そして遺伝的に発症する危険性をもっている者は、その健常性からはずれているので〈病気《イルネス》〉に値するとみた」
「ちょっと待ってくれ」
今度はツムラがサカガミを制した。「それは医学の実情を知らない素人の判断だよ」
「だから、言ったろう。法律家はあくまで素人を出発点にして、ものを考える」
「健常状態の定義など、医学的にはますます難しくなってきている。例えば、きみが例に出した乳房卵巣癌症候群の女性だって、ひと昔前までは検査法もないので、発症するまで完全に健常状態であったわけだ。逆に、将来診断技術が進めば、どんな小さな遺伝的危険性も前以《まえもつ》て判るようになる。そうすれば人間である限り、誰しも何らかの遺伝子的な障害をもっているわけだから、健常状態にある人間なんてひとりもいなくなる」
ツムラはにわかに雄弁になる。「それにもうひとつ、発症する危険性を取り除くための予防的治療にしたって、果たして有効かどうかだよ」
「確かにそれは裁判でも問題になったようだ」
サカガミは頷《うなず》く。「予防的に乳房切除手術を行ったのに乳癌を発症した例が、いくつか報告されているらしい」
「医療技術に完全と言えるものはないよ。その症例の場合、一度目の手術に対する保険会社の支払いは無駄になっている。再手術に対して、保険会杜は費用を支払ったのか」
「それは知らない」
サカガミは首を振る。「〈病気〉の定義については、もうひとつ、やはり合衆国で問題になった例がある。ある夫婦で、妻のほうが卵管閉鎖のため妊娠ができず、試験管受精をしたんだ。その費用の支払いを保険会社は拒絶した。十年ばかり前のことだ。これは今では古典的になった法廷論争だがね。保険会社の言い分は、不妊の原因が卵管閉鎖であり、その卵管閉鎖がたとえ病気であるとしても、体外受精がすぐさま医学的に必要な治療とは言えない。何故なら妊娠しないのは病気ではないから、というのだ。仮にその卵管閉鎖を取り除く治療であれば支払う用意もあるが、一足跳びの体外受精には支払えない、ともつけ加えた。判決はどうだったと思う」
「裁判官はどうしても患者側に立つだろうな」
ツムラは迷わず答えた。それまでのサカガミの話から、合衆国の裁判の底流にあるものが掴《つか》めたような気がした。
「体外受精によって、結果的には卵管閉鎖を治療したことになるので、費用は保険から支払うべしという判断がなされた。要するに、最初に話した例もこの例も、二つの面で同質なんだ。
乳房卵巣癌症候群の女性の場合は、遺伝子の欠陥によって発癌の危険性の高い状態に置かれており、その治療として予防的に乳房も卵巣も摘出した。さっきの例では、卵管がつまっているため妊娠できないので、体外受精をした。どちらも正当な医学的処置であり、保険会社が費用を支払うべきだという論理だよ」
サカガミが議論を切り上げるように締めくくる。ツムラはまだ完全には納得がいかず、どこかはぐらかされたような気がした。
「昼飯は?」
サカガミが訊《き》く。
「まだ食べていない」
機内でスナックが出ただけだった。
「ぼくもだ」
サカガミが飾り棚の上の時計を見る。「酒でも飲みながら話を続けよう。今日の泊まりは?」
「ブラジルトン・ホテルに宿をとっている」
「兄さんの家には行かなくていいのか」
サカガミは立ち上がりながら言った。
「サンパウロには出て来ていないことになっている」
「日頃、電話ぐらいはしているのだろうな」
ツムラがサルヴァドールに去った理由もサカガミは知っていた。
「兄のほうからしてくる。まだこちらからはする気にならないがね」
「相変わらず強情だな」
サカガミは秘書に行先を告げて部屋を出た。態度のはしばしに貫禄《かんろく》が感じられる。家庭でも小学生の男の子を二人もつ父親であり、妻は医学部の講師をしていた。どこから見ても順風満帆の人生だ。それに比べて、自分の人生はまだ不完全でいびつだとツムラは思う。
「しかし、兄さんとの問題は時間を置くしかないだろうな」
舗道を歩きながら、サカガミがポツリと言った。
「分かっている」
サカガミが兄との確執を心配してくれるのは嬉《うれ》しかった。
「サルヴァドールもいい所だよ。一度来てみるといい。病院はそこから車で二時間足らずの所だ。海の傍でね、景色と人情は申し分ない」
「サルヴァドールは二回行ったかな。ここ七、八年は行っていない」
「家族連れで来てもいい。病院の近くにはバンガロー形式の高級ホテルもある」
「そのうち行くよ」
大通りから右に折れ、さらに小路にはいった。ビルの一階に中華料理店があった。
「ひと月前に開店したばかりで、味もまずまず。コックは香港から招いたそうだ」
サカガミが勝手知ったように入口の扉を押し開ける。
昼食には少し遅く、席は空いていた。サカガミは奥の席を選んだ。
「まさか食前酒までも、中国の酒ではないだろうな」
「いや、アルコールだけは何でもある。ワインにビールにウィスキー」
「カイピリーニャでいい」
「そうだな」
ウェイターも中国系のブラジル人だ。サカガミは任せてくれというように、てきぱきと注文する。
「さっきの話の続きだけどな」
カイピリーニャのグラスを手にしてツムラは切り出した。「遺伝子的に将来発症する危険性が〈病気〉とみなされるなら、十パーセントの危険性でも、やはり病気なのか」
「これじゃ主客転倒だな」
サカガミは笑った。「医者であるきみが、弁護士のぼくに病気かどうかを訊くのだからな。危険性といっても、医学的には二つあるそうだな」
「いや知らん」
ツムラは首を振る。
「聞きかじりだけどな。まず〈生涯危険率《ライフ・リスク》〉。人の平均寿命を七十八歳として、その生涯のうちで個人がその病気を発症する確率。もうひとつは、〈現危険率《カレント・リスク》〉。ある年齢において、その後発病する確率」
「なるほど」
「もし生涯危険率が五十パーセントであれば、もうその人間は、はじめから病気であったともみなせる。いや例えばの話だ」
ツムラが反論する素振りを見せたので、サカガミは手で制した。「しかし、こうなると、保険会社のほうはそれを楯《たて》にとって、今後そういう人間とは契約を結ばなくなる。この理屈は分かるだろう」
「当然の論理だね。生まれたときから病気の人間を保険に入れるとなると、よほど高額の保険料を取らない限り、割が合わない」
「それで、個人救済の保険の目的としては、現危険率のほうが望ましいということになったんだ」
「すっきりしないね。用語の使い分けで、事実を隠しているようなものだ」
「まあな」
サカガミは運ばれてきた料理をツムラに勧めた。べーコンに似た薄片が皿に盛られている。口にすると、微妙な歯ごたえがあった。
「うまいだろう。カイピリーニャに合うのを発見したのはぼくだ。もうひとつの料理もよく合う」
サカガミは上機嫌だった。スポーツマンのくせに議論好きで、酒の席でも理屈っぽい話を続ける。友人たちからはあきれられていた。
「その現危険率を採用しても、線引きの問題は依然として残るんだ」
「当たり前だよ。四十七パーセントの危険率は病気じゃなく、五十パーセントは病気だ、というのはお笑い草だ」
ツムラは言下に言った。
二つ目の皿には脂っ気たっぷりのものがのっている。口に入れたが、肉とも魚ともつかない味だ。ねっとりとしてこくがあり、確かにさっぱりとしたカイピリーニャ向きだ。
「もちろん線引きに科学的な根拠なんかない。恣意《しい》的になってしまう」
サカガミもうまそうに皿の上のものを箸《はし》でつまみ上げた。「しかし、ほんの少しの危険率しかない個人にまで、予防的な外科手術を認めるとなれば、保険会社は破産する。線引きを五十パーセントにするか五十五パーセントにするかで、国家規模での医療費支出は十億ドルくらい違うと算定されている。もちろん合衆国での話だ。リカルド、その肉、気に入ったらしいな。全部食べていい」
二皿目の料理をツムラが次々に口に入れるのを見て、サカガミが言う。
「食べ出すとやめられなくなる」
ツムラはいったん箸を置いて、二杯目のカイピリーニャを注文した。「それで、合衆国での線引きは確定したのか」
「いや論争中だ」
「ブラジルでは?」
「ブラジルどころか、合衆国以外で、この問題に注目している国はない。つまり世界中が無法状態ということだ。百年前のブラジルの土地獲得と同じで、密林を焼き払って、ここが俺《おれ》の土地だと宣言すればそうなってしまう。ま、これがぼくの結論だね。いま、きみがたいらげてしまった料理は何だと思う?」
いたずらっぽい眼でサカガミから訊かれ、ツムラは首を捻《ひね》る。
「ハムにしては硬過ぎるしな」
「豚の耳だ。原物からは想像できない味だろう。そこが料理人の腕の見せ所」
ツムラは驚き、食べたものを確かめようとするが、もう皿には何も残っていない。「ついでに言うと、この皿はサメの浮き袋とガチョウの水かきだ」
ツムラは改めて皿の上に眼をやる。なるほど言われてみれば、水かきのほうはどうにか原形を保っている。しかし浮き袋となると、どんな具合に調理されているのか、想像を超えた。
サカガミはウェイターを呼び、新たに料理を注文した。奇妙な料理を口にしたうえに、久しぶりのカイピリーニャが胃袋にしみて、ツムラはもう酔いを感じていた。
「さて前置きはこのくらいにして、本題にはいる。きみから相談をもち込まれたとき、ぼくは自分の目を疑った」
サカガミは真顔に戻った。「きみの言ったような遺伝子診断のチップが、もう実用化されているとは知らなかった。それは正確なんだな。つまり、誤診はないのだな」
「誤診の確率は極めて小さいはずだ。すべての情報をチップの中に組み入れている」
ツムラは頷く。「きみがさっき例にとったような五十パーセントとか四十パーセントというあやふやさでなく、百パーセント発症するというやつだよ。ただ、その発症年齢までは予言できないがね。それでも、病気によっては好発年代が決まっているから、おおよその察しはつく」
「例えば」
サカガミから言われて、ツムラは書類入れから、写真を取り出す。コンピューターの画面が写っている。
「手紙でも説明した通り、ここにあるハンチントン舞踏病は三十歳前には全くといっていいほど発症しない。大体、四十歳を過ぎて少しずつ症状を呈し始める。それから、こっちのほうは、ま、十二、三歳というところかな」
二枚目の写真には、筋ジストロフィーの診断を示した画面が撮られている。
「そうなると法律的に言えば、生涯危険率は百パーセント、現危険率も百パーセント近くになるな。合衆国でもこれが問題にされたんだ。さっき言った乳房|卵巣癌《らんそうがん》の例と違って、事態は一層深刻になる。言い換えると、これはもう、どの時点でも病気であるのと同じだ。保険会社は契約に慎重になる。病気が既に存在しているのに保険に加入するなど、とんでもないと言うだろう」
「その理屈は分かる」
ツムラは頷く。いったん酔いかけていた頭が妙に澄み始めていた。
「しかもだ。保険加入の問題は単に保険だけにとどまらないのだ」
サカガミが口元を引き締める。「大多数の人間は、勤めている会社を通じて健康保険にはいっている。つまり企業が従業員の保険料をまかなっている例が大部分なのだ。合衆国もそうだしブラジルだって同じ。たいていの国がそういう具合になっている。病気の従業員をかかえれば、労働力の低下と医療費の支出という二つの面で、会社は被害を被るわけだ。そうすると、遺伝子診断で危険率百パーセントの結果が出ている人間など、雇わないにこしたことはない。そうだろう? 小学生だって分かる道理だ」
「その論法でいけば、就職だけでなく、結婚でも問題になるだろうな」
ツムラは暗然とする。
「当然。遺伝子診断は医学の領域を容易に超えてしまう。さらに言えば、人間の生き方までもひん曲げる恐れがある。〈あなたは十代でカクカクシカジカの病気になる〉と診断された子供が、これまでの子供と同じように育つと思うか。親だってそれを知っていれば、育て方がギクシャクしてくるさ」
サカガミは新たに運ばれた皿に箸をのばした。もう店内のテーブルに残っているのは二人だけだ。
「雇用に関して言えば、将来従業員を雇うときに、遺伝子診断の結果を求めることもありうるな」
ツムラが訊《き》く。
「しかし、そんなことは許されない」
サカガミが語気を強めた。「それは人種差別よりも人道に反するものだよ。いわば遺伝子差別だからな。人種差別より徹底している。逃げ道がない。それが許されれば、社会はまた百年二百年前に逆戻りしたのと同じになる」
「しかし、そうなるのをどうやって防ぐのだ」
ツムラは思わず訊いてしまう。「現実に医療の現場では、遺伝子診断が進んでいる。もうこの流れは止められないよ」
「合衆国では去年、法律が発効した。遺伝子診断をした医療機関は、その結果を保険会社に知らせてはいけないとね」
「雇い入れる企業側はどうなんだ」
「もちろん、従業員に遺伝子診断を強要してはならない」
サカガミは飲み物をビールに変えていた。牛肉にタレをからめた料理が出ていた。
「他の写真を見せてくれ」
サカガミから言われて、ツムラは写真をテーブルに並べる。
「これが血液標本の保存庫で、こちらが診断チップの操作室。こちらのほうはコンピューター室で、パネル上に散らばっている赤い点はどうやら保険会社の所在地らしい」
ツムラの説明を聞きながら、サカガミは八枚の写真を興味深く見比べた。
「リカルド、これはさっききみに言った情報センターだ。病院の中にあるのか、この部屋は?」
「そう。しかし同じ建物の中でも、他の部門とは完全に切り離されている」
「なるほど、医療とは異質な場所だからな。スタッフも技術者と事務員がいればいい。五、六人で充分やっていけるだろう。そして収入は医療部門の数倍は期待できる」
「どういうことだ?」
ツムラは酔いが醒《さ》めていくのを感じた。
「たぶん、この二つの部屋はそれぞれ別の機能をもっているのじゃないか。パネルの上の世界地図は同じだが、保険会社は違うだろう。写真を撮ったのはきみか?」
「もちろん。夜中に忍び込んでだ」
「どうしてこういう場所があると判った?」
「メモが郵便受に入れられていた」
口の中が渇き始めていた。カイピリーニャを思い切って飲み干す。
「誰の仕業なんだい」
「分からん。落とし穴かとも思ったが、メモにあった通りに行ってみたんだ」
ツムラはありのままをサカガミに言っておく必要を感じた。「実はな、受け持ちの患者が妙な死に方をして、その調査をしているところだったのだ。コンピューターに入れていたその患者のデータもそっくり消えていたので、おかしいと直感した」
「おかしいというのは病院がか?」
「まあ、そうだ。コンピューターを管理しているのは病院だしな。そんな矢先に、メモが放り込まれた。どうするか迷ったよ」
「内部告発かな」
サカガミも首を捻る。「表立っては動けないので、さりげなく情報を第三者に与えて、全体を明るみに出してもらおうとするやり方かもしれん。それにはきみが適任者と見たのだろう」
「しかし何を告発する?」
「まだ察しがつかんか」
サカガミが逆に問い返す。「ぼくが考えるに、さっき言った法律はブラジルには存在しない。そこをついて、新たな事業をきみの病院は手広くやっている。それも二方向《バイラテラル》でね」
「二方向《バイラテラル》?」
ツムラはサカガミが使った英語を復唱する。
「患者は自分が遺伝子疾患にかかっているかどうか、前以《まえもつ》て知りたい。それでフォルテ・ビーチ病院に血液を送り、診断してもらう。陽性だと判明すれば、その結果を隠して保険に加入する。それもなるべく手厚い保険にね。
逆に保険会社のほうは、加入者の事前チェックのために、血液標本を送る。陽性の場合、何か別の理由をつけて断るか、契約事項の内容に留保をうまく盛り込むだろうね。いずれにしても、病院は保険会社と患者の双方から高額の診断料をせしめることができる。いい事業だよ」
「知らなかった」
ツムラは憮然《ぶぜん》とする。「ぼくはあの病院の医療水準に惚《ほ》れ込んで就職したのだ」
「確かにな。他のスタッフもそうだろう」
サカガミは同情するように言った。テーブルの上に新たな皿が置かれたが、食欲はもう萎《な》えていた。
「これは犯罪ではないのか」
ツムラは思い切って訊く。
「保険会社への情報提供については、ブラジルに取り締まる法律はない。しかし、合衆国の保険会社がこのパネルには相当数掲示されているだろう。合衆国の法律には違反しているので、FBIの調査対象にはなるはずだ。
それに、おそらくこの事業に関して、脱税をしているのは間違いないだろう。となると、ブラジルの警察も当然関心をもつ。きみがその気になれば、ぼくが動いてもいい。合衆国の弁護士を通じてFBIに連絡をとることも可能だ。あいつら、すぐにでも腰を上げるよ。何しろ、この分野では最初の犯罪だろうからな。
明るみに出れば、スキャンダルになること間違いない。合衆国の保険会社は相当ダメージを受けるはずだ。その他の国の保険会社は法的規制はないので、何とか言い逃れはできる。とはいえ、各国とも法律づくりに対する世論は高まる。要するに、ひとり合衆国とブラジルのみならず、世界中の耳目を集めるのは必至だね」
アルコールがはいっているにもかかわらず、サカガミの顔は蒼《あお》ざめていた。
店内に客は二人だけで、遠くにウェイターがひとり所在なげに立っている。
「大事件だな。患者の不審な死も、この件と関係あるだろうな」
「手紙に書いていたやつだな。どんな患者なんだ」
「二十四歳のドイツ人女性で、人工受精のために入院していた」
「ドイツでは何をしていたんだ」
「コンピューター会社に勤めていたはずだ」
「FBIの内偵員とかではないだろうな」
サカガミが真顔で言った。
「まさか。何度も診察して、ちゃんと受精にも成功し、妊娠二十五週だった。そんな大それた女性には思えん。ごく普通の女だ。金髪|碧眼《へきがん》でドイツ美人の典型ではあった」
ツムラはバーバラの陰毛までが美しい金色をしていたのを思い出す。
「彼女の死とこれが関連しているとすれば、コンピューターかもしれない。遺伝子診断の結果も、病院内のコンピューターに入れられているのだろう?」
「それはそうだ。すべてコンピューター化されている」
「彼女がコンピューターを操作していて、そういうからくりに気づいた可能性はある」
「秘密をかぎつけたから消されたというわけか──」
ツムラは思わず背筋を伸ばしていた。病院の裏側を知ったという点では、自分もバーバラと同じ立場ではないか。
「ひとつ分からんのが、きみに渡されたメモだよ。内部告発か、おびき寄せか。きみがそのドイツ女性の死に疑問をいだいていることは、かなり知られているのか」
サカガミが険しい表情で訊く。ツムラが置かれている状態の厳しさに改めて気づいたようだった。
「ある程度はな。あちこちで尋ねまわった」
「それを承知で、きみに同情的な奴《やつ》が、それとなく知らせたのかもしれない。仮におびき寄せるとなると、今頃こうしてのうのうとサンパウロあたりまで来られないだろうからな」
サカガミは自らの結論に安心したように、再び料理に手を伸ばした。「ワニのスープが冷えてしまうぞ」
ツムラはサカガミにならって、碗《わん》にスープをつぐ。ほのかにしょうがの味がした。
「しかし問題はこれからだ。本当に感づかれたら、ドイツ女性の二の舞になる」
サカガミはツムラの顔に眼を据えた。徹底的に探ってみるのか、それともこのままうやむやにするか、お前の決定に従うという目つきだ。
「覚悟はしている。引き下がるわけにはいかんだろう。その過程でバーバラの死因がはっきりすれば、彼女に対しての供養になる。主治医として、頬《ほお》かむりしたまま逃げることは許されん」
「じゃ、決まりだ。こっちでもサンパウロ警察の検事に連絡をとる。合衆国の友人にも電話して、FBIに接触してもらう。その二つが動き出すとしても、最初は内偵だ。きみには迷惑がかからんように動いてくれるはずだ。きみのほうでは、しばらく、立ち入った行動は控えたほうがいいだろうな。写真と資料は預っておく」
「分かった」
ツムラはカバンに入れていた病院案内のパンフレットをテーブルの上に置いた。