階下の騒がしい音で目が覚めたとき、舞子は自分がどこにいるのか咄嗟《とつさ》には判らなかった。
「舞子、ユゲット」
寛順が暗がりの中で低く叫んでいた。「明かりはつけないで。下で何か起こっているわ」
二、三人の男の声がし、それに女の声が答えている。女主人の声に間違いない。
「サカガミ弁護士の部屋に連絡したら」
ユゲットの声がした。
「もう遅いわ。わたしたちだけでも姿を隠しておいたほうがいい。入口のドアは閉めてあるわね」
寛順《カンスン》がベランダに続くガラス戸に手をかけるのと、階下で女主人の悲鳴がしたのは同時だった。
「逃げよう」
ユゲットが落ち着いた声で言う。靴をはくのがやっとだった。三人|揃《そろ》ったのを確認し合う。
わずかに開けたガラス戸をすり抜けてベランダに出た。目が慣れたのか、それとも外のほうがわずかに明るいのか、駐車場に停められている車の輪郭が見分けられた。サカガミの車はなく、別なワゴン車が玄関に近いところに横づけにされていた。
廊下を走る音、続いてドアを激しく叩《たた》く音が響いた。
「わたしが先に降りてみる」
寛順がベランダから身を乗り出す。雨樋《あまどい》にしがみつきながら、壁づたいに地面までずり下がる。
ユゲットに促されて舞子も続く。どこにも足をかける場所がなく、必死で雨樋を掴《つか》んだが、身体の重みでそのままずり落ちた。右手に鋭い痛みがあった。何かの突起物で皮膚を破ったのだろう。
足が地につくと、すぐ上にユゲットの身体《からだ》が降りて来ていた。抱きかかえるようにした瞬間、頭上でドアに体当たりする音が響いた。
「逃げるのは海と反対側」
寛順が日本語、ついで英語で言った。彼女の後ろから、走り出す。ユゲットの方を振り返ったとき、、ベランダの上に二人の男の姿が見えた。そのうちのひとりはもう雨樋に手をかけている。
畑の野菜を踏みひしゃぎながら走った。
自分の白いパンツとシューズが闇の中で浮かび上がっているような気がした。最初の民家に辿《たど》りつき、路地を駆け抜け、また野菜畑にはいる。どのくらい走り続けたろうか。すべて寛順の動きに従っただけだった。
「ユゲットは?」
里芋のような葉陰にしゃがみ込んだとき、寛順が訊《き》いた。後ろにユゲットの姿がなかった。路地を曲がったところではぐれたのだろうか。
「大丈夫、逃げてくれたと思う」
寛順が自分に言いきかせるように呟《つぶや》く。胸騒ぎがした。息を潜めようとするが、荒い呼吸はおさまらない。暗闇の沈黙を破ってユゲットの悲鳴が聞こえて来そうな気がした。
四、五軒向こうの家で犬が吠《ほ》え出す。
「わたしたちではないよね」
寛順が肩で息をしながら訊いた。舞子は首を振る。
別な家の犬も吠え始めた。明らかに不審者に対して鳴く声だ。
「動かないほうがいい」
寛順が言う。
里芋は胸の高さまで伸びていて、腰をかがめている限り闇に紛れることができる。
まだ息が弾んでいた。胸の鼓動を聞かれそうな気がした。別の犬が新たに吠え始め、またそれが遠くの犬の鳴き声を誘った。もはや一寸たりとも動けない。動けば、近くの犬が吠え、追手に気づかれるだろう。
一分、二分と息を潜めていたとき、海の方向で女の悲鳴がした。ほんの一瞬の出来事で、舞子は空耳かと思った。
「聞いた?」
寛順から顔を向けられ、舞子は顎《あご》をひく。
「ユゲットかしら」
寛順の声が震えている。舞子は沼地で耳にしたバーバラの悲鳴を思い出す。同じような鋭い声だった。ただ夜と昼の違いだけだ。
犬の鳴き声が止んでいた。動くのは一層危険だろう。かといってこのままでいられるはずがない。逃げた方向は判っているので、追手の二人は必ずやってくる。早いうちに場所だけは移動したほうがいい。
「どうする?」
寛順に訊いた瞬間、背中を叩かれた。心臓が凍りつく。
男が立っていた。ポルトガル語で何か言うのだが理解できない。
「ナン・エンテンド」
寛順が答える。村人だろう。下の前歯が二本ほど欠けている。肌が黒いので口の中がよく見える。
男はついて来いという仕草をした。立ち上がる。おとなしく従ったほうが安全のような気がした。
畑の傍に小さな家があった。裏口なのだろう、鍬《くわ》や竹籠《たけかご》が土間の上に放置され、垂れ下がった布の奥から光が漏れていた。
椅子《いす》に中年の女性が坐《すわ》っている。それまで編み物をしていたのか、白いレースが膝《ひざ》に置いてある。
「ボーア・ノイチ」
彼女は言いながら笑顔をつくった。舞子も寛順も表情を強《こわ》ばらせたままだ。
男から何か命じられて、彼女は舞子と寛順にソファーを勧め、奥に消えた。
まだ身体が震えていた。いま追手の男たちが家の中にはいってくれば、この中年夫婦とも助けにはならないだろう。寛順がしきりに入口を気にしているのを見て、男はドアの方に行き、外を眺め、また戻ってきた。右足を引きずるような歩き方だ。
男は静かな口調で舞子に話しかけ、時々寛順の反応も確かめる。二人ともさっばり内容がつかめない。
「ダミアン?」
寛順が男の言葉尻《ことばじり》をとらえていた。男はスィン、スィンと嬉《うれ》しそうに頷《うなず》く。
「舞子、ダミアンのことを言っているのじゃない?」
「ダミアン?」
舞子も、少年のことかと仕草で訊く。男はこのくらいの背丈だというように、胸の高さに手をやった。
「ダミアンは近くに住んでいるのですか」
舞子は日本語で尋ねていた。精一杯のジェスチャーを盛り込み、同じことを二度訊く。
男の顔に微笑が浮かび、何度も頷く。飲み物を運んできた妻に早口で何か言うと、舞子たちには待っていろよという表情を残して外に出て行った。
粗末なカップに入れられたコーヒーだったが、温みと甘い味が舌に沁《し》みた。
女性は夫よりは大分若く、三十代半ばかもしれない。胸と尻が極端に大きかった。
「サボローゾ。オブリガーダ」
寛順が言うと、もう一杯どうだというように勧める。
並べたてる言葉のなかにもダミアンの名が何度も出てきた。
「わたしの勘だけど、ダミアンは自分の甥《おい》だと言っているような気がする」
寛順が首をかしげながら言う。
ダミアンの母親とは、海辺の小屋で一度会っている。顔が似ているのかどうか、思い出せない。
戸口の方に足音がした。舞子と寛順は身構え、土間の奥に目をこらす。
家の中に飛び込んで来たのはダミアンだった。両手を広げて舞子にしがみつき、しばらくして寛順も抱きすくめる。涙が出てきた。
「どうしてこんな所にいるのか」
ダミアンが手真似で訊く。
病院から逃げて来て、近くのホテルに泊まっていたら、強盗に襲われてまたここまで逃げてきた。舞子は日本語を混じえて説明する。傍から家の主人が助け舟を入れた。彼女たちは裏の畑に隠れていたのだと言っているに違いない。
わたしたちは三人だった、三人で逃げたのだと、寛順が指を三本立てた。
「三人? 分かった。あの人だね。その人はどうしたの?」
ダミアンの質問は不思議に頭の中にはいってきた。
「途中ではぐれた。どこに逃げたか知らない」
舞子は自分の目にまた涙が溢《あふ》れてくるのを感じる。闇《やみ》の中で聞いた悲鳴がユゲットのものであって欲しくなかった。
「はぐれたのはどこ? いやそれよりも、マイコたちがいたホテルはどこ?」
ダミアンが訊く。叔母《おば》に言いつけて書くものを持って来させる。
舞子は木の台の上に紙の切れ端を載せ、インクの出の悪いボールペンで絵を画く。まず海岸、海亀の産卵をダミアンと眺めた砂浜のある場所だ。そこを見おろすようにして二階建のホテルはあった。駐車場は海側に設けられていた。
「アストリアだ」
ダミアンが叔父《おじ》と顔を見合わせる。
「確かそんな名前だったと思う」
寛順も言った。いつの間にホテルの名前を頭に入れていたのだろう。
「ぼく、見て来る」
ダミアンが考える顔つきになる。この家の位置とホテルの建つ場所を頭のなかで描き、ユゲットがどの辺にいるのか推測したのに違いない。舞子と寛順にここに残るように言い、出て行った。
ダミアンの叔母が、プラスチックのたらいに水を張って持ってくる。タオルをつけて絞り、さし出す。寛順の手と顔に泥がついていた。寛順の右足のストッキングも破れている。雨樋を降りるとき、ひっかけたのだろう。
「舞子、怪我《けが》しているわ」
寛順から言われて、自分の左手を見る。手のひらの内側が一文字に切れ、流れ出した血が凝固していた。押さえると新たな血が噴き出しそうだ。
ダミアンの叔母が台所まで連れて行き、蛇口の水で傷口を洗う。傷口に血がにじみ、水をピンク色に染める。彼女は夫を呼んだ。
ダミアンの叔父は瓶の口を開き、中の液体を傷口にたらす、強い痛みが走った。さらにザラザラした軟膏《なんこう》を塗って、その上から茶色の布で固く包み込んだ。
コーヒーを勧められ、黙って飲む。寛順も無言だ。最悪の事態を待ち受けるように、身動きしない。
犬が吠《ほ》えなかったら、あなたたちのいることには気がつかなかった。よかった、見つけられて。家の外に誰かいるようなので見に行けと言ったのは、妻だ。叔父は身振りを混じえてしゃべる。舞子と寛順の怯《おび》えを解きほぐそうとしているかのようだ。途中で何度か、戸口の外を見に行く。
戻って来たダミアンは白人の男と一緒だった。三十歳くらいで、よく分かる英語を話した。
「一緒に来てくれませんか」
男が言う。傍でダミアンが表情を強ばらせている。
「舞子、叔父さんにも来てもらったほうがいいわ」
寛順が日本語でささやく。白人男を警戒しているような口ぶりだ。
舞子はダミアンの叔父を促して外に出た。
「どこに行くのですか」
寛順が訊いた。
「アストリア・ホテル」
暗がりの中で男が答える。四人をダミアンが先導するかたちになっていた。
何時頃だろうか。まだ夜が明ける気配は全くない。路地の両側にある家の中も真暗だ。犬が吠えないのが不思議だった。
家並が切れて薄闇《うすやみ》の向こうが均一になる。海だろう。小高い場所に外灯がぽつんと一本立ち、その先にホテルの輪郭が浮かび上がっていた。
未舗装の道は、サカガミの車で通ったところだ。あのホテルからダミアンの叔父の家まで近かったような気がしたが、実際は一キロ近くは離れているのかもしれない。一回も休まずによく走り続けられたと思う。
寛順はぴたりと舞子に寄り添い、決して白人男の前を歩こうとしない。ダミアンの叔父が最後尾についていた。
外気温が下がっていた。先刻温いコーヒーを飲んだのにもかかわらず、身体《からだ》が冷えている。かすかに吹いている風が肌寒い。
ダミアンは時々後ろを振り向き、舞子と寛順の方を見た。ダミアンが白人男を気にしている様子はない。
「怪しい人ではないかもしれない」
寛順は舞子に日本語で言った。
ホテルの駐車場は車が増えている。玄関前に横づけになっている乗用車はそのままだ。サカガミのメルセデスはない。
玄関口にいた二人の男が、五人を迎え入れた。
階段の前に毛布が広げられていた。いや毛布の下に、人が横たわっているのは明らかだった。
白人男の指示で、灰色のシャツの男が毛布の端をめくった。
血の海の上に青白い女の顔があった。首筋が、真一文字にぱっくり口をあけている。
舞子は思わず両手を顔にもっていく。苦い胃液がこみあげる。
「この女主人は見覚えがありますね」
白人男が寛順に訊いた。しゃがんでいた男の腰で、携帯電話が鳴る。男は立ち上がり、早口で応答している。
「このホテルに来たとき、案内してもらいました」
寛順が気丈に答える。
「最後に会ったのは?」
「会ってはいません。寝入ってから、下で言い争う声がして、そのあと悲鳴を聞きました。彼女の声だったと思います」
寛順は女主人の顔に見入ったままだ。白人男が気を利かせ、毛布をかぶせた。
「二階へ」
ダミアンと叔父だけは、係官のひとりと一緒にその場に残された。
舞子たちのいた部屋のドアは蹴破《けやぶ》られていた。男がスイッチを入れる。ベッドもベランダに出る窓やカーテンも、逃げたときのままだ。三人のハンドバッグとポシェットも盗られてはいない。
「わたしたち三人はここから下に降りたのです」
ベランダに出て寛順が説明する。「そのとき、あの車はもうありました。男二人の姿を見たのは、わたしたちが降りきって畑の中を逃げ始めたときです」
「男は二人?」
「そうです」
「どんな恰好《かつこう》をしていた」
「判りません」
寛順の返事に、白人男は舞子の方を見た。舞子も首を振る。
「白人か黒人かは?」
「白人ではありません」
舞子は答える。なぜかそんな印象があった。
「白人なら、あんなに機敏にここから降りられません。階段の方に戻って、わたしたちを追いかけたはずです」
たどたどしい言い方だったが、白人男は頷いた。
「で、途中でもうひとりの友達とははぐれたのですね」
「そうです」
舞子は答える。ユゲットの悲鳴を耳にしたことは口にしなかった。
「そしてミスター・サカガミは向こうの部屋にいたのですね」
部屋から廊下に出て、男がまた訊《き》いた。
「連絡しようと思ったのですが、間に合わず先に逃げました」
寛順が答える。
「何時頃ですか」
「今から二時間くらい前ですから、午前二時頃ではないですか」
「連絡しても、ミスター・サカガミは部屋にいなかった。ドクター・ツムラからの連絡でホテルを出たのが午前一時です。あなたたちがベランダから直接逃げたのは、適確な判断でした」
男はそこで初めて自分の名を口にした。「私はデ・アルメイダ。サンパウロ地検の検事です」
「病院が気がついたのですね、わたしたちが逃げたのを」
舞子が訊く。「あとをつけられた覚えはないのですが」
「レストランから戻っていないのに気づかれたのでしょう。車で出て行くところを誰かに見られませんでしたか」
「会ったのは守衛だけです」
舞子は答える。守衛は車内に眼をやったとき、女性が三人乗っているのは確認したはずだ。しかも、その気になれば、車が幹線道路に向かったか、村の方に曲がったかは確かめられる場所に立っていた。
「その守衛が報告したのでしょう。村の中や周辺のホテルを片端から調べて、アストリアを探し出したのだと思います」
デ・アルメイダはベランダから外を見やった。畑の方向に一ヵ所、照明がつき、三、四人の人影が動いていた。
階下に戻りかけたとき、下から制服の男が上がって来て検事に耳うちをする。検事の顔色が変わった。
「あなたたちの友達が見つかった」
デ・アルメイダが言った。
一階にはダミアンも叔父もおらず、制服の男二人が玄関口を見張っていた。死体にかぶせられた毛布を見ただけで、舞子は眼をそむけた。
寛順と二人で、検事と男の後に続いた。ホテルの裏手からも、畑の中の照明は見える。男は懐中電灯で畦道《あぜみち》を探し、ジグザグに明かりの方を目ざした。
不吉な予感がした。前方の明かりが動かないのが悪い予兆ではないのか。
寛順もまっすぐ明かりの方角を見据えている。
明かりの周辺に小さな人影が立っていた。ダミアンのような気がした。その人影は動かない。
「大丈夫ですね。気を確かにもって」
検事が後ろを振り向いて言った。
ダミアンが泣いている。手で涙をふいて、舞子と寛順を見やった。
地面の上にユゲットが倒れていた。下腹が真赤に染まっている。膨らんでいるはずの腹部がぺしゃんこになっているのは、内部がえぐられているからだ。舞子は声をあげそうになる。寛順が顔に手を当てたまま、ユゲット、ユゲットと呼ぶ。ダミアンが舞子の手を握りしめた。
もういいと言うように検事が指示を出す。制服の男が茶色の毛布を遺体の上にかけた。首筋にある切り傷は、バーバラのものと同じだった。