レストラン内の舞台では、いつもの楽団がボサノバを演奏していた。初老の男性歌手は声量があるわけでもなく、囁《ささや》くように歌うのだが、ポルトガル語が分からない舞子でさえも、歌詞を理解した気分になる。
「何時に約束したの?」
寛順《カンスン》が腕時計を見た。
「八時半」
舞子が答える。ダミアンと村の中で会ったのは昼少し前だった。〈今夜八時半、この教会の前に来れば、海亀の産卵が見られる〉〈ぼくが案内する〉という話の内容を理解するまで、五分くらいかかった。ダミアンは地面に海亀の絵を描いたり、舞子の腕時計を指さしたりして、根気よく説明した。
「本当なんでしょうね。海亀の産卵はみんな見たがっている。その時期がくれば、病院内に掲示が出されるはずなのに、そんな気配もないわ」
ユゲットが言った。
「多分ダミアンだけが知っている場所があるのよ」
寛順は答える。「産卵て、神秘なものでしょう。大勢で見るのはよくない。ダミアンもそのあたりのことは心得ているのだと思う」
「カメラは?」
「持ってきている」
寛順がバッグを示した。「曲が終わったら出かけよう」
演奏は佳境にはいりつつあった。男性歌手と女性歌手が交互に唱い合っている。親子ほどの年齢の開きはあるが、男性の落ち着いた声と、女性のかん高い声が見事に調和している。食事を終わった客も席を立たずに耳を傾けていた。
曲のあい間で、舞子たちはレストランを出た。
水銀灯に照らし出された芝生の間の小径《こみち》を辿《たど》って、浜の方に向かった。背後で、新たなボサノバの演奏が始まっていた。
暗闇《くらやみ》の中に沈んでいた海と砂浜が、目が慣れるにつれて微妙に見分けられるようになる。
「ちょっと待って」
ユゲットが立ち止まり、サンダルを足からはずした。
「気持いい。昼間と違って、砂も熱くない」
舞子も寛順もユゲットにならう。三人ともスパッツとパンツなので、波の中にははいれない。せいぜいくるぶしまでの波を味わうだけだ。
「やっぱり満月かしら」
寛順が海の上の月を見やる。
「満月の一日前か一日あと」
舞子が答える。正確な円にはどこか欠けている気がした。
「わたしには見分けがつかない。丸く光って見えるだけ」
少し近視のユゲットが首を振った。
レストランの音楽に代わって、波の音が耳を占め始めていた。
暗い海の上に光の帯が走り、また消える。灯台の明かりだ。
ヤシの木陰から小さな人影が砂浜にころがり出て、止まった。
「彼じゃないの」
寛順が言い、試すように手を上げる。小さな人影も頭上で両手を振った。
「ダミアンよ」
舞子は嬉《うれ》しくなる。両親にはどんな言い訳をして出てきたのか。一時間くらいヤシの木の下で待機していたのかもしれない。
「ボーア・ノイチ」
まだはっきりと顔が見分けられないうちに、人影のほうが呼びかける。ダミアンの声だった。
「ずい分待ったのじゃないの」
ユゲットが英語で訊《き》いたが、ダミアンは白い歯を見せて笑うだけだ。
こっちだ、と言うようにダミアンは歩き出す。裸足《はだし》だった。暗さも気にならない様子だ。
「遠いの?」
ユゲットが英語で訊き、「ロージン?」とポルトガル語で言い直す。
ダミアンは五本の指を広げる。「五《スインコ》」という言葉だけ、舞子は理解できた。
昼間はパラソルと一緒に砂浜に並べられている椅子《いす》とテーブルも、うずたかく小屋の前に積み上げられている。だだっ広い浜辺だ。
礼拝堂の脇《わき》にある外灯で広場の様子がぼんやりと見分けられた。ベンチに老人が二人坐り、ダミアンの姿を見ると声をかけた。ダミアンは面倒臭そうに短く答えたきりだ。
そこから灯台の先端が見上げられた。強い光ではないが、暗闇の中に光の線がくっきり浮かび上がる。昼間は見捨てられたように立っていた塔が、今は生き物じみて見える。
「このあたりにも船が通るのかしら」
暗い海を見やって寛順が訊く。「小さな漁船以外、見たことがない」
「ひと月前に、沖を客船が通ったわ。思い切り陸地寄りを航行したのかもしれない。大きな船だった。その一回だけ」
ユゲットが答える。
灯台の下の入江には、七、八隻の小舟が浮かんでいる。桟橋があるわけではなく、錨《いかり》や、岸につないだ長いロープが船の動きを制御しているだけだ。しかも夜中に操業する様子は全くなく、船の大きさからして遠い沖合いに出ていくことも無理だ。
ダミアンが舞子に何か話しかける。足は痛くないかと気にしている様子だった。貝殻の破片が多くなっていた。三人ともサンダルやズックを足にはき直す。ダミアンはその間三人から眼をはずして海の方を眺める。小さいながらも、いっぱしの青年気取りでいるのが見てとれた。
砂の上は歩きにくい。急ごうとすると足が砂に食い込む。体重を横滑りさせるようにして、小さく歩くのがコツだ。
ダミアンが嬉しそうに、舞子に話しかけてくるが、さっぱり理解できない。分からないと言えば、以前と同じように執拗《しつよう》に絵で説明するに違いない。分かったような顔をして頷《うなず》いているのが一番よかった。レストランでボサノバの音楽を聴いているのと大差はない。曲の感情だけは伝わってくる。ダミアンの言っていることは、たぶん海亀|讃歌《さんか》だろう。毎年忘れずにこの浜にやってくる海亀の偉大さを語っているのだ。
「一回に百個近い卵を産むのだって」
ダミアンの話をじっと聞いていたユゲットが言った。百という数字を耳がとらえたのだ。
「一回産んでしまうと、もう帰ってしまうの?」
寛順が英語で訊くが、ダミアンには通じない。
ユゲットがポルトガル語を並べたてて、ようやく分かったようだ。指をたてながら答える。
「産卵のシーズンは三ヵ月。その間に三回くらいは上陸するらしいわ。つまりひと月に一回ここにやって来て、あとは帰っていく」
ユゲットが何とか通訳してくれる。
「産んで帰ったあとはどうするの?」
寛順がまた訊き、ユゲットが必死で通訳する。ダミアンが短く答える。
「海をぐるぐる回るのだって」
「海と言ってもいろいろあるわ」
「大西洋いっぱいじゃないかしら」
舞子は、海亀博物館の中にあった地図を思い出して言う。大西洋を一年かけて回遊する様子が矢印で描かれていたのだ。
「そう。そしていつも産卵場所は同じなのね」
寛順が感激した面持で頷く。
ダミアンが立ち止まる。砂浜の先に何か見つけたようだ。舞子には単なる薄闇《うすやみ》にしか見えない。バッグから小さな懐中電灯を取り出す。ダミアンが、照らしてもいいだろうという表情で応じ、ゆっくり歩き出す。
二十メートルほど進んだところで、ダミアンが低く叫んだ。しかし何も見えない。舞子の手を取るようにして、ダミアンが懐中電灯の光を前に向ける。
海亀の甲羅と頭部が見えた。直径が七十センチはあろうか。甲羅の後ろ半分は砂の中に埋まりかけている。前足を折り、太い首を思い切って前に伸ばしていた。光に照らされても微動だにしない。
三人とも息を呑《の》んで腰をかがめる。ダミアンだけが海亀の傍にしゃがみ込み、優しく声をかける。その仕草は、まるで出産の介助をする助産婦だ。
そのあと後ろに回り、舞子の懐中電灯を取って光を海亀の尻《しり》に当てる。
甲羅の下の隙間《すきま》に、白いピンポン玉のような卵が見えた。神々しく光っている。
「産まれる」
ユゲットが声を上げた。
甲羅の下の肉が開き、白い卵が顔を出す。粘液に包まれた表面が青白く光る。凝視している間に、卵全体が外に出て、ポトリと穴の中に産み落とされた。
誰もが声を失っていた。
海亀は四人が見守るなかでも、動こうとしない。しっかり目を見開き、ちょうどガマ蛙のように大地に踏んばっている。
またピンク色の肉が開き、新たな卵が顔を出す。石像のように不動の海亀の身体《からだ》のなかで、そこだけが別世界だ。刻々と白い玉が大きくなり、膨らんだかと思うと急にしぼみ、尾を引く粘液とともに砂の穴に落下する。
「すごいわ」
寛順が潤んだ目を上げる。「感激しちゃった」
舞子も同じ気持だ。
圧倒される思いで懐中電灯のスイッチを切る。海亀の身体は薄闇に包まれたが、月の光が甲羅と首筋をほのかに浮かび上がらせている。
波の音がした。
「こんなところで、たったひとりで産むのね」
ユゲットが坐《すわ》ったまま周囲を見渡す。暗い海と砂の盛り上がりの他は、何もない海岸だ。
砂の上に、海から上がって来た跡が帯状についている。
「見ているのは月と星だけ」
舞子は空を見上げる。星がまんべんなく空にはめこまれている。
ダミアンは砂の上に腰をおろし、海亀よりも、舞子たちの驚きぶりを満足気に眺めている。
三人が見ている間に、二十個ほどの卵が産み落とされただろうか。海亀の甲羅が初めて動いた。前足を立てて少し前進し、後足で穴に砂をかけ始める。
闇の中でも勝手知ったような動作だ。穴の中に露出していた無数の卵が、みるみるうちに砂に隠され、遂に見えなくなる。海亀はその上をさらに平らに踏み固めた。
ひと息つくまでもなく、海亀はゆっくりと前進し、海に向かってUターンする。力を使い果たしたのか、四本の足は重い甲羅を持ち上げるので精一杯だ。ひたすら波の方向に身体をひきずっていく。
四人とも立ち上がって、その姿を見送っていた。
海から出て来たときの跡と、帰っていく道筋が途中で重なる。ようやく波打ち際までたどりつくと、最初の波にぷかりと身を浮かべた。引く波と一緒に向こう側に吸い込まれ、見えなくなった。
「よかった」
ユゲットが小さく拍手をする。「ショーを見ているようだった」
舞子も同感だ。「オブリガーダ」とダミアンに言った。
ダミアンも白い歯を見せて笑い、何か問いかける。どうやら、もっと見たいかと訊いているようだ。
「まだ何匹もいるの?」
寛順が手真似で質問すると、ダミアンは頷く。
波音だけしかしない海辺で、何十匹もの海亀がそれぞれ一生懸命に卵を産みつけているのだろうか。
ダミアンが舞子の懐中電灯を手にして歩き出す。産卵の場面を目撃したあとでは、砂の上を歩くのにも用心深くなる。
「そうか、海からの足跡で海亀の居場所が判るのよ」
ダミアンのすぐ後を歩いていたユゲットが言う。なるほどダミアンは、懐中電灯の光を時々|渚《なぎさ》の方に向けた。
しばらくしてダミアンが足を止める。用心深く光を移動させる。黒い塊が七、八個、砂の中に浮かび上がった。
「みんな産卵中なのね」
寛順が感激したように言う。
舞子は砂の上を静かに歩き、一番手前にいた海亀に近づく。そっと腰をかがめて、海亀の顔を眺めた。人の気配にも驚いた様子はない。最大限に首を伸ばし、目を見開いている。大きな前足が、ちょうどクレーン車の重みを支えている支柱のようだ。砂地の中に食い込み、動かない。
卵は規則的にひとつずつ産み落とされていた。月明かりに光る粘液がそのまま産みの苦しみを表わしているように思える。声は出さないが、海亀の鳴き声が聞こえてきそうだ。
卵がまるで巨大なオパールのように青白く光る。
ユゲットも寛順も海亀の傍にしゃがんで見入っている。
舞子は涙がこみあげてくるのを覚える。何の涙だろう。悲しみではない。嬉《うれ》しさだ。ちょうど感動的な音楽を耳にし、芝居を見たときと同じだ。
ダミアンがすぐ横で、海亀の首筋を撫《な》でる。海亀は嫌がる様子もない。舞子もおずおずと真似た。
石のように硬い皮膚だ。こんな身体の内部に、あんな美しい卵が宿っているなんて信じられない。
海亀の口からよだれが垂れていた。
舞子はティッシュを出して口の周囲を拭《ふ》いてやる。その瞬間だけ、海亀は気持よさそうに瞼《まぶた》を閉じた。
寛順が立ち上がる。眺めていた海亀が産卵を終わって砂をかけている。卵は百個以上はある。
寛順はその光景をカメラにおさめる。続いて、海亀が渚まで歩く姿、波に乗ろうする姿にもシャッターを押した。
「産卵の場面のアップは撮らなくていいの」
舞子が訊《き》くと寛順はかぶりを振る。
「何か申し訳ない気がするのよ」
代わりに寛順はユゲットの方にカメラを向けた。
舞子の前の海亀が前足をおこす。身体を移動させ、後足で砂を押しやる。
「二人ともしゃがんで」
寛順が言った。海亀を真中にしてダミアンと舞子が腰をおろす。海亀はフラッシュにも我関せずで砂かけを終わり、そそくさと歩み出す。
ユゲットが見ていた海亀も動き出していた。
寛順がカメラの操作をダミアンに教えている。ダミアンはカメラを手にするのは初めてらしく、持ち方もぎこちない。ファインダーを恐る恐る覗《のぞ》いている。
舞子と寛順がユゲットの傍に行き、腰をかがめる。
ダミアンがカメラを向ける。しかしいつまでたってもフラッシュが立たない。シャッターを半分くらい押して作動を確かめ、さらにもうひと押しする要領が難しいのだろう。
待っている間も、海亀はせっせと砂かけを続けている。
「チーズ」
寛順が言う。フラッシュが光る。ダミアンが嬉しそうに笑う。もう一枚、と寛順が指示を出す。海亀が移動を始めていた。帰路を遮るようにして三人はしゃがみ込む。そこをまたダミアンが写真にとる。
「さあ、今度はダミアンが真中」
寛順がダミアンと入れ替わる。
ダミアンは舞子とユゲットの間で、ひょいと腰をかがめ、海亀を抱きかかえた。海亀は首を伸ばしたまま動かない。寛順がシャッターを押した。
「わたしにも抱かせて」
寛順がダミアンから海亀を受けとる。
「重たい」
寛順が声を上げるところを、舞子がカメラにおさめてやる。
「赤ちゃんよりもずっと重い」
寛順と代わって海亀を抱えたユゲットが驚く。舞子も抱いてみる。冷たいと思っていた甲羅にはかすかに温《ぬく》もりがあった。
ダミアンに海亀を託したあとも、そのずっしりとした重みと温もりが腕のなかに残った。
ダミアンは海の中にはいり、海亀を波に浮かべ、まるで模型の舟を進水させるように沖へ押してやる。しばらく海亀は浮かんでいたが、次の波が来たときには姿を消していた。
浦島太郎のようだと舞子は思う。ダミアンはそうやって物心ついたときから、海亀をいたわり、海に戻るのを見送ってきたのに違いない。
「いいものを見せてもらったわ。オブリガーダ」
ユゲットがダミアンに言う。
「卵が全部|孵化《ふか》するといいわね」
「孵化したら、小さな海亀がぞろぞろ海に向かって歩いて行くのね」
舞子は英語でダミアンに話しかける。仕草でようやくダミアンは理解したらしく、両手の指を広げる。孵化するのは十週後ということらしい。ダミアンは、無数の子亀が一斉に海に向かって走る様子を腰を振って真似した。
舞子の持つ小さな懐中電灯を水先案内にして、灯台の方に引き返す。潮がいくらかひいていた。
灯台の明かりが、夜空に細長い光のくさびを打ち込んでいる。静まりかえった村やヤシの樹木、人影のない海辺で、機械的に動く光の筋だけが直線的だ。
「海があれば、夜中でも漁船が魚をとっているのに、ここはそんな気配もない」
寛順が暗い海を見やる。
「多分、それほどまでして魚をとる必要がないのよ。お百姓さんと同じ。夜中まで畑に出ている人なんていないでしょう。それくらい豊かということなのかもしれない」
ユゲットが言う。「自分たちが食べるだけで充分。それ以上はいらない」
それは舞子も村の中を散歩したときに感じたことだ。土壁やレンガでできた家はおしなべて小さく、入口を仕切る布の間から薄暗い内部が見えていた。きらびやかな家具がある様子はなく、ぼろ布をまとった裸足《はだし》の子供が出たりはいったりしていた。
しかし子供たちの目はダミアンと同じように、輝きを宿していた。舞子の顔を見ると無邪気に笑いかけるのだ。白い歯が美しかった。
村の様子はダミアンを見れば分かる。ダミアンが村そのものなのだ。
色褪《いろあ》せた黄色いTシャツは、脇腹《わきばら》のところに鉤裂《かぎざ》きができている。グレーの半ズボンは大人のおさがりだろう。だぶだぶの腰回りを古びた革バンドで絞め上げている。そして裸足──。
病院に出入りしている子供たちと比べると服装には天と地の開きがある。しかし舞子との約束を守り、海亀見物を請け負ってくれた彼の行為のどこに、貧しさがあるのだろうか。
「何だか、病院よりも村の中で生活したほうがよさそう」
舞子は思わず口に出してしまう。
「わたしも。どこか雇ってくれるところないかしら」
ユゲットがおどけたように言った。「会社勤め以外にわたしができることと言えば、料理づくりと洗濯、掃除。ペンションで雇ってくれるかもしれない」
「わたしは何もできない。でも、畑仕事は覚えられる」
寛順が自信あり気に言う。
「そうね、寛順は畑仕事ができる」
舞子は言う。それに比べて自分は駄目だ。日本にいた頃は、たいていの仕事はこなせると思っていたが、こんな村を前にすると無力なのを感じる。
灯台の光がゆっくりと回転し、光の軸が時折頭上をかすめた。
礼拝堂前の広場には誰もいなかった。裸電球の下に、半壊した舟が横倒しになっている。
「ダミアン、ありがとう。ここでいいわ」
ユゲットの言葉に、ダミアンは笑顔を返すのみだ。まだ大丈夫とでも言うように歩き続ける。
「ありがとう。心強いわ」
ヤシ林の向こうに、ところどころ明かりが残る病院の建物が見えていた。
舞子は海亀の産卵光景を思い起こす。海亀が大海原を横切ってこの浜に辿《たど》り着き、必死で産卵するのと、日本から地球を半周してこの病院に来ている自分とは、どこか境遇が似ている気がする。
海亀の上陸する浜がすぐ傍にあると、辺留無戸《ヘルムート》からも聞かされていた。見てみたいという思いが、やっとかなえられていた。それもダミアンによってだ。
二、三歩先を歩いていたダミアンが足をとめた。十数メートル先の波打ち際に、黒い漂流物のようなものが横たわっていた。
ダミアンが舞子の懐中電灯を取り上げて、急ぎ足で近づく。
漂流物は人の形をしていた。
ダミアンが懐中電灯で照らす。
ユゲットが小さな悲鳴を上げた。
舞子はそれ以上近づく勇気はなかった。全身の濡《ぬ》れ具合からみて、生きている人間とはもはや思えない。
ダミアンだけが近づいてしゃがみ込む。うつ伏せになった顔に光をあてる。
「ロベリオだわ。死んでいる」
ダミアンの肩越しに寛順が言った。
舞子はユゲットの手を握りながらおずおず近寄って、横顔を確かめる。どこにも傷跡はない。ろう人形のように血の気のない顔があるだけだ。
「ロベリオよ」
「間違いない」
ユゲットの声が震えていた。「病院に知らせないと。わたしが行ってくる。あなたたちはここにいるのよ」
ユゲットが歩き出す。ダミアンも一緒に行かせたかったが、寛順と二人で死人の傍に居残る自信はない。
「水死かしら」
舞子の日本語に寛順は首を振った。
「こんな時間に水死などおかしい」
寛順はダミアンを無視して早口の日本語で答える。
「口封じかもしれない」
寛順が言う。
ダミアンがもう一度、懐中電灯を死体に向けた。
足には、破れ目のあるズック靴がはいたままになっている。乗馬のレッスンの時も、その靴だったような気がする。小豆色のコットンパンツに白いシャツ。どこにも血はにじんでいない。
「水の中に顔をつけられたのだわ、きっと」
ロベリオの頭部が照らし出されたとき、寛順が言った。陽焼けしていた首筋が、今は見違えるように白く、力強さを失っていた。鼻腔《びこう》に粘液のようなものがにじみ出ている。半開きの唇の間から白い歯がのぞいていた。
「わたしたちがここを通ったときは、何もなかったから、一時間かそこらしかたっていないはず」
寛順が周囲の砂浜を見回す。四人がつけた足跡以外、何も見えない。
「死体をここに運んできた可能性はないかしら」
舞子は低い声で訊く。誰かがこちらを見張っているような気がした。ダミアンが心配気な眼を向ける。
「運んで来たとすれば舟でよ。舟なら足跡もつかない。首筋にも締められた跡はなさそう。強制的な水死──」
寛順はダミアンの方を見て両手を広げる。もはやどうにもならないといった顔つきだ。
ダミアンは気丈な顔で、歯をくいしばっていた。
病院の庭の方角で人声がしていた。ユゲットの通報で男たちがこちらに向かっているのだろう。やがて数人の人影が浜の先に現れた。
「わたしたちもこんなにならないように気をつけるべきよ」
寛順の日本語が耳に届く。「ロベリオもどうせ病院に運ばれて、ただの水死にさせられるのよ、きっと」
舞子は慄然《りつぜん》として、近づいて来る男たちのシルエットを眺めやった。