クラウス・ハースが一週間ぶりに酒場に行ったとき、常連の客たちは一斉に手を叩《たた》いた。
「生きていたのか」
店主のアルティーノが言った。「どこかで血でも吐いて死んでいるのじゃないかと心配していた。警察を呼んで、あんたのアパートを開けてみようかという話まで進んでいたのだ。スケッチ旅行か。それとも遺産相続でドイツに戻っていたのか。黙って行くとすれば、そっちのほうだな。たんまり懐にはいったろう」
「いや、遺産はまだすんなり手にはいっていない。ゴタゴタが続いているさ。その証拠に、痩《や》せて帰ってきた」
常連客のヴィルジリオが、値踏みをするようにクラウスの顔を見る。
「田舎の方にある病院に入院だ。腹の中にたまっていた石を取った」
胆のうと言っても理解してくれるはずもないので、クラウスは単純に腹の中だと説明する。
「お前、石を食べたのか」
陽の高いうちから酒を飲んでいるヴィルジリオが訊《き》き返す。
「まさか、腹の中に石ができる病気だ」
「それで腹を切った?」
ヴィルジリオは立ち上がる。
「おいみんな。クラウスが腹を切ったそうだ。どこをどう切ったか、今夜はクラウスにたっぷり話をきかせてもらおう」
大声で言うと、周囲の連中がまた手を叩く。常連客のほとんどが小話《ピアーダ》の名手ばかりだ。当意即妙に笑い話を次から次に仕掛けてきて、大受けすると、店主のアルティーノが一杯分のカイピリーニャをサーヴィスしてくれる。
クラウスだけはもっぱら聞き役で、ほうびのカイピリーニャなど貰《もら》ったことがない。
苦笑していると、椅子《いす》の上に立たされた。
「さあ、外科医からどう腹を切られたのか、実演の始まり」
ヴィルジリオがクラウスのシャツのボタンをはずしにかかる。客の視線が腹に集まった。
「なーんだ、切られたというのは嘘《うそ》か」
近くにいた男が落胆する。
「切られたのは、この腹の中にある胆のうという袋だ。その中に石がはいっていたので、袋ごと切って、この穴から取り出した」
クラウスはムッとして答える。
「おいみんな、聞いたか。腹に穴を開けて、袋を取り出すのだと」
ヴィルジリオがまた笑う。「こりゃ、まるで金庫破りじゃないか。壁に穴開けて、中の金塊を袋ごとごっそり」
「嘘じゃない。本当の話だ。腹には空気を入れて、膨らまし、この穴から管を入れて中を見るのだ」
クラウスが言うと、周囲の連中は口を開けて笑う。
「腹の中には電灯でもついているのかな」と誰かが言った。
「いや、たぶんランプだよ。アルコールランプ」
ひとりが応じて、どっと笑いがおこる。
「光はこっちの穴から入れて、中を照らす」
クラウスは大真面目で下の方の傷跡を示した。
「で、金庫破りが取り出したという石入りの袋は?」
アルティーノが訊いた。クラウスの話を半ば信用している顔だ。
「主治医から持って帰ってもいいと言われたが、置いてきた」
「それは残念だ。もしそれがあれば、カイピリーニャを毎日一杯、一ヵ月間ただにしてもよかった」
アルティーノが言う。「石のはいった袋のほうは、ここにあるワニの下にでもぶら下げておけた」
カウンターの後ろの壁には、ワニの剥製《はくせい》が飾ってある。体長は人間の背丈ほどもあり、店の名の〈クロコジーロ〉もそこに由来していた。
「何はともあれ、金庫破りの医者に石をつかませたクラウスに、乾杯」
ヴィルジリオがグラスを突き出し、他の客もそれに応じた。
クラウスは椅子から降りるのを許されてテーブルに戻る。手術が成功した喜びが、ようやく実感として湧《わ》いてくる。
「しかし、何も田舎の病院まで行かなくても、市内にいい病院はいくつもあろうに」
ヴィルジリオが真顔で言う。
「事情があってな。まあ、スケッチ旅行も兼ねていた」
「そうか。あんたは行く先々で、商売の仕込みができるんだ。俺たちが景色を眺めたところで、一文の足しにもならんが、あんたは眺めたものを絵に描いて、金がしこたま稼げる。畑がいるわけでもなし、肥料もいらぬ。いい商売だ」
「そんなにボロい商売ではないさ」
クラウスはアルティーノに目配せをして、ヴィルジリオに新たな一杯を持って来させる。
「いや、ありがとう」
またグラスを二人で突き合わせる。
「ところで、あんたは、あの向かい側のビルに時々出入りすると言っていたな」
他の連中の関心が他にそれたのを確かめて、ヴィルジリオに訊いた。
「向かい側というと?」
「細長い汚れたビルで、屋上にアンテナのある──」
クラウスは窓から外を指さす。他の建物の窓には明かりがついているのに、そこだけはどの階も暗いままになっている。
「時々といっても、年に一、二回かな。あのビルは出来の悪い造りで、昔から水回りの設備が良くないんだ。本当は水道管も下水管も全部取り替えたほうがいいのだろうが」
ヴィルジリオは自分の仕事の話に蘊蓄《うんちく》を傾けそうな気配だ。若い頃から小さな水道屋に勤めていて、その筋の腕は相当なものらしかった。本来なら、とっくの昔に独立して店を構えてもよいのに、いまだに雇われ人にとどまっているのは酒好きのせいだ。
「じゃ、部屋の中を見たことはあるな。どんなになっている」
「ま、博物館かな。いろんなガラクタが集めてある。古い旗や勲章やビラ、そうかと思うと拳銃《けんじゆう》や機関銃もある。すべて年代物だよ」
ヴィルジリオは思い起こすように顔を上げた。「上の方の部屋には映写機とスクリーンがある。もちろんビデオ装置もある。いうなれば小さな映画館だな」
「客席もついているのか」
クラウスは首をかしげながら訊く。
「いや椅子が並んでいるだけだ。そんなに広くはないので、せいぜい坐《すわ》れるのは十四、五人だろう。まあ、ポルノ映画でも見るのには丁度よい広さだね」
ヴィルジリオは赤い顔をギラつかせて、カイピリーニャを飲んだ。
「その他に何か変わった物は目につかなかったか」
クラウスは畳み込む。
「ヒトラーの写真があった。鼻髭《はなひげ》を生やして、ひさしのついた帽子をかぶったやつだ。幅一メートル、縦は一メートル半くらいはあったかな」
「ヒトラー?」
「その写真の前で、レオは直立不動の姿勢をとった」
「レオというのは?」
「あのビルの管理人だよ。水漏りがしたりすると俺の親方のところに連絡してくる。あんたと同じドイツ系のブラジル人だ。歳はあんたよりずっと若いがね。三十半ばだろう」
「ひとつ訊くが、さっき古い旗が陳列されていると言ったね。こんなやつはなかったか」
クラウスは紙ナプキンを広げ、どくろの絵と鉤十字《かぎじゆうじ》の模様を描いた。
「見たような気がする」
ヴィルジリオは唸《うな》る。
「勲章には、こんな形のはなかったか」
クラウスは紙の余白に別な模様を描き入れる。
「それは確かにあった。それもひとつではなく四個か五個、並べられていた」
「鉄十字章だ」
クラウスは思わず叫んだ。
「どういう勲章なんだ、それは」
「いや、昔は誰もが欲しがった勲章だ。ドイツではね」
クラウスははやる気持を抑えてカイピリーニャに口をつけた。
外はすっかり暗くなっている。
「その管理人のレオという男には会えないかね」
「男の連絡先なら、仕事先の名簿を調べてみれば判る。会ってどうするつもりだ」
「話したいことが山ほどある。俺を紹介するときに、珍しい物を持っていると言ってくれ。例えば党員証など──」
「党員証? 分かった」
「値段次第では売る用意もあると、ほのめかしてもいい」
クラウスはつけ加える。
「また金もうけの算段か。石のはいった袋を医者につかませたあとは、また誰かにニセの骨董品《こつとうひん》でも売りつけるつもりだ」
ヴィルジリオは笑った。クラウスのお先棒を担ぐのを却って面白がっているふうに見えた。
フォルテ・ビーチ病院ではたいした手掛りは掴《つか》めなかった。バーバラの元の主治医もどこかに出かけていて、会えずに終わっていた。その埋め合わせが間もなくできそうな気がする。