隣の部屋の寛順はまだ戻っていないようだ。
舞子はベランダの椅子《いす》に坐《すわ》ったまま、欄干にかかるヤシの葉を眺めていた。考えがまとまらない。一時間がそうやって過ぎていた。
ツムラ医師はいつものように舞子を診察室から送り出した。受付にいた看護婦と言葉を交わしたあと、病院のロビーを通り抜けた。
ツムラ医師とのやりとりが思い出され、あれは現実だったのか、それとも夢だったのか、首をかしげた。いや夢でないのは確かだ。その証拠に、手の中に小さな紙片が残されていた。〈九じに、ちゅうしゃじょう。めるせです。さかがみ〉と書かれている。英語ではなくわざわざ平仮名でツムラ医師が記したのは、万が一のとき誰にも読まれたくないからだろう。
試しに駐車場の方に行きかけ、玄関先まで来て思い留まった。雑然とした頭で、大理石像を眺めた。真白い肌に緑の衣裳《いしよう》をまとっている。緑の大理石には微妙な濃淡の模様があって、それがそのまま衣服の柄になっていた。見事なまでに美しい婦人像だ。
眺めているうちに、その婦人の顔に死んだバーバラの顔が二重映しになってきた。バーバラも彫りの深い顔立ちで、死に顔さえも美しかった。生きていて、瞼《まぶた》が開き、瞳《ひとみ》に光が宿り、赤い唇の間から白い歯がこぼれていれば、美しさはその何倍にもなっただろう。
彼女は緑色ではなく、白いローブを身につけており、それが血で真赤に染められていたのだ。
舞子は大理石像から眼をそむけ、レストランの方に足を向けた。渡り廊下に並ぶ彫像のうち、一番好きだったのはヴェールをかぶせられた女奴隷の像だ。助けを求めるように、舞子は彼女の方に視線を送る。見るたびに受けていた感動が裏切られはしないかと、気持の隅に恐れがあった。
しかし杞憂《きゆう》だった。可憐《かれん》な姿勢も、ヴェールの下の表情からにじみ出る若々しさも以前のままだった。
──あなたは逃げるのよ。わたしのようにならないために。
ヴェールに覆われた唇が動いて、そう言っているような気がした。〈分かった〉舞子は口の中で呟《つぶや》く。もう一度彼女を見てその場を離れた。
部屋に戻って寛順の帰りを待ち続けた。しかしたとえ寛順と会ったとしても、どうやってツムラ医師の言葉を伝えるべきなのか。電話のやりとりも、室内の会話も盗聴されている可能性があった。
もうだいぶ陽が傾いている。東の空が普通以上に暗いのは、あるいはスコールがやってくる前触れなのかもしれない。
舞子は何を持ち出すべきかを考える。まさか旅行ケースを手にするわけにはいかない。必要不可欠なのはパスポートだけだ。それがなければ、少なくとも国外への移動はできない。
それを寛順とユゲットにどうやって伝達すべきか。
舞子は籐椅子《とういす》に身を沈めたまま考え続ける。
ベランダの隅に置いたベゴニアが赤い花をつけている。その横にある食虫植物も元気だ。しばらく水をやるのさえ忘れていたのだが、スコールのたびに、雨脚がプランターの中の土を適当に湿らせているようだった。
壺《つぼ》状の仕掛けをもつ葉は以前よりも肉厚になり、緑色が濃くなっている。ベランダのほうが小さい虫を捕獲する機会があるのかもしれない。
突然バリバリという音がし始める。大きな水滴が蘇鉄《そてつ》の葉の上に降りかかる。ベランダにも雨しぶきがはいり込んできて、舞子は慌てて部屋に戻った。
白い受話器、真鍮《しんちゆう》に貝細工の電気スタンド、壁にかかった大胆な構図の絵に視線を走らせる。盗聴器がどこに仕込まれているか見当はつかない。しかし、こちらが沈黙していれば恐いものはない。
舞子は金庫に入れていたパスポートを取り出す。中には、日本円やクレジットカードを入れた財布がひとつ残っているだけだ。手に取ってみる。この病院では、鍵《かぎ》の番号を示すだけですべてが済み、現金もクレジットカードも要らなかった。サルヴァドールへ外出する際はトラベラーズチェックを現金に換えればよかった。
財布の中から一枚の写真を取り出す。日本にいるときから入れていたものだ。海の見える公園の坂道で、明生と舞子が寄り添って写っている。インスタントカメラにしては良く撮れている。通りがかりの男子高校生に明生がシャッター押しを頼んだのだ。髪の毛を茶色に染めた男の子だったが、嫌な顔もせずに鞄《かばん》を放り出し、何も言われないのに三枚も撮ってくれた。背景も考慮し、日光の当たり具合はもちろん、もっと寄り添ってくれと本職のカメラマン並に乗り気になったところからすると、学校で写真のサークルに所属していたのかもしれない。出来上がった写真はなかなかの構図で、二人の表情も明るく、いい雰囲気に仕上がっていた。一番良いのを焼き増しして、お互いの財布の中に収めていたのだ。
最初の頃はよく取り出して眺めていたが、ブラジルに来てからは一度も手にしたことがない。いや、眉山寺《びざんじ》で辺留無戸和尚と会った頃から、写真は取り出す回数が減っていた。
あれからもう一年が過ぎている。今の自分の顔と比べて、写真のなかの自分は、どこかまだ幼い。この一年が、顔を大人びたものに変えていた。
明生のほうは変わらない。写真の中の彼と瓜《うり》二つだ。自分だけが年を重ねているのが不公平に思えてくる。
舞子はパスポートと財布だけをポシェットに入れた。
できることならカメラも持って行きたかった。三十六枚撮りのフィルムはまだ使い切っておらず、あと十枚ほど残っている。舞子は思い切ってフィルムを終了させ、中味を取り出してポシェットに入れる。
旅行ケースや化粧道具、衣服などはそのまま置いていくしかない。
──今夜逃げなければ、どこかに連れ去られて監禁される。
診察室でのツムラ医師の顔が思い浮かぶ。電話、あるいはお互いが訪問し合うのはもう不可能だと、彼の真剣な表情は訴えていた。
多分それは根拠のない推量ではあるまい。寛順と自分が殺人の現場に駆けつけたのは紛れのない事実だ。そしてその場に居あわせて、自分たちに他言を禁じたロベリオも死んだ。ジルヴィーが言ったような突然死ではなく、殺されたのだろう。ツムラ医師は別の秘密をも、つきとめているのかもしれない。そして最終的に、危険がもう間近に迫っていることを察知したのだ。
ガラス戸に雨しぶきがぶち当たる。雨音はさして大きく響いてはこないが、ヤシの葉は相変わらず狂おしく揺れている。
寛順の部屋で物音がする。帰って来たようだ。一瞬迷ったあと、舞子は電話をとった。
「ボーア・ノイチ。舞子です」
できるだけ明るい口調で呼びかける。盗聴されていると思うと、声がどこか芝居がかってくる。しかし盗聴の相手には気づかれないはずだ。
「今晩は。スコールね」
寛順の声はどこか元気がない。
「夕食は何時頃に行く?」
寛順の部屋まで行って筆談でもしてみようかと思ったが、沈黙のなかでそれをすれば怪しまれるに違いない。別の会話をしながら筆談を行うのは至難の技だ。
「今日は少し疲れちゃった。あと少し休んでからにする。七時半頃どうかしら」
「いいわ。じゃあとで」
部屋の出がけにパスポートを持ってくるように言うべきかとも感じたが、思いとどまった。寛順も不思議がるだろうし、盗聴の主も当然怪しむはずだ。舞子は受話器を置く。
盗聴している人間がいるとすれば、日本語も少しは理解できるのだろうか。まさか日本人ではないだろう。仮に日本語があまりできないとすれば、寛順との日本語でのやりとりは、即時どこかに転送して翻訳して返すという手段がとられているはずだ。
シャワー室に行く。もうこの部屋に戻って来ないと思うと、一番気に入った服を着ておきたかった。
裸になってシャワーを浴びる。背中にまでは手が届かず、洗い残しがあるような気がして、タオルに石けんをつけ、その間にも考え続けた。ゴシゴシこすった。
バスタオルとフェイスタオルは、部屋係の黒人女性が毎日新しいものと取り替えてくれた。石けんだってそうだ。小さくなる前に、必ずもう一個つぎ足されていた。
鏡の前に裸で立つ。毎日おいしいものを食べられるので太るのを恐れていたが、ウェストの大きさも変わらない。太腿《ふともも》にも肉がついている様子はない。乳房のふくらみだけが、以前よりは心もち大きくなったような気がする。ピンと上向き加減の乳首は、自分でも気に入っていた。容姿には大して自信はないが、バストの形だけは好きだった。
洗いたての下着をつけ、白いパンツをはく。逃げるのであれば、黒のパンツのほうがいいような気がしたが、むしろ普通にしておくべきだと思い直す。何も知らない寛順やユゲットと同じにしておけばいいのだ。パンツの上には黄色いブラウスを着、白いシューズをはいた。
鏡に向かって薄化粧をする。化粧だけはいつも簡単だった。化粧水と乳液のみで、べース・クリームもファンデーションも使わない。もちろんアイラインもブラッシュも不要で、ルージュを引けば終わりだ。
ポシェットの中には、コンパクトとルージュだけを入れた。化粧道具や衣類を残して部屋を去るのは、大事な忘れ物をしたようで胸が痛む。
ガラス戸の外はかなり暗くなっている。雨脚は弱まり、あと十分もすればすっかりあがってしまうはずだ。鎧戸《よろいど》は閉めないでいたほうがいいだろう。
用意はできた。もう一度室内を見渡したとき、ドアにノックがあり、寛順の声がした。ポシェットを肩にかけて部屋を出た。
「疲れはとれた?」
「少しは」
目を覚ましてすぐなのか、寛順の瞼は腫《は》れぼったかった。
「食事のあとチェックがあって、そのときパスポートがいるらしいわ」
咄嗟《とつさ》の思いつきで言った。
「パスポート? そうなの」
寛順は驚いた顔をしたが、自室に戻った。開いたドアから、散らかったままの室内が見えた。
「お待ちどお」
寛順の持ち物も小さなバッグひとつだ。柄の部分が竹、本体は厚手の布でできていて、リゾート気分にはよく似合う。赤いキュロットに黄緑色のTシャツという組み合わせも、普通なら派手すぎるが、顔立ちのはっきりした寛順には却って魅力的に映る。
「ユゲットのところにも寄ってみようかしら」
階段を降りながら舞子は言った。
雨は止んでいた。排水溝を流れる水の音だけがする。
ユゲットはドアを開けて、二人を招き入れた。中にはいるのは初めてだ。毎日のように顔を合わせていても、互いの部屋までおしかけていくことはしなかった。部屋が離れていたせいもあるが、自分の部屋は神聖な領域だとそれぞれ思い定めていたのかもしれない。
机の上に書きかけのノートがあった。
「こっちに来てから、日記のようなものをつける癖がついたの」
舞子の視線を感じてユゲットが言った。「将来読み返すとき、いい思い出になると思うし」
ユゲットはノートを閉じる。
当然フランス語で書かれているだろうが、逃げたあと、詳細に点検されるに違いない。いやそうではない、と舞子は身震いした。ユゲットの日記が毎日誰かに読まれていた可能性だってあるのだ。三人の会話やサルヴァドールでの体験をユゲットが書いていれば、相手に筒抜けではないか。
「今夜はパスポートがいるんだって」
寛順が気を利かせて言った。「食事後チェックがあるらしい」
ユゲットはさして不審な顔も見せず、金庫からそれを取り出し、腰のポシェットに入れた。部屋の中をもう一度見渡し、スイッチを消して外に出る。
「今日の午後、海亀の浜まで出かけてみたの」
ユゲットが言った。
「海亀はいた?」
寛順が訊《き》く。
「昼間は来ないの。ダミアンが砂浜を見張っていたわ。わたしのポルトガル語、少しは通じた。観光客のなかには、卵を盗んでいく者もいるって」
「盗んでどうするの」
「知らない。親亀が産卵しているところを見ていれば、盗む気持になんかならないと思うわ。しばらくダミアンと海岸に腰をおろして波を眺めていた。あんなにゆったりとした気分になれたのも初めて。ダミアンはマイコとカンスンのことを心配していた。ショックで寝込んでいないかって」
「死体を見たことで?」
寛順が問いただす。「ショックだったのはダミアンのほうではないの? そりゃ、わたしたちだって動揺したけど」
舞子も寛順も相槌《あいづち》を求められて頷《うなず》く。
「ダミアンは平気だったって。これまでおじいちゃんやおばあちゃんが亡くなったのや、舟が沈んで村人が死んだのをたくさん見てきたと言っていた。たぶん、わたしたちと違って、死が身の回りに溢《あふ》れているのだわ、きっと」
ユゲットが言う。「だからダミアン、まだ少年だと思っていると、変に大人びて感じるときもある。あんな子供、フランスにはいない」
「日本でもお目にかかれない」
舞子はダミアンと初めて会ったスコールの日を思い起こす。ダミアンは、この辺で見かけない東洋人が珍しくて話しかけて来たのだろう。ブラジルに来て、病院以外のところで知り合った唯一の人間がダミアンだった。
その彼にも別れを告げられずに、ここを去らねばならない。
「夕食後、ドクター・ツムラが面白い場所に連れて行ってくれるって」
舞子は思いきって告げた。
「わたしたちも行っていいの?」
素早く反応したのは寛順だ。
「もちろん、三人一緒に来なさいって言われたから」
「ふーん。近くでお祭りかなんかあるのかしら」
ユゲットも乗り気になっている。
レストランの入口には、いつものようにジョアナがいて、両手を胸の前で合わせながら「コンバンワ」と頭を下げた。
席は大方すいている。舞台を眺めやすいテーブルに席をとった。
食欲がなかった。昼にはサンドイッチを食べたきりなのに、胃にまだ何か詰まっているような気がする。テーブルには所狭しと肉や野菜、何種類ものパン、ジュース類が並んでいたが、唯一食べられそうなのが米の料理だった。白米ではなく油|炒《いた》めのごはんだ。
日頃は避けていたものを、その夜にかぎって皿につぎ分ける。いつかツムラ医師から教えてもらったのだが、研いだ米を豚の脂とともに炒めたあと、塩味をつけ、さらにお湯を入れて炊いたものだという。ここに来た当初一度だけ口にして、白いごはんとも焼飯とも違うので、それっきりにしていたのだ。
米料理の横には、揚げたバナナを一枚のせた。
ユゲットは相変わらず肉好きで、三、四種類のシュラスコの肉片を食べている。寛順は野菜中心だ。ネギやパセリ、キャベツ、アスパラガス、トマトを刻んだサラダが山盛りになっている。
「クラウス・ハースから電話があった」
ユゲットが言った。
「サルヴァドールから?」
寛順に訊かれてユゲットは頷き、声を低めた。
「部屋の電話だとまずいから、外からかけ直してくれないかと言うのよ。それで村まで出向いて、広場にある公衆電話を使ったの。海辺に行ったのはその帰り」
「部屋の電話だと盗聴されていると、あの人思ったのかしら」
舞子が言う。
「そうでしょう。そんなことないと思うけど、彼はもうこの病院を信用していないから」
「どんな話だった」
寛順が真剣な顔をユゲットに向けた。
「わたしたちが一緒に食事したレストランの真向かいに建物があったでしょう。ほらジルヴィーがはいっていった建物」
「知っている」
「あの中を見たって」
ユゲットは二人の顔を交互に眺める。「ドイツの亡霊の館だって言うの」
「ドイツの亡霊?」
寛順が訊き返す。
「そう、古いドイツ。ヒトラー時代の」
ユゲットが大きな息をつく。「まるで博物館だって。でも死んだ博物館ではなくて、生きている博物館。現実に人間が出入りしているのだから」
「すると、ジルヴィーも亡霊のひとり?」
寛順が顔を上げる、
「クラウスの言うのが正しいなら、彼女も生きている亡霊のはず」
ユゲットが肉片を器用に切り分けて口に運ぶのを眺めながら、舞子は辺留無戸の顔を思い浮かべる。彼もドイツ人ではなかったか。
「だってジルヴィーはまだ四十歳を過ぎたばかりでしょう」
寛順が言う。
「若い世代にも亡霊はいるわ」
「この病院とその博物館はつながりがあるのかしら」
舞子は素朴な疑問を口にする。
「同じ人間が二つの場所に出入りしているのだから、無関係ではありえない」
答えたのは寛順だ。
「でもどうして」
舞子はまだすんなりとのみこめない。このリゾートホテルのような病院と、サルヴァドールで見た薄汚れた建物とは、外見からしておよそ正反対だ。
いつの間にか舞台に楽団が上がっていた。いつもとメンバーが違うが、マンドリンの老人だけは同じだ。ボーカルは中年の太った女性で、胸元のあらわな赤いドレスを着ている。褐色の肌のせいか、女性らしさよりも健康美を感じさせた。
曲はテンポの速いサンバだ。ゆるやかに上体を揺すりながら、声を自由に操る。高音も低音も自在で、まるで身体《からだ》全体が楽器だ。
「舞子、パパイアは?」
空になった皿を見て寛順が言う。ユゲットを残して一緒に席を立った。
「舞子、今日ドクター・ツムラの診察があったのでしょう」
メロンやスイカ、パパイア、マンゴー、レモンなどが色美しく並んでいる前で、寛順が訊いた。「何か言われた?」
「診察のあとで、今夜の誘いを受けただけ」
「死んだロベリオのことは言わなかったの? 舞子のほうから」
「————」
「どうしたの?」
「すっかり忘れていた」
舞子は呆然《ぼうぜん》とする。診察の前にジルヴィーの面接があって、ロベリオの死体を目撃したことは繰り返し想起させられたのにだ。寛順が怪訝《けげん》そうに舞子の顔を見つめる。
「わたしね。ここの病院に長くいてはいけないような気がするの」
ぽつりと寛順が言った。いつもなら何種類もの果物を皿に盛るのに、今夜はメロンひと切れでいいらしい。
「どうして」
舞子はパパイアを二切れ皿に取った。それくらいは何とか食べられそうだ。
「自分が変わっていくようなの」
小さな声で答え、不安気な視線を舞台の方に向けた。「自分が自分でなくなるような。舞子はそんな気持にならない?」
再び視線を舞子に戻した。
「わたしも。何だかこれから先、いろんなことが起こりそうな感じがする」
「そうでしょう。それが他人ごとという感じではないのよ。分かるかしら」
寛順は声を潜めた。「バーバラやロベリオに起こったことが、自分にも起こるのではないかと思うの」
「恐いわ、そんな話」
舞子は身体を硬くする。寛順と自分は一心同体だ。寛順に起こる事件が自分にも起こる。舞子は棒立ちになる。
そのときだ。舞子の前で、男が肉料理に手を伸ばした。「失礼」と言った英語がきれいだったので我に返ったのだが、白いシャツにズボンをはいた三十代半ばの白人だった。通路をあけようとして身体をずらしたとき、舞子の眼が男の右手に釘付《くぎづ》けになる。
甲に鳥の爪《つめ》の入墨が見えていた。四人目だった。サンパウロ空港で出迎えてくれた長身の黒人ジョアン、日本語で挨拶《あいさつ》するジョアナ、そしてロベリオがやはり同じ鳥の爪の入墨ではなかったか。但し、男の入墨では鳥の爪が逆マンジを掴《つか》んでいる。
舞子はさらに見定めようとしたが、男は移動し、肉と野菜の煮込みを皿にとると、舞台近くのテーブルに坐《すわ》った。若い白人女性ともうひとり、中年の男性が一緒だ。
「舞子、どうかしたの」
寛順が近寄ってきて訊いた。
「何でもない」
舞子は首を振る。
張りのある女性ボーカルの声が響き渡る。歌の意味は分からないが、陽気さだけは伝わってくる。
「何もかもドクター・ツムラに打ち明けるべきかもしれない」
自分自身に言いきかせる寛順の口調だ。「彼とはあとで会えるのね」
「そう」
舞子の返事に、寛順はほっとした表情をした。テーブルに戻り、入れ違いにユゲットが席を離れた。
「わたしがあんな風に考えるのも、主治医を好きになれないからかもしれない。これからもずっとあのドクターが主治医だと思うと、気が重くなる。その点、舞子はいいわ」
ヴァイガント医師とは直接口をきいたことがない。金髪で長身、映画の主人公のような顔立ちだが、気さくに話せる雰囲気はない。とくに下手な英語しか使えないので、なおさら気おくれがする。
「次の日曜日にサルヴァドールに行ってみない?」
小さな皿にアイスクリームを三種類とって戻ってくるなり、ユゲットが言った。「行ってクラウス・ハースに会い、直接話をきくのよ」
「行くわ」
寛順がきっぱりと言う。「舞子は?」
「どちらでもいい」
どっちつかずの返事になってしまう。実際のところ、今夜九時以降の行動は一切が闇の中なのだ。
三人とも別なことを考えているのか、黙々と口を動かす。浮きたつようなサンバのリズムがレストラン内を満たしている。
ウェイトレスがコーヒーを運んでくる。黒い肌に白いバイーア衣裳《いしよう》が美しい。
「夕食後のコーヒーはだめじゃなかったの?」
舞子がコーヒーを頼んだのを寛順が見逃さない。
「今夜はいいの。あとでお祭り見物があるかもしれないし。目を大きくしておかなくちゃ」
「マイコ、今夜はどこか変」
横あいからユゲットが言った。
自分では平静を装っているつもりなのだが、動揺は所作に出てしまうのだろう。弁解するのも不自然な気がして、舞子は黙ってコーヒーを飲んだ。
「午後スコールがあったでしょう。ベランダの内側から外を眺めていたら、フランスの田舎を思い出したの。きっと雨の音が水を連想させたのだわ」
「ユゲットの好きな町はモレなんとかと言ったわね」
寛順が思い出す顔つきになる。
「モレ・スュル・ロワン。ロワン川に跨《また》がるモレという意味。豊かな川で、中洲《なかす》には大きな水車があり、岸辺に教会が建っている。不思議な教会よ。ステンドグラスは、川面に反射される光をとり入れている。中にいると、川面の揺らぎがそのまま伝わってくる。カンスンもマイコも一度来て欲しいわ。きっと気に入ってくれる」
「もちろん行きたい」
寛順は答える。「ユゲットはあとどのくらい病院にいるつもり?」
「出産まではと思うの。それから先のことは考えていない。考える気にならないのよ。不思議ね。考えようとすると、いつも思考が停まってしまう。まるでそこに時間の壁があるみたいで、どんなにこじ開けようとしてもびくともしない」
「わたしはそう長居はしない」
寛順はぽつりと言った。「目的の半分は達したから」
「赤ん坊ができたの?」
ユゲットが小さな声で訊《き》いた。
「そう。今日が受精の日だった」
寛順が答え、何かを思い起こそうとするように視線を宙に浮かす。
「おめでとう」
ユゲットが笑顔で言い、「マイコは?」と訊く。
「知らない」
一瞬悲しみにとらわれる。自分だけが取り残されたような気持だ。
「そうだわね。ドクター・ツムラはそれについては言わない。わたしのときも、確かに妊娠していると判ってから告げられた」
ユゲットは慰める口調になっていた。
三人が妊娠や赤ん坊について口にするのは初めてだ。お互いそのために病院に来ているというのに、それを話題にするのにはためらいがあった。病人たちが自分の病気についていちいち報告し合わないのと同じかもしれないが、それ以上にジルヴィーの言葉が口に栓をしていたのだ。診察や面接の内容についても全く同様、口にすればすべての治療が水の泡になると厳しい表情で言われた。ツムラ医師の態度もそうした原則に見合うものだった。担当が同じでも、ユゲットについては一切教えてくれなかった。こんなものだと舞子は何の疑問も抱かなかった。ユゲットも寛順も同じだろう。
しかし今日を限りにこの病院を立ち去るとすれば、一体何のためにブラジルまで来たのだろうか。
ツムラ医師に相談してみよう。専門医として、彼なら何とかしてくれるはずだ。
「今夜は賑《にぎ》やか」
ユゲットが舞台に眼をやった。サンバに合わせて中年の女性がステップを踏んでいる。ウェストは決して細くはないが、均整のとれた身体つきだ。近くのテーブルで眺めていた若い男性が立ち上がる。髪をリーゼントに固めた美男子だが、右足が短く、リズムを踏むたびに身体が傾く。しかし臆《おく》した様子はなく、女性のほうも何の戸惑いもみせずに手をさし出し、身を寄せ合って踊り出す。
眺めているうちに、男性の身体の傾きも踊りの一部分のようになる。普通のダンスにはない個性的なステップだ。
曲が終わり、二人は互いに頭を下げる。観客もボーカルの女性も、二人を称えて拍手をしている。
次の曲が始まると、舞台の前に三組の踊り手が現れた。その場で組んだカップルらしく、うまい下手はまちまちだ。それでも楽しそうな様子だけは変わりがない。
「こんな踊りを見ていると、エアロビクスなんか、いかにもつまらない」
寛順が言う。
「あれは軍隊の行進と同じ。ワンツースリーフォー、ワンツースリーフォー」
ユゲットが腕を振ってみせる。
曲が終わってボーカルが黒人男性に替わる。後ろでタンバリンを振っていたニコニコ顔の男性だ。
「ドウゾ・ヨロシク、マイコ、踊りませんか」
いつの間にかジョアナが後ろに来ていた。初めの頃はオハヨウゴザイマスしか言えなかったのを、舞子から習ってコンニチワ、コンバンワ、ドウゾヨロシクまで使い分けるようになっていた。
「彼に頼んで、わたしたちが練習した曲を唄ってくれるようにした」
ジョアナのサンバのレッスンに最も熱心に出たのは舞子だろう。ユゲットは途中で止めたし、寛順は舞子が誘ったときだけ参加した。
「みんなで踊りましょう」
ジョアナが立ち上がらせるのを、ユゲットだけがかぶりを振る。お腹が心配というように腹部を指さした。
「舞子、行ってみようよ」
日本語で言って席を立ったのは寛順だ。バッグをテーブルの上に置く。湿った気分を少しでも晴らしたいのだろう。
「いいわ」
最後の夜なのだと舞子は思った。踊っていれば却って怪しまれないはずだ。
ジョアナについて舞台に近づく。向き合ってステップを踏む。東洋人が珍しいのか、いくつかのテーブルから拍手が送られた。
ステップは全くジョアナの真似だ。レッスンのときと同じように、彼女は時々後ろ向きになって振りを教える。ようやく要領を覚えたところで、知っている歌に変わった。レッスンのテーマ曲と言っていいランバーダだ。これならもう身体《からだ》がステップを覚えていた。向かい合ったジョアナがOKと言うように親指を突き出す。練習不足の割には、寛順も軽快にステップを踏んでいる。
三人で向き合い、位置を変えているうちに、飛び入り女性が二人加わった。いずれも四十歳くらいで、標準体重の二倍以上はある見事な体格だ。寛順と舞子のさして上手でもない踊りに勇気づけられたのだろう、笑いながらジョアナの物真似をする。しかし思い通りに足腰は動かず、観客がやんやの喝采《かつさい》を送った。
「一度踊ってみたかったの」
女性のひとりが息を切らしながら舞子に言う。流暢《りゆうちよう》な英語なのでブラジル人ではないようだ。
「明日からジョアナのレッスンに出るといいです」
舞子はジョアナの方を顎《あご》でしゃくった。
視線は、手の甲に入墨をした男のテーブルを一瞥《いちべつ》していた。ひとつだけ空いていた椅子《いす》に、白髪の小柄な老紳士が坐《すわ》っていた。踊りなどには興味がないらしく、他の三人と真剣に話し込んでいる。
少なくともこれまで、あの老人をこのレストラン内で見たことはない。
中年男も入墨の男もこの病院の幹部なのだろうか。
四人の会話が中断し、老紳士がこちらを見やった。舞子はさり気なく身体を捻《ひね》る。二人の中年女性は、もう顔に玉の汗が噴き出している。
寛順もステップを完全に覚えたようだ。ジョアナの足元を見ないで、思い切り手足を動かしている。
曲が終わり、小休止で汗をぬぐう。新たに白人男性二人が加わる。寛順と席に戻ろうとするのをジョアナが引きとめた。腹の突き出た男性二人も、一緒に踊ってくれないと出て来た甲斐《かい》がないと哀願する顔つきだ。寛順と顔を見合わせて、あと一曲踊ろうと決める。
次の曲も軽快だ。ジョアナがステップを変える。習った動きだった。男性組の踊りは全く様になっていない。ジョアナが二人を前にして腰を振ってみせる。そのうち交互に手を取って、二人の間で舞い始めた。
男二人の動きはぎこちないが、ジョアナの踊りが見事なので、花と花の間を行きかう蝶のようだ。舞子たちはその周りを囲んでステップを踏む。肥った女性二人は疲れたのか、両脚はほとんど動いていない。それでも嬉《うれ》しそうだ。
舞子はさり気なくジョアナの手の甲を眺めやる。確かに鳥の爪《つめ》の入墨がある。
曲が終わる。シャワーを浴びたばかりの身体が汗びっしょりになっていた。二人の肥った女性はかわるがわる礼を言った。舞子と寛順もジョアナに手を振って舞台の傍を離れる。労をねぎらう拍手は、ボーカルの男性もしてくれた。
「二人とも上手だった」
席に戻るとユゲットまでが小さく手を叩《たた》く。
喉《のど》が渇いていた。寛順に何が飲みたいか聞き、舞子が取りに行く。
舞台では踊りがまだ続いていた。メロンジュースとココナッツジュースをコップにつぐ。後ろを振り返って、老紳士たちのテーブルを見る。黒人の若い男が立ったまま四人に何か告げている。老紳士は真剣な顔で頷《うなず》き、席を立つ。あとの三人もその後に続いた。
もうすぐ九時だった。胸が高鳴るのを抑え、二つのコップをテーブルまで運んだ。
「まだ行かなくていいの?」
寛順が訊《き》いた。
「これを飲み終わったら」
舞子はさり気なく答える。ココナッツの淡い味が喉に快い。
レストランを出たのは九時を五分過ぎていた。庭園の中で、黒白のチェス板が照明に浮かび上がっている。駒《こま》の散らばり具合が抽象彫刻のようだ。
海岸寄りの通路を抜けて、外来の駐車場の方へ迂回《うかい》する。ところどころに外灯があり、駐車場はまんべんなく照らされている。七、八台の車がまだ残っていた。銀色のワゴンタイプの車がこちら向きに停車している。中には運転手がひとりいるだけだ。気がついたのか、大きな上体が動き、エンジンがかかった。
運転席にいる男は東洋人だった。舞子たちが近づくと、運転席の窓ガラスをわずかにおろした。
「サカガミさんですか」
舞子は日本語で訊く。
「そうです。乗って下さい」
返ってきたのは流暢な英語だった。サカガミは寛順とユゲットにも「今晩は」を告げたが、愛想笑いは顔に現れなかった。
舞子を真中にして、三人とも後部座席に坐った。
車がゆっくり発進する。ヘッドライトが、駐車場の周囲の樹木をなめるように照らし出す。
「どこに行くのですか」
ユゲットがいくらか不安気に訊いた。
「まだ言えません」
サカガミがかぶりを振る。ユゲットは不審げな眼を舞子に向けた。
「あとで分かるわ」
気持を鎮めながら答える。寛順はじっと車の外を見ている。
門は開いたままで、黒人の守衛がひとり立っていた。車内を一瞬見ただけで何も言わない。
「明日の朝、病院に査察がはいるのです」
T字路を右折したあとで、サカガミがおもむろに言った。「その前にあなたたちを連れ出す必要がありました」
「査察? 警察のですか」
寛順が訊く。
「サルヴァドールの検察局が直接乗り出します」
「それがわたしたちと何か関係が?」
ユゲットが問い直す。
「大いに関係があります。もし相手に気づかれた場合、あなたたちの身の上が危なくなるのです」
サカガミは前を見つめたまま答えた。
「マイコ、知っていたのね」
ユゲットが舞子に顔を向ける。
「全部は知らない。今日、ドクター・ツムラに言われただけ。寛順とユゲットも一緒に連れ出してくれということだったの」
「それでパスポートがいるのね」
寛順が頷く。
「まだ必要なものがあったでしょうけど、まさか旅行ケースを持ち出すわけにはいかないし。せめてパスポートだけはと思ったの」
「いずれ戻れますよ」
サカガミが言う。「ただ、病院側があなたたちの部屋を調べ尽くす可能性はあります」
「嫌だ」
ユゲットが言う。
車は海亀のいる村にはいっていた。
「ここで待機するのですか」
舞子が訊く。
「全員がこの村のホテルやペンションに泊まっています。総勢で二十名。みんな明日に備えているはずです。ぼくたちは、村はずれのホテルに宿をとっています。ホテルといっても、ペンションじみていますが」
バス停のある広場から、車は未舗装の路地にはいっていく。村全体が暗く、両端の家の窓からわずかに光が漏れてくるだけだ。
家並が途切れると道は上り坂になる。ヤシの林が右手に見えていた。左側は畑だ。
民家風の二階建ホテルはヤシ林のはずれにあった。駐車場の大きさからみても部屋数は十数室だろう。車が二台停まっているだけだ。
「ぼくは、サルヴァドールで開業している弁護士のアントニオ・シゲル・サカガミです」
車から出たときサカガミは自己紹介をした。車内では気づかなかったが、日本人にしては巨漢だ。丸太のような腕で握手をされた。
「こちらがユゲットと寛順、わたしは舞子です」
舞子もそそくさと言う。
ホテルの受付には誰もおらず、カウンターの上の呼び鈴を押して女主人が出てきた。
「一泊だけですから、家族用の大きな部屋をとってあります。いいですね」
サカガミが舞子たちに言った。
女主人は白いものの混じった髪を後ろで束ね、年齢の割には動作がきびきびしている。言葉少なに四人を二階に案内した。
通された部屋は二部屋が中仕切りでつながり、ダブルベッドが三つ、補助ベッドがひとつ備わっていた。バス、トイレもそれぞれについている。簡素な調度品だが、色だけはブルーに統一されていた。
「海が見える」
女主人がカーテンをわずかに開けたとき、寛順が言った。「海亀の上がる浜じゃなかったかしら」
寛順の英語を聞きつけて、サカガミが女主人にポルトガル語で確かめる。そうだという返事だった。
「ぼくの部屋は廊下の突き当たりですが、十二時頃、ドクター・ツムラも来ます」
女主人が出て行くの待って、サカガミが言った。舞子たちに椅子《いす》を勧め、自分も部屋の隅から椅子をもってくる。
「病院にどういう疑惑があるのですか」
訊いたのはユゲットだ。
「今は話せません。明日になれば言えますが。とにかく、あなたたちを保護しておくのが先決だったのです。重要な証人ですから」
「証人?」
ユゲットが舞子と寛順の顔を見る。「一体何の?」
「多分、バーバラやロベリオのことよ」
冷静な寛順が答える。
「査察がはいれば、病院の内部事情が明らかになります」
「病院が何か犯罪をおかしているということですか」
ユゲットから食い下がられ、サカガミは重々しく顎《あご》を引く。
「ブラジルの国内法では犯罪になりませんが、合衆国の法律を犯しているのです。捜査官の中には合衆国の専門家も三人含まれています。おそらく、この法律に違反した最初の例になるはずです。各国もこの種の法制定を考慮している段階ですから、事件の詳細が分かれば、ニュースは数時間のうちに世界を駆け巡る結果になると思います」
サカガミは腕時計を見て立ち上がる。「事件とあなたたちがどうつながっているか、ぼく自身は知りません。ただ、ドクター・ツムラの強い意向があって、あなたたち三人には前以《まえもつ》てあの病院を出ていただいた。一晩だけでもここに待機していて欲しいのです」
サカガミは確認をとるように、三人の顔を交互に眺めた。「連絡しなければいけないところもあるので、ぼくはこれで失礼します。部屋は廊下に出て右奥の左、十七号室。電話は〇一七で通じます。明朝六時には起きていて下さい。朝食は一緒に階下でとりましょう」
サカガミは他に何か質問はないかというように口をつぐんだ。
「ドクター・ツムラは病院に居残っているのですか」
舞子が訊いた。
「十二時前には病院を脱け出すはずです。正門や裏門からだと怪しまれるので、彼なりに考えているでしょう。車はどこか病院外に停めておいて、最終的にはこのホテルに辿《たど》りつく手はずになっています。ま、彼のことですから心配する必要はありません」
サカガミは微笑を混じえて答え、部屋を出ていった。
舞子はどっと疲れを感じた。椅子から動きたくない。寛順が立って、ドアにロックをかけた。
「ごめんなさい。こんな所に連れ出してみんなには申し訳ない」
舞子は涙声になる。
「何を言うの。何も知らないであの病院に残っていたほうがどれだけ恐いか分からない」
寛順が慰める。
「いいの。こうするのが一番だったはず」
そう言うユゲットも、椅子にどっかり身体《からだ》を休めたままだ。
「でも、お化粧を落とすのに何も持って来ていない」
寛順が部屋の中を見回し、首を振る。
「寝るのもこのままね。いいわ。火事で焼け出されたと思えば。恐い目にあわなかった分だけ幸せ」
思い直したようにユゲットが応じる。
寛順が冷蔵庫を開けた。レストランの出がけにジュースを飲んだはずなのに、もう喉《のど》が渇いていた。
「ユゲットにはまだ話していないことがあったの」
グァラナの瓶二本とコップ三つをテーブルに置いて寛順が言った。
「何なの?」
ユゲットが改まった顔になる。
「もう話してもいいと思うけど」
寛順が椅子に坐《すわ》る。「わたしたち、バーバラが殺されるところを見たの。悲鳴を聞いて駆けつけたときは、もう犯人の姿はなくて、彼女の身体だけが横たわっていた」
助け舟を求めるように、寛順は舞子の方に首を捩《ねじ》る。
「このことは絶対言うな。言うと命がないと口止めされたの」
舞子が補う。声が震えた。
「誰に?」
「ロベリオよ」
寛順が答えた。「舞子と一緒に、ロベリオに乗馬を習っていたの。病院の近くにある沼地まで来たとき、森の方で悲鳴が上がった」
「そうなの」
ユゲットの顔から血の気がひく。「じゃロベリオが死んだのも、何かそれと関係があるのね」
「無関係ではないわ」
鋭く寛順が言った。「ロベリオの存在も、最後には邪魔になってきたのよ」
「そしてわたしたちも」
舞子は恐る恐る言い添える。
「でも、バーバラが何で殺されたのか、問題はそこよ」
ユゲットが舞子と寛順の顔を見据える。
「病院が隠していること。つまり、明日の朝、一斉捜査が行われる内容がそれ」
「だから、それが何なの?」
ユゲットが問いかける。必死で頭のなかを整理しようとする表情だ。
「ユゲットには言わなかったけれど、バーバラが残したメモがあった」
「どこに?」
「レストランの前の庭にチェス盤があったでしょう。その黒いキングの中」
「どうして分かったの」
ユゲットが身を乗り出す。
「いつかユゲットがバーバラのこと話してくれたわね。彼女はよくチェス盤の付近にいたと。わたしもバーバラが何を考えていたのか知りたくなって、チェスを動かしてみたの。ひとつひとつが重いのね。黒のキングが倒れて、中の空洞が見え、その中に紙片が押し込んであった」
「それがどうしてバーバラのものと判る?」
ユゲットが畳みこむようにして訊く。
「署名などなかった。でも確かに女文字だし、ところどころにドイツ語が混じっていたの」
「どうしてそんなところにメモを隠していたのかしら」
「誰かに渡すつもりじゃなかったのかしら。相手はクラウス・ハースだった可能性が高い。直接会わなくても、万が一に備えて場所だけを電話で教えればいいのだし。でもそうする前に不幸が訪れた──」
寛順は唇をかむ。
「大変な内容だったのね、そのメモ」
舞子は横あいから質問する。
「病院内の地図と、扉の暗証番号が記入されていた」
「病院のどのあたりの地図?」
「普段はわたしたちが気にもかけていない所。本館西側の最上階」
「カンスンは行ってみたの?」
ユゲットは驚きを隠さない。
「自分で確かめなくてはと思ったの。今から考えると、よくそんな勇気が出せたと恐くなる」
「何があったの?」
「巨大な冷凍庫とコンピューター室」
寛順は自分の衝撃を思い起こすように息を呑《の》む。「コンピューター室に世界地図のパネルがあった。大きな冷凍庫の外側には検査室もついていた。何を調べるのかまでは判らなかったけど」
「もしかしたら、その冷凍庫のありかをドクター・ツムラに知らせたのはカンスンじゃない?」
舞子の問いかけに寛順は黙って頷《うなず》く。
「自分ではもうこれ以上調べられないと思った。それで、メモの写しをこっそりドクター・ツムラの郵便受に入れたの」
「わたしたちがサルヴァドールに行ったとき、彼からフィルムのプリントを頼まれたでしょう。あれは、寛順のメモに従ってドクター・ツムラがそこに忍び込んだのね」
「そう」
「あの変な写真だわね。世界地図があったり、コンピューターの画面だったり」
ユゲットが思い出す。「確か、保険会社の名前や病名が画面に映っていた──」
「それが病院の闇《やみ》の仕事だったのかもしれない。合衆国の捜査員が派遣されたくらいだから、大がかりな犯罪なんでしょう」
寛順がふっと溜息《ためいき》をつく。
「でもバーバラは、どうやってそんな事実をかぎつけることができたのかしら」
「コンピューターよ」
舞子の疑問に答えたのはユゲットだった。「あの人、仕事がプログラマーだったし、暇があるといつも、外来の二階にあるコンピューターの部屋にいた。インターネットでいろんなところのホームページを眺めたり、医学関係の資料を集めるのが好きだったみたい。そのうち、この病院の内部のコンピューターにはいり込んだのじゃないかしら。一種のハッカーよ」
「可哀相」
舞子はつい日本語で言う。
「知り過ぎた者が次々と殺されたわけね」
ユゲットが怯《おび》えた目をする。「バーバラとロベリオ──」
まるでその次が自分たちだと言わんばかりに、ユゲットの表情が凍りつく。
「気を確かにもたないと。ドクター・ツムラと舞子のおかげで、ここまで逃げて来られたのだから」
寛順が気丈に言った。
「少し横になりたい」
ユゲットが手近にあるベッドにころがり込む。靴をはいたままだ。
「わたしは化粧を落とすわ。石けんくらい洗面台にあるでしょう」
寛順が立ち上がった。
舞子はユゲットにならって、壁際の補助ベッドに身を横たえる。もともと薄化粧なので、そのままでもいい気がした。
あと一日だ。明日になれば何もかも大きく変わっているに違いない。
ツムラ医師がどうしているかも気になった。逃げそこなえば、知り過ぎた人間としてバーバラやロベリオと同じ運命を辿らないとも限らない。
ユゲットが起きて靴を脱ぎ始める。
「眠くなった。先に寝るわ」
そう舞子に言い、薄い毛布の下に身体を入れた。