ジルヴィーから部屋にはいるように言われたとき、舞子は急に動悸《どうき》を覚えた。
ソファーに腰をおろすと、ほんのわずかずつ照明がおちていく。初めてのときはそれに気づかなかった。話しているうちに、目の前にいるジルヴィーの顔がぼんやりとしか見えなくなり、やっと仕掛けが分かったのだ。夕陽の沈むのに立ち会うときの感覚とどこか似ている。
「昨夜は大変だったそうね」
ジルヴィーが訊いた。ロベリオの死体を見つけたことはもう伝わっているのだ。
「びっくりしました。恐くて眠れませんでした」
ユゲットが連れてきた警備員が、二人がかりでロベリオの死体をかかえ上げた。だらりと垂れたロベリオの腕がまだ目の底に残っている。
「人の死というのは、落とし穴を見せつけられるようなものだわ。本当はそんな死の穴があちこちに口を開けているのに、普段は気がつかない」
ジルヴィーの大きな目がじっとこちらに向けられる。
「ロベリオには乗馬のレッスンを受けました。いい人でした」
馬の背に乗り、木笛を吹かせてもらったときのことが蘇《よみがえ》る。
「病理解剖の結果が出たの」
ジルヴィーが重々しく言った。部屋の照明はもう夕方なみになっている。赤く染まった壁に、ヤシの木のシルエットが浮かび上がる。
「心臓の伝導異常による心停止。心臓の大きさが子供なみで、先天的な奇形の一種だと報告書には書かれていたわ。波にたわむれているうちに発作が襲ったのよ」
舞子は返事をしない。そんなはずはないと思いながら、平静を装った。
「今は大事な時期」
ジルヴィーがじっと顔を覗《のぞ》き込む。「もうすぐあなたの望みがかなえられる。お腹の中に生命が宿るのよ」
言い終えたあと、ジルヴィーは人差指を目の前に立てた。爪《つめ》に塗ったマニキュアが赤い。
「じゃ、その嫌な場面をしっかり頭に浮かべて。ロベリオの死体が海岸に打ち上げられている場面──」
舞子は指示に従う。これまでも何度かジルヴィーから受けた治療だ。もう要領は分かっている。
ジルヴィーの人差指が目の前で水平に動く。それを眼で追いながら、あの場面を克明に思い出す。
「はい瞼《まぶた》を閉じて深呼吸」
ジルヴィーが言う。視野の端から端まで素早く動く彼女の人差指は、消しゴムのようなものだ。三十秒間それをやられると、記憶の鮮明度が確実に落ちている。
「はい目を開けて。またあの場面を一生懸命思い浮かべるのよ」
舞子は心のなかで頷く。渚《なぎさ》に黒い物体が横たわっている。ロベリオの死体だ。しかし最初の時のように胸に衝撃は受けない。冷静にそれが眺められる。
ジルヴィーの指が一秒間に一往復、水平に動く。神経が二つに裂かれるような気がする。指を必死で追う神経と、頭のなかであの場面を思い浮かべようとする神経──。
「はい瞼を閉じて」
まるで五十メートルのプールを泳ぎ切ったときのような疲労が頭に残る。息は苦しくないが、神経が喘《あえ》いでいる感じだ。
「また思い出して。一生懸命によ」
ジルヴィーが命令する。波打ち際に黒い物が見える。もう驚かない。丸太がころがっているのと同じだ。ジルヴィーの指を見つめる神経と思い出す神経が、反対方向にひっぱられていく。強いのは目の前の動きに集中しようとする神経だ。集中しようとすればするほど、頭に浮かべた記憶のほうは鮮度を失っていく。
眼球を動かしては目を閉じる操作を七度か八度繰り返しているうちに、海辺の光景が薄れていく。思い出そうとしても、暗い渚が広がるだけだ。
「ミズ・キタゾノ」
ジルヴィーの声が遠くから響く。「そのまま瞼を閉じていていいの。じきに眠くなる──」
瞼が重くなり、開けようとしても力がはいらない。全身の力が抜けていく。椅子《いす》の背がゆっくり傾き始める。頭と背中の重みをそこにあずける。身体《からだ》が水平になるのを感じる。何という気持良さだろう。涼しい木陰でハンモックに横たわっているようだ。
物音が消える。横になった身体が流れるように動いていくのが分かる。
流れが停止する。自分の身体がどんな恰好《かつこう》になっているのか判然としない。しかし足はつけそうだ。
確かに身体が大地に対して垂直に立っている。
見渡す限りの果樹園だ。どこか茶畑に似ているが、木の高さは人の背丈を優に越えている。しかも木の列と列の間にあるのは、小石混じりのいかにも荒々しい大地だ。
木の枝には、黒い実がびっしりついている。しかし何の実かは判らない。
舞子は高台まで歩いてみる。ひとりなのに、恐怖感がないのが不思議だ。
腕時計を見る。十一時だ。約束は十一時だったような気がする。一番見晴らしのよい高台が待ち合わせの場所だ。
胸が高鳴る。明生ともうすぐ会える。足が軽くなる。鼻唄《はなうた》でも出そうな気分になる。
高台にある岩が見える。明生は石に寄りかかりながらこちらを眺めている。ジーンズに黄色い半袖《はんそで》シャツ。シャツの色が、ブラジルの国旗の中の黄色に似ている。明生にしては珍しい色の選び方だ。しかし笑顔によく似合う。
「何の木か判ったかい」
明生が訊いた。
「お茶の木かと思った。でも実が少し違うみたい」
舞子の返事に明生は笑う。
「コーヒーの木。初めてだろうね」
明生は黒い実をちぎって口でかんでみせる。舞子も真似をするが、苦いだけで、どこにもコーヒーらしい風味はしない。
「昔は、一本一本、人の手で実を落としていた。木の下にシートみたいなのを敷いて、落とした実と葉をふるいにかけて選別した。みんな奴隷の仕事さ。奴隷がいなくなって、移民が代わりにはいってきた。日本人の移民もみんな、手でコーヒーを採取していた。見渡す限りのコーヒーの木だから、気の遠くなるような単純な作業」
「本当に」
舞子までも溜息《ためいき》が出そうになる。
「仕事が終わるのは六時。鐘の音が合図だったんだ。それでもすぐやめる者は少ない。なにせ、何袋でいくらという賃金だから、ひと袋でも多く収穫しようとする。暗くなってコーヒーの実も見えにくくなる頃、やっと作業をやめて家に向かう。ところが農園はとてつもなく広いので、自分の家に帰りつくまでが一時間以上かかる。疲れた身体に農具をかついでいるから足取りも重い。
家に帰りつくと、女性は夕食の仕度、男は翌日のための水汲《みずく》みや薪割《まきわ》りの仕事が待っている。風呂《ふろ》やシャワーなんかないので、洗面器に水を汲んで、汚れた身体を拭《ふ》きあげる。それからいよいよカンテラの下で夕飯。豆をドロドロに煮たのが主食。あとは寝るだけ」
明生の顔がどこか悲しげだ。
「まるで奴隷のよう」
「移民は奴隷の代わりだから」
明生は弱々しく笑う。「名前が変わっただけで、生活の中味は同じ。眠ったと思ったら、四時半にまた鐘。ごそごそ起きて顔を洗い、朝食をとり、農器具の準備をする。六時にまた鐘。薄暗いなかを、前の日やり終えたコーヒーの木のある場所まで歩いて、仕事開始。木の下に布を敷き、低いところのコーヒー豆をしごき終わったら、今度は三本足の梯子《はしご》に登って、上の方の実を採る。一本の木を終えるのに最低三十分はかかる。そのあと、ふるいで実と葉を選り分けて、袋に詰める」
それらの仕事がいかに大変なのかは、この見渡す限りのコーヒーの木の列を眺めただけでも理解できる。一本の木のみの仕事ならそう面倒ではない。しかし、地平線まで続くコーヒーの木の並木を、一本一本仕上げていくのは──。
「そうやって日本人移民はブラジルでの生活を始めた。まだそれから九十年しかたっていない。その頃と比べると、コーヒー園の仕事ぶりも変わった」
舞子は明生が陽焼けしているのに気がつく。もともと色の白いほうだった肌が、コーヒー色に近くなっている。その分、逞《たくま》しさが増していた。
明生のあとについて歩き出す。両側のコーヒーの木が、巨大な垣根のようにそびえている。均一に刈り込まれているところは、茶畑そっくりだが、規模が違う。地平線までうねりながら高い壁が続く。
刈り取られたあとなのか、付近の木に実はついていない。木と木の間の畦《あぜ》は葉っぱで敷きつめられている。視界がきくのは前と後ろだけなので、不思議な気持になる。いつの間にか明生の腕にすがりついていた。
「気をつけて登りなさいよ」
スチールの梯子のようなものがコーヒーの木にさしかけてあった。明生がすぐあとから登ってくるので恐くはない。
まるでコーヒーの木の上に作った櫓《やぐら》だ。コーヒー園全体を視野に入れることができる。反対側の丘の上に館が見えた。屋根瓦《やねがわら》は橙色《だいだいいろ》で、白い漆喰《しつくい》の壁が美しい。
「いい眺めだろう」
明生が隣に坐《すわ》り、レバーを引く。座席が動き出す。椅子の下でバサバサと音がし、曲がって下を向いている煙突の先から勢いよく葉っぱが飛び出し、地面に落ちる。十メートルほど進むと、反対側に大きな袋が投げ出された。
「これなら一時間で端から端までのコーヒーの木をひとりで収穫できる。機械採りだから、何パーセントかはとり残しが出るけどね」
「気持がいい」
舞子は馬の背に乗ったときの気分を思い出す。視点がぐんと高くなり、車と違って、生き物らしい速度で動いていく。
「こんな所でずっと働くのもいいと思っているんだ。住む家もちゃんとある」
明生は顎《あご》をしゃくる。橙色の屋根をもつ家は二階建だ。白壁に黒枠の窓がはめこまれている。
「日本にいた頃を思い出す。宅地造成のたびに、何か出てきたと報告が来る。人間が住む所など大昔からたいして変わっていないので、掘れば必ず昔の物が出てくる。急いで現地調査をして報告書を作る。工事は急いでいるので、こちらも徹夜の仕事になる。重要な遺跡だと分かっても、工事さし止めは大問題になる。いきおい、物をかき集めて、手抜きの評価で終了。何もしないよりはましなのだと、いつも自分に言いきかせてきた──」
明生はしゃべりながら左右に眼を配る。時々レバーも動かす。なかなか堂に入った手つきだ。
「しないよりはましという考え方ばかりで人生を生きていると、気持が萎《しぼ》んでくる。こうするのだという方向で生きたほうが、気持が膨らむ」
レバー操作をする明生には、どこか仕事を楽しんでいる様子が見てとれる。
「本当にブラジルの大地ね。四方全部が地平線まで見渡せる」
「ほらあそこに家があるだろう」
明生が指さす。白壁の手前に紫色の木が見えていたが、イペーがちょうど花盛りなのに違いない。
「あの家の後ろに面白い物を見つけたんだ。長細い石が放射状に並べてある。ちょっと見た目には何なのか分からない。農場の主人に訊《き》いたんだけど、石があることは以前から知っていたが深く考えたこともなかったらしい。調べる価値はある。ストーンヘンジの変形とすれば、南米の原住民にもそういう信仰みたいなものが存在したことになる。面白い。あそこ以外からも見つかる可能性だってある。日本では刷毛《はけ》で土を払うような細かい仕事だったけど、ここはさすがにブラジル。規模が違う。地面に這《は》いつくばるより、できるだけ高い位置に目を置いたほうがいい。いわば蟻の目ではなく、鳥の目」
機械の上に坐っていると、明生の言うことが何となく理解できる。
「見てみたい」
「あの端まで行ったら、連れて行ってやる。石に囲まれたサークルの中央に二人で立ったらいい気持だろうな。たぶん何か儀式をやっていたのだと思うよ。四角い平たい石があって、横棒が三本刻んである」
「文字は彫られていないの?」
「そこまでは調べていないけどね。あるかもしれない。まだ解読もされていない文字」
明生は弾んだ声になる。
「普段はコーヒー園で働いて、休みの日は遺跡の調査。明生の大好きな生活パターンね。ないのはプールくらいなものだわ」
「あるんだ、それが」
明生は膝《ひざ》を打つ。「母屋の中庭に二十五メートル、五コースの大きなのがつくられている。防火用水代わりらしいけど、水はきれいだよ。いつだって使っていいと言われた」
コーヒーの木の列が傾く。上り坂なのだろう。後ろを振り返ってみて舞子は声を上げそうになる。大地はゆるやかにいったん凹《へこ》み、さらにもっと優しいなだらかさで、地平線の果てまで広がっている。しかも見渡す限りの大地全部がコーヒーの木で覆われているのだ。明生と二人で乗っている採取機は、大地の中のほんの一点に過ぎない。明生と自分は点の上の点だ。
何という平穏さなのだろう。大地全体に穏やかさが漂っているだけでなく、自分の気持のなかまで静謐《せいひつ》な気分にさせられる。点である人間が果てしない大地に呑《の》み込まれるのではなく、大地になくてはならない点として存在している。それも決して大地の営みを邪魔しない謙虚さで。
「着いたよ。ストーンヘンジのある場所まで歩いてみようか」
明生が先に降り、舞子を下から支えてくれる。登るときには気づかなかったが、車輪だけでも直径が人の背丈より大きい。
コーヒーの木の間にはいると風がなくなる。生い茂った葉の匂《にお》いがする。
「森の中にいるのと同じだろう。でもね、いつもこの地面に這いつくばっての仕事だと、気が滅入《めい》ってくる。あの採取機に乗って、農園全体を見渡せるから、心が晴れるんだ。あの採取機の上から朝日が出るのを眺めたこともある。もちろん夕陽もね。本当にきれいだよ。黒々としたコーヒーの木が、日の出とともに黄金色に染まって、少しずつ緑色になっていく。夕陽は逆でね。緑が消えていき、橙から赤くなり、そのあとが黒。今日も一日が終わったという思いにかられる。こんな朝日と夕陽を眺めていると、一日が本当に恵みの時間だと思う。ありがたいと感謝したくなる。年寄りくさいと笑われるかもしれないけど、これだけは経験した者でないと分からない」
「本当にそう。毎日毎日、陽が昇って沈むのを、わたしたちは忘れている。いつまでも毎日がひと続きになって未来に延びていると思っているけど、そうじゃないのよね」
舞子は頷《うなず》き、言葉を継ぐ。「明日あるかないかはサイコロを振っているようなもの。そのたびにハラハラしていなければならないのに、鈍感になっている」
「いちいちそんなことを考えると、わずらわしいからね」
明生は足をとめ、周囲を見回す。
「ここなの?」
五、六メートル先に白い石が見えていた。
「古代人のほうが、毎日の大切さ、一日一日が巡ってくることの不思議さを知っていたんだ。この石の集まりも、そんな不思議さに対する感謝だと思う。まだ誰もそんなことを言った考古学者はいないけどね」
雑草を踏みしめて歩く。石は大人の身体《からだ》ほどの大きさで、外側に向いた方が少し細くなっている。
「ほらここに刻み込みがある」
石の中央に、斜めの線が三本、平行に刻まれていた。雨風にも風化しなかったのは、よほど石質が硬かったからだろう。
「おまじないか、それとも何かの計算のあとかしら」
舞子は首をかしげる。
「たいていのストーンヘンジは近代化された場所にあって、いろんな学者がそこを訪れて、遺跡の意味を考える。図面や写真にとって、書斎にもって帰って考え続ける。しかしそれでは古代人の心は読めない。現場でずっと生活していてこそ理解できる。このコーヒー園ができる前、ここは深い森だったはず。その森の中に、ぽつんとこの聖域がつくられていた──」
明生は雑草を踏み分け、石をひとつずつ点検していく。どの石も似通った形をしているが、中央にある刻印が異なっていた。縦に同じ長さの二本の線が刻まれているのもあれば、十字の印、あるいは×印のもある。
「石は全部で三十六個。ちょうど十度ずつの角度で置かれている。円の直径は百二十メートルくらいある」
明生はその中心に向かった。
三十六個の石に囲まれているのだと思うと、奇妙な気分になる。しかもそこは確かに古代人が何人も立った場所なのだ。
中心には、畳一枚ほどの四角な石が置かれていた。
「この石の向きも、意味があるのかしら」
「磁石で測ったけど、きっちり南北に向いていた。つまり、この二つの線は南北に走っているというわけ」
石の長軸に沿って、太い二本の線が刻まれている。
「供え物をしたのかしら」
「分からない。しかし供え物の台なら、もう少し高くてもよさそうだと思う。周囲から見えなくてはいけないからね。おそらくここは、婚礼の場所だ。満天の星を眺めながら、婚礼をすませた二人がここに横たわる」
明生は石の線に沿って身体を横たえる。舞子も、その横の線の上に仰向けになった。石はほのかに温《ぬく》みをもっていた。真青な空に、ところどころ薄い雲がたなびいている。日射しはさして強くなく、草の間を通り抜けてくる風が快い。
「星月夜だったら、また雰囲気が違うだろうね」
仰臥《ぎようが》位のままで明生が言う。
「目を閉じればいいわ。星だって見えてくる」
「そうだね」
古代人が何のためにこんな石の舞台を作ったのか、分かるような気がする。周囲にある三十六個の石は、災いを円の中にはいらせないためのまじないではないのか。石が人の形に似ているのは、番人に見立てているのかもしれない。
それとも、三十六個は一年間の日々を表わしているのだろうか。明生は角度の十度ごとに石が置かれていると言ったが、どこか間隔の広い所があるのかもしれない。もしそうなら、石と石の間は十日間を意味しているのだ。その十日間が無事であるように、石が二人を守り続けているのだとも考えられる。
それにしても、これは何という安堵《あんど》感だろうか。
「舞子はここで暮らしてもいいかい」
明生が訊いた。
「いいわ」
舞子は即座に答える。
「仕事は農園。来る日も来る日も同じ仕事。それでもいいかい」
何かを測るように明生がまた訊く。
「仕事って、表面は同じだけど、中味は少しずつ違いがある。コーヒー豆の出来具合が毎年違うように」
「そうだね。コーヒーの他に野菜も作らなくちゃいけない」
「それもやってみる。明生と一緒なら何でもやれるわ」
「子供はたくさん欲しいね」
「そう何人でも」
舞子は涙がにじんでくるのを感じる。自分が赤ん坊に授乳している姿が浮かぶ。周囲も子供たちの声で騒がしい。三歳の子もいれば五歳の子もいる。みんな元気にはねまわっている。
遊び場はこのストーンヘンジだ。真中の石の上に子供たちを立たせて、ここがお母さんとお父さんの出発点だったんだと言ってきかせる。もちろん分かるはずはないのだが──。
ちょうど九十年前に初めてブラジルに移住してきた日本人と同じく、明生と自分が子供たちの出発点になるのだ。
目を閉じたままで明生の手をまさぐり、しっかり握りしめる。
透明な迷路の中央にある寝台にどこか似ているが、今は明生と二人で横たわっている。
「どんなことでもするわ。明生と子供たちが喜ぶことなら」
身体だけは誰にも負けないくらい丈夫だ。朝は誰よりも早く起きて、夜は子供が寝ついてから床につくくらいの生活は苦にならない。コーヒー園での仕事や菜園づくりも、そのうち慣れるはずだ。会社での使い走りや事務の仕事より、いつも明生や子供と一緒にいられる分、底力が湧《わ》いてきそうだ。
そう、これから自分の生きる場所はブラジルの大地なのだ。明生がそう決心した以上、自分も喜んでついて行こう。
「目を閉じていると満天の星。この石には不思議な力がこもっている。周囲にある三十六個の石は、天体の力を受けとめ、パラボラアンテナのように、真中に集めるためのものかもしれない」
明生が言い、ぐっと手を握りしめる。
顔を微風が撫《な》でていく。樹木の匂いを含んだ風だ。
「しばらく眠るよ」
明生が言う。舞子も目を閉じる。
明生と二人で横たわっている石がゆっくりもち上がっていく。星に吸い寄せられていくようだ。しかも周りにある三十六個の石は、円陣の形を乱さずにそのままついてくる。
「舞子の中にはいるよ」
明生の身体が浮き上がって、すぐ目の前に明生の顔がある。瞼《まぶた》を通してそれが見える。明生の身体と自分の身体が重なり、ひとつになってしまう。
奇妙な感触だ。明生はもう自分の外側にいるのではなく、身体の中に溶け込んでしまっている。
もうどんなことがあっても、この身体から明生が遊離することはないような気がする。二人が共に住んでいるのが、この自分の身体なのだ。
満ち足りた気持で眠りに落ちていく。
星空のなかで目が覚めていた。身体を横たえていた石がぐんぐん下降していく。周囲にあった三十六個の石が、それに遅れまいとして猛スピードで追ってくる。
石が視野から見えなくなったとき、動きが止まった。雑草の代わりに、透明な壁が周りを取り囲んでいた。平たい石もいつの間にかガラスの寝台に変わっている。頬《ほお》を掠《かす》める風の動きもない。
舞子はゆっくりと身体を起こす。二本の足で立って出口の方に向かった。曲面の壁が両側にあるのに、野原を歩いている感じがする。明生の姿は見えないが、この身体の中にぴったりと彼がおさまっているような気がしてならない。これまでは彼の姿が見えなくなると不安にかられた。どこかにいるのだと分かっていても、時々寂しさが胸の内に宿った。
今は違う。明生はずっと自分の中にいる。
迷路を出て扉を開ける。まだ明け方に薄暗さが残っていた、奥の方だけが明るい。読経の声がしていた。
不動明王の前で辺留無戸《ヘルムート》が護摩焚《ごまだ》きをしている。炎が時折、坐《すわ》っている彼の頭の上まで立ちのぼる。火が僧衣に燃え移りかねないほどの近さだ。
初めてこの護摩焚きに出会った日のことが思い出された。雪の日の境内は静まりかえり、凍った気持を抱きかかえるようにして御堂の中に足を踏み入れたのだ。力強い読経の声に心ひかれたのかもしれない。
堂内で目にした不動明王の顔に、思わず涙が溢《あふ》れ出た。あの怒りのたけをこめた表情こそ、自分の気持にぴったりだったのだ。
燃え上がる炎も怒りをたきつけるのに充分だった。唇をかみしめながら、心の内で悲しみを咀嚼《そしやく》した。
読経の僧のいることも忘れ、十分も二十分もその場に立ち尽くしていた気がする。涙が出てしまうと、不動明王の表情が変わった。すさまじい怒りのなかに憐憫《れんびん》の情が読みとれたのだ。あれだけ燃えさかっていた炎も、色を赤から黄色に変え、優しく揺れ出していた。
あのとき自分の心のなかで、何かが燃え切ったのかもしれない。涙で汚れた顔のまま呆然《ぼうぜん》としているとき、読経の僧が振り向いた。外国|訛《なま》りのある言葉も、西洋人が墨染めの衣に身を包んでいるという異様さも、そのときはすんなりと受け入れられた。不動明王のあの形相にはぴったりだった。
「マイコさん、やっと終わりましたね」
辺留無戸が振り向いた。炎で顔が不動明王のように赤い。笑いかける目が鋭く光っていた。
「これで私の役目も終わった。帰国したら、また会いましょう」
舞子に背を向けて経文も唱え始める。その姿と声が少しずつ遠ざかっていく。その周囲が暗くなり、明るさは一点だけに収束し、やがて全体が闇《やみ》と化した。
「ミズ・キタゾノ、こちら」
戸が開かれ、ジルヴィーが声をかけた。彼女にこんな優しげな声が出せるとは思ってもみなかった。
見慣れたはずの廊下が、今は妙にピンクがかって見える。大理石像の肌も桃色に染まって、はっとする美しさだ。
赤ん坊を膝《ひざ》の上に抱き乳房を与える母親の像の前で、舞子は立ち止まる。赤ん坊のふくよかな顔。母親の満ち足りた表情──。
コーヒー園が思い浮かんだ。風がそよぎ、石の上に腰をおろして赤ん坊に授乳する自分の姿が目に見えるようだ。
「行きましょう。これがあなたの将来の姿」
ジルヴィーから促されて、舞子はまた彼女の部屋にはいる。「下であなたの主治医が待っているわ」
「ドクター・ツムラ?」
「そう。今日が待ちに待った|〈受精〉(コンセプシヨン)の日なの」
奥の部屋まで行き、ジルヴィーが壁のボタンを押すと、壁が横に開いた。この部屋にはいるのも、こんなこぢんまりしたエレベーターに乗るのも初めてだ。ベッドがそのままはいってもいいような縦長のエレベーターだった。
一階に着いて、細長い通路を十メートルほど歩く。誰にも会わない。
ドアの前でジルヴィーがノックする。中から返事があってドアがあく。緑色の手術衣を着て、キャップとマスクをつけたツムラ医師が立っていた。
「じゃ、お願い」
ジルヴィーの声に頷《うなず》き、ツムラ医師は彼女を追い出すようにしてドアを閉めた。
「舞子さん、ここに坐って。簡単に問診をしたあとで、麻酔にはいります」
ツムラ医師の声が不自然に大きくなる。舞子は黙って指示に従った。
ツムラ医師は机の上に白い紙を置き、鉛筆を走らせた。
〈これからは、ぼくのいうことよりも、ここにかくことをまもってください〉
舞子はじっとツムラ医師の顔を見つめる。
「じゃ、この病衣に着替えて」
〈きがえのひつようはありません。そのままじっとしていて〉
「着替えたら横になるのです」
「はい」
舞子は紙の上を眺める。
〈いいですか、きょう、にげなければなりません〉
「はい」
舞子は慌てて返事をする。もっと質問をしたいのだが、ツムラ医師の真剣な眼がそれを許さない。
「それでは全身麻酔にはいります」
ゆっくり英語を口にしながら、ツムラ医師の手は紙の上に何かを書きつけた。
〈にげなければ、あなたたちさんにんとも、どこかにうつされます〉
三人という言葉が舞子の頭のなかで反芻《はんすう》される。寛順《カンスン》とユゲットをさしているのは間違いない。しかし何のために逃げなければいけないのか。やはりバーバラ・ハースの死を目撃したことと、ロベリオの死体を見つけたのが災いしているのだろうか。
〈よそにうつされれば、もうぼくとれんらくがとれなくなります。そのまえに、にげだすのです〉
舞子は紙の上の文字に見入る。逃げるのは分かった。しかしどうやって逃げろと言うのか。
「静脈に注射針を射します。眠っている時間は長くても二十分です。その間にすべての処置が済みます。痛みは全くありません」
ツムラ医師は注射器を手にし、アンプルの中の液体を吸い上げた。それをトレイの上に置き、また机につく。素早く、紙に平仮名を書き連ねる。
〈こんや、ゆうしょくをおえたら、さんにんでさんぽにでてください。そして、九じちょうどに、びょういんのちゅうしゃじょうにいくのです〉
九時に駐車場というのは分かった。ただ駐車場といっても百台は収容できるくらいに広い場所ではないか。
舞子の疑問を覚ったようにツムラ医師は口を開く。
「眠くなりますよ。数字を数えて下さい。日本語でいいです」
これまで麻酔などかけられたことはなかったが、テレビで見知ってはいた。たいてい十まで数え終わらないうちに眠ってしまうもののようだ。ひとつ、ふたつ、みっつ──。舞子は数え出す。十から先を間遠にし、十四で言い止んだ。ツムラ医師が黙って紙片を見せる。
〈ちゅうしゃじょうのひがしがわに、めるせですをとめておきます。いろは、ぎんいろです。なかに、わたしのともだちがいます。さかがみといいます〉
サカガミ、舞子は頭のなかで復唱する、やはりツムラ医師と同じ日系二世か三世だろうか。
しかし逃げ出す際、寛順やユゲットをどうやって説得したらいいのか。もし納得しない場合は、自分ひとりででも逃げるべきなのか。
舞子は黙ったままツムラ医師を見つめる。何故か涙が目にたまってきた。やがて目の前が見えなくなり、涙が頬をつたう。
舞子の涙に狼狽《ろうばい》したのはツムラ医師だ。机の上にあったティッシュに手を伸ばして、舞子に渡した。
〈ほんとうにたいへんです。でもこれがいちばんよいほうほうなのです〉
もう少し理由を訊《き》きたいのだが、できそうもない。さっきの涙には口惜し涙も混じっているような気がする。その他の部分は多分、自分の身の上に関する情けなさだ。せっかく明生の子供を胎内に宿すつもりで地球の反対側まで来たのに、それもかなわずどこかに逃げ出さねばならないのだ。
〈ほかになにかしつもんは?〉
ツムラ医師は唇に人差指を当て、紙と鉛筆を差し出した。
〈こんやでないといけないのですか〉
そうだと言うようにツムラ医師は頷く。
〈もしほかのふたりがこないときは?〉
ツムラ医師は首を左右に振る。絶対に来なければならないという意志表示だ。
〈もうここにはもどってこないのですね〉
読んでしまうなりツムラ医師は頷く。
〈にもつはのこしたまま?〉
またツムラ医師が頷く。
もう質問することもなかった。ツムラ医師に従うだけだ。
ツムラ医師は銀色に光る器具をとり出して、柄を動かす。産婦人科で使う器具に違いない。鋏《はさみ》と中空の筒が一緒になった奇妙な形をしていた。
「はい終わりました」
改まった口調でツムラ医師が言う。「もう目を覚ましてもいいですよ」
ツムラ医師は目配せをして、舞子に演技をするように促した。
「舞子さん、分かりますか」
「はい」
小さな声で舞子は答える。
「気分悪くはありませんか」
「ありません」
「それではもう五分もすれば、自分の力でこの部屋を出ていけます。今夜はシャワーもフロもだめですよ」
「はい」
舞子が答えると、ツムラ医師は上出来というように微笑した。