デ・アルメイダ検事の滞在するペンションは、海辺に面していた。アストリア・ホテルよりも質素で、部屋にはクーラーさえもついていない。寛順が調書を取られている間、舞子はユゲットに詫《わ》び続けていた。
自分が誘い出していなければ、こんな結末にはならなかったのだ。いくら悔やんでも悔やみきれない。
寛順は検事の質問に、はっきりした口調で答えている。わたしが畑の方に逃げずに、一番近くの家に飛び込めばよかったのです、と言ったとき、検事は激しく首を振った。
「家まで行きつくうちに追いつかれていた。ミズ・マゾーが遅れたのは、身重《みおも》だったからです。あなたの責任ではない」
「では、ユゲットを最初にベランダから逃げ出させて、わたしが最後でもよかったのです」
寛順は唇をかみしめた。
「身重な者が最初に降りられるはずはありません。あなたたち二人が手本を示したからこそ、彼女も無事に地上に逃れられた」
デ・アルメイダは重々しく言う。横でパソコンを叩《たた》いていた制服の警官も、顔を上げて頷《うなず》く。検事との問答は、そのままキイボードに打ち込まれていた。
問答の途中で、検事の携帯電話に何度も連絡がはいり、そのたびに彼はポルトガル語で応対した。
「九時の捜査開始を早めることになりそうです」
壁にかかった時計が六時をさしている。海の方角が少し明るくなりかけていた。
「ひと休みしなくていいですか」
デ・アルメイダが二人に訊く。
身体を横にしたところで、頭は却って冴《さ》えわたりそうだった。こうやって受身で何かをやらされているほうが、気が紛れる。寛順も同じ気持なのだろう。休む必要なんかない、ただコーヒーを貰《もら》えませんか、と訊いた。
パソコンを叩いていた警官が部屋を出ていく。
デ・アルメイダは窓際に立ち、外を見やった。さっきよりも、空が青味を増していた。
「こんな静かな場所で、あんな事件が起こるなんて」
彼は舌打ちする。「人が殺されたのは、未だかつてこの村ではなかったそうです」
舞子はまたユゲットの死体を思い出す。不自然に捻《ねじ》れた彼女の首、そしてパックリと口を開けた腹部。何年、何十年あとになっても、忘れそうにない光景だ。
「ミズ・キタゾノ。あなたが記憶しているバーバラ・ハースの死体と、さっきのミズ・マゾーの死体の共通点は、何かありますか」
デ・アルメイダが椅子《いす》に戻って訊いた。手帳の頁を開いたまま、舞子に顔を向ける。
「首の切られ方がそっくりです」
鋭利なナイフによる切創《きりきず》は、真一文字に深々と首をえぐっていた。頸動脈《けいどうみやく》からほとばしり出た血が、べっとりと髪を赤く染めている。その赤さが目の底に焼きついて消えない。
「バーバラ・ハースの死体も腹部を切られていましたか」
検事の問いかけに、舞子はかぶりを振る。彼女の腹部は、ふくよかな線を描いて美しく膨らんでいた。それに比べて、ユゲットの無惨な殺され方──。舞子は嗚咽《おえつ》が起こってくるのを必死でこらえた。
「単に殺すだけなら、首に切りつけるだけでよかった。何故あんなむごいことをするのか」
デ・アルメイダが顔をしかめた。
警官はペンションの娘と一緒に戻って来る。四人分のコーヒーが用意されている。デ・アルメイダは、それまでの舞子の発言を手短に説明し、パソコンに記録させた。
「バーバラ・ハースが殺された場所は、さっきミズ・リーからも聞きましたが、もう現場は残っていないのですね」
舞子にもよく分かるゆっくりした英語を、横にいる警官がパソコンにおさめていく。
「ブルドーザーがはいって、道が造られました。どのあたりかさえも、今では判りません」
舞子の返答を、キイボードの音が忠実になぞる。
「ドクター・ツムラも言っていたのですが、コンピューターの記録も全部抹消されているそうです。そうすると、バーバラ・ハースに関して残っている物は、ミズ・リーがさっき言ったチェスの中のメモだけですね。それ以外はあなたたちの記憶のみ──。他に何か思い当たることは?」
「特にありません」
舞子は首を振る。
「チェスの中のメモについては、すぐ調べさせます」
「バーバラはサルヴァドールにいる叔父《おじ》さんを訪ねたことはあるそうです。それ以外にも手紙を書いているかもしれません」
「クラウス・ハースですね。今日サルヴァドールの地検まで来てもらって、事情聴取する予定になっています」
デ・アルメイダは手帳の頁をめくる。「ロベリオの死について、先程ミズ・リーは他殺に違いないと言いましたが、あなたはどう思います?」
「殺されたのだと思います。わたしのカウンセラーのドクター・ライヒェルは、解剖の結果、事故死だと言いましたが信じられません」
「ジルヴィー・ライヒェルですね。確かにそう言いましたか」
「ええ、心臓に欠陥があったと──」
舞子は海辺で見たロベリオの死体を思い起こそうとするが、暗い波打ち際だけが記憶に立ちのぼってくるだけだ。まるでそこだけ焦点がぼやけたように像を結ばない。
「では、あなたが単なる事故死ではないと考える理由を言って下さい。ミズ・リーは、あんな時間に海で泳ぐはずがない。争ったような足跡もなかったので、どこかで殺されて、舟で運ばれて海岸に打ち捨てられたという意見です。自殺は考えられませんか」
デ・アルメイダはあくまで丁重な訊き方を崩さない。
「自殺でないのは確かです」
舞子はきっぱりと言う。「あの人はいつか、自分の夢を話してくれたことがあります。お金を貯めて、バンガロー形式のホテルを建てたいと言っていました。そこに自分の故郷の村の人たちを、代わる代わる招待するのだと──」
言いかけて、舞子は胸が一杯になる。もしかしたら、ロベリオは悪い人間ではなかったのではないか。悪人が、両親だけでなく村人にまでホテル生活を味わわせようとするだろうか。
「ほう、それで」
デ・アルメイダが先を促す。
「確かにあの人は、バーバラの死体を目撃したことを他人にしゃべるなと脅迫はしました。しかし今から考えると、それは本当にわたしたちのためを思ってではないかという気がするのです」
舞子の頭には、ロベリオが馬を先導して山道を登る光景が蘇《よみがえ》る。舞子たちに木笛を吹かせて、いかにも楽しそうだった。森の中に分け入り、パパイアまでも採って来てくれたではないか。
「とすると、ロベリオは裏切り行為か何かで殺されたと?」
鋭い視線が舞子を捉《とら》える。
「バーバラと同じように、何かいけないことに感づいたのではないでしょうか。ロベリオのあとが、わたしたちの番だったような気がします」
「なるほど」
デ・アルメイダはやっと頷く。「彼について、何かもっと思い出しませんか。どんな小さなことでもいいのです」
舞子の返事を催促するように、キイボードを打つ音が止む。
「ロベリオの右手に入墨がありました」
入墨という単語が英語で言えず、舞子は寛順に訳してもらった。
「ミズ・リーも気がついていましたか」
デ・アルメイダが寛順に訊《き》き直す。そう言えば確かに、と寛順も記憶を新たにする。
「小さな入墨です。ワシの爪《つめ》みたいな模様でした。右手の甲です」
舞子は補足する。
「奥地の村や漁村では、男たちがよく入墨をしますが、上腕にするのが普通です。手の甲というのは珍しい。それもワシの爪──」
「同じ入墨は他でも見たことがあります。わたしたちを、サンパウロの空港で迎えてくれた黒人もしていました。それから、病院でダンスを教えてくれたジョアナもです」
「ジョアナ? 女性ですか」
検事は驚いて問い返す。どんな女なのかを舞子と寛順に確かめ、携帯電話のボタンを押した。早口のポルトガル語で何かを命令し、また舞子に向き直る。
「もうひとり、入墨をしている男性を見ました。病院を逃げ出す直前、レストランで偶然会った白人です。その入墨も手の甲でしたが、模様が少し違っていました」
「どんな具合に?」
「ワシの爪がマンジを掴《つか》んでいるのです」
舞子は〈マンジ〉という英語が分からず、検事の万年筆を借りて紙の上に卍の模様を描いた。
「鉤十字《ハーケン・クロイツ》?」
検事が驚いて顔を上げる。「その男、レストランの客で、やはり患者ですか」
「患者ではありません。病院の職員だと思います」
舞子は、その男が話をしていた白髪の老人についても口にしようかと思ったが、今は無関係のような気がして黙った。
「その男の名前などは判りませんね」
デ・アルメイダから問われて、舞子は首を振る。
「会ったのはその時だけですから」
「バーバラの遺体を運んだ男たちにも、その入墨はありましたか」
「見ていません」
検事は舞子の返事を聞いて、寛順の方にも眼をやった。寛順も同じ答だ。
「入墨には二つの種類があることになりますね。ワシの爪だけのものと、それが鉤十字をしっかり掴んでいるものと──」
デ・アルメイダが口ごもるのを眺めていたとき、舞子はマンジについて辺留無戸《ヘルムート》が語った言葉を思い出す。〈マンジ〉というのは功徳の意味で、右マンジと左マンジがある──。
その辺留無戸が好んだのは左に旋回する左マンジで、普通の寺で見かける右マンジとは違っていた。しかし、その左マンジと、あの入墨は同じものだろうか。デ・アルメイダは左マンジの模様を見てすぐ理解してくれたが、ハーケン・クロイツとは一体何なのだろう。
検事に問い直そうとしたとき、廊下に足音がした。
ノックのあと、男に案内されてはいってきたのはツムラ医師とサカガミだった。舞子は思わず立ち上がる。
デ・アルメイダが、調書を取るのは中止だというように警官に目配せする。
「すまないことをしました」
ツムラ医師が舞子と寛順に頭を下げる。サカガミもその横で沈痛な表情を崩さない。
「ぼくが病院から逃げるように言っておかなければ、こんなことにならなかった」
「悪いのはこっちだ」
サカガミが言う。「あなたたちだけ残して出たのが失敗だった」
「いやサカガミに電話をして呼び出したのもぼくだ」
ツムラ医師は唇をかむ。
「わたしがすぐ近くの民家に助けを求めればよかったのです」
寛順までが肩を落とした。
「ドクター・ツムラ、彼女の遺体は見ましたか」
デ・アルメイダが訊いた。
「見ました」
ツムラ医師は眉《まゆ》をひそめた。
「どうして腹部まで切りつける必要があったのですか」
「切り裂かれているのは子宮です。胎児が取り出されていました」
絞りだすような声で、ツムラ医師が答える。
「何のために」
「分かりません」
「単なる変質者とも考えられません」
傍にいたサカガミが口を添えた。
「手慣れた者の仕業ですか。つまりメスを握る職業の──」
デ・アルメイダが訊く。
「いえ、素人です」
ツムラ医師がかぶりを振る。「遺体はすぐサルヴァドールに運び、医学部で司法解剖するように手配しました」
ツムラ医師とサカガミに付き添ってきた男は刑事らしかった。デ・アルメイダは彼に耳打ちされて頷《うなず》く。
「ミズ・リーとミズ・キタゾノ、これから病院の方に同行していただくのですが、構いませんか。疲れているとは思いますが」
舞子は寛順と顔を見合わせる。じっとしているよりも、動いていたほうが楽なような気がする。
「大丈夫です」
寛順が答えた。
ペンションから少し離れた道端に、サカガミ弁護土は車を停めていた。
「宿舎からは無事逃げられたのですか」
歩きながら舞子はツムラ医師に訊いた。
「部屋を出たのは零時を回ってからです。いろいろ準備がありましたからね。荷物は大きなリュックひとつにしました。正門や裏門を使わずに、川を横切ることにしました。服装も登山の恰好です。怪しまれても、そう答えればいいですからね」
サカガミが開けてくれた車に乗り込む。デ・アルメイダたち三人が乗った車は、前方で待ってくれている。
「バラ園を横切るとき、向こうから警備員二人が来るのが見えたのです。何か訊かれても、堂々と答えればいいはずなのですが、そのとき妙な予感がしたのです。普通なら、警備員はひとりで巡回します。それも、ゆっくりとした歩調でです。それとは違って、二人、しかも早足で近づいてくる。ひょっとしたらという直感でしょうね。ぼくはさり気なく通路を曲がり、建物の陰に隠れ、走りました。一目散です。警備員の声が後ろでしたような気がしました。後ろは振り返りません。こっちはリュックを背負っていますから、不利です。それでも、川岸まで行きつけば逃げられる自信はありました」
「そのとき捕まっていれば、すべてが水の泡だろうな」
車を発進させながらサカガミが日本語で言う。
「いや、あいつらはその時点で、ミズ・キタゾノたちの不在に気がついたのだろう。ぼくを探し出すより、あなたたちの行方をつきとめる方針に切り換えたのだと思う」
「つきとめて殺すのですか」
寛順が冷静な声で確かめる。
「そうでしょう。あなたたちが証人ですから」
ツムラ医師が重々しく答えた。「国道沿いの茂みに隠れていたとき、追手の警備員二人が、迎えに来た車に乗って病院の方に戻って行ったのです。それが方針の転換だったのかもしれません。もちろん計画自体は前から進行していた可能性は充分あります」
「検察や警察の動きが、ある程度彼らに読まれていたわけです。ブラジルではよくあることです」
サカガミがつけ加える。
車は、デ・アルメイダたちの乗る車のあとについて進んだ。
「ツムラ先生の郵便受に、あのメモを入れたのはわたしです」
寛順が言った。
「そうでしたか。ぼくは誰か病院内部の者かと思っていました。あなたでしたか」
「中庭の野外チェスの中に、バーバラの書いた物が残されていたのです。警察が調べていると思います」
「ミズ・リーは実際にあの部屋に行ってみたのですか」
「はい」
「危なかった。もし見つかっていれば、バーバラと同じ目にあっていた──」
ツムラ医師は嘆息する。
「あそこが、フォルテ・ビーチ病院の中枢部門と言っていい所です」
サカガミが言った。「他の臨床部門はつけ足し、あるいは隠れ蓑《みの》でしょう」
「あれは何のための冷凍庫ですか」
寛順が訊く。
「遺伝子診断用の血液標本を保存する場所です。壁の大きなパネルも見ましたね」
「見ました」
寛順と一緒に舞子も頷く。実物の大きさは判らないが、写真で見知ってはいた。
「あれがネットワークです。拠点づくりのパイロット・スタディとして、まずフォルテ・ビーチ病院で始めたのでしょう。うまく行けば、もっと大がかりな施設をブラジル奥地に建設するつもりだったのかもしれません」
「実際に合衆国から、あの病院に遺伝子診断を依頼してみたのです」
サカガミが運転席から口をはさむ。「いわゆるオトリ捜査というやつです。FBIが保険会社を装って、十人分の遺伝子診断を注文しました。最低百人分なら応じるという返事に、FBIも慌ててそれでいいと答えました。一人分の診断費用はいくらだと思いますか」
問われて舞子も寛順も首を捻《ひね》る。
「ひとり千ドル、百人で十万ドルです。もちろんサンプルの輸送費は依頼主負担です」
デ・アルメイダの車が裏門で停止する。守衛の代わりに、制服の警官が二人立っていた。
国旗掲揚台はそのままだ。明るくなりかけた空を背景に、二十本近い旗が垂れている。日の丸もあれば、韓国の旗もある。ユゲットのフランス国旗も、手前から三番目にあった。
「一万人で一千万ドルですからね。大変な利益です」
「あの冷凍庫には少なくとも十万人分の血液ははいるでしょうね。しかも常時入れ替えていたはずですから、それは莫大な収入です」
ツムラ医師がつけ加える。
舞子は十万人で百億円だと漠然と考えてみる。ブラジルでなら、実質的な価値はその三倍にはなるはずだ。
「ミズ・ハースはその秘密を知ったのですよ。コンピューターを操作してです」
ゆっくり走り出した車がまた停まる。デ・アルメイダの車が警笛を鳴らした。
「彼女はコンピューターを使って、その事実をどこかに知らせようとしたのではないかと思います」
ツムラ医師の言葉をサカガミが継いだ。「その過程で、病院に知れたのです。彼女のほうでもそれに気がつき逃げ出した──」
前の車から刑事が外に出て、鳥を追いたてている。黒白まだらでトサカのないスーだ。刑事の剣幕を尻目《しりめ》に、仕方がないという横柄な態度で通路の脇《わき》に身を退けた。
「ミズ・リーが見つけたメモは、念のため彼女が手書きしたものなのでしょう。コンピューターで発信するよりは安全だった」
ツムラ医師が言った。
入院受付前の車寄せに、古びたワゴン車が二台停まっていた。捜査員たちが乗ってきたものに違いない。
受付にいる女性が舞子と寛順《カンスン》を見て、形だけの笑顔をつくった。もう事情は職員に知れ渡っているのだろう。
「ミズ・リー、あなたが言っていたチェスの中のメモはこれですか」
刑事からビニール袋にはいった紙片を手渡され、デ・アルメイダが訊いた。寛順がひと目見て頷く。
「確かに彼女の筆跡かどうか、サルヴァドールのハース氏に確認させます」
検事は紙片のはいった袋を刑事に返す。「まず、あなたたちの部屋に案内させてもらいましょう」
部屋番号はあらかじめ知らせていたためか、別の刑事が先に立って歩く。すれ違う患者が不思議そうに舞子たちの一団を眺めやった。
寛順の部屋の前に立っていた刑事がドアを開ける。
「どうぞ」
デ・アルメイダが寛順を中に促す。「何か紛失したものはないか、点検して下さい」
舞子も寛順の後ろについて部屋の中にはいる。昨夜部屋を出たときと変わらず、荒らされたような形跡はなかった。
寛順はベッドの下に入れていた旅行ケースを取り出す。ポーチから鍵《かぎ》を出して開ける。
「あった」
寛順がほっとしたように言う。「わたしが心配していたのはこれだけ」
衣裳《いしよう》をベッドの上に並べる。鮮やかなピンクの上衣に、草色と赤が縞《しま》になった幅広の民族衣裳だ。
「わたしの結婚衣裳なの」
見とれている舞子に寛順が言った。
「もとのままでしたら、ミズ・キタゾノの部屋もお願いします」
入口で呼ばれ、舞子は寛順を残して部屋を出た。
そこも荒らされている様子はない。ベランダに出るガラス戸と鎧戸《よろいど》を開けるとき、石の風鈴が小さく音をたてた。軒下の釘《くぎ》に吊《つ》るしていたのだが、いつの間にかテグスの糸がからまり、音を出しにくくなっていた。
ベランダの隅に置いたプランターに朝日が当たっている。
舞子は、入口で待機していたツムラ医師を呼んだ。
「何か盗られた物がありますか」
ツムラ医師が尋ねる。二人だけになると日本語がしゃべられるので気が楽だ。
「この植物は沼から採ってきて植えたものです。ちょうどバーバラが横たわっていた場所に生えていました」
ツムラ医師は腰をかがめ、プランターの植物に見入る。
「採取したのはいつです」
「バーバラが殺された翌日です。今から考えると、よく勇気があったと思うのですが、白昼夢なのか現実なのか自分でも分からなくなって現場に行ってみました。血の跡くらいはあるかと思ったのですが、全く何の変化もなく、警察が調べた形跡さえないのです。それで、彼女が倒れていた場所にあった植物を一本、指で掘って持ち帰りました」
舞子の言葉に深々と頷き、ツムラ医師は食虫植物の壺《つぼ》になった部分を調べる。
「これは大きな手がかりです」
ツムラ医師は外にいたデ・アルメイダを呼んだ。早口のポルトガル語で話し合う。今度はデ・アルメイダが部下を呼び入れた。指示を出された刑事が部屋を飛び出して行く。
「ミズ・キタゾノ。いま、バーバラ・ハースが滞在していた部屋の残留物を残らず調べさせるようにしました。ベッドの下やシャワー室の体毛もです。指紋は取らせて、あの紙片と照合するようにしていましたが、体毛までは考え至りませんでした」
「髪の毛の一本でも残っていれば、DNA鑑定で同一人物かどうか判定できます」
ツムラ医師が日本語で補足する。「この食虫植物も、おそらくバーバラの血液を吸っているはずです。分析すれば茎や葉に残留した血液のDNAを調べることが可能です。法植物学の分野です」
別の刑事がプランターの植物をシャベルで掘り出し、ビニールの袋に入れた。
部屋の外に寛順が待っていた。
「ユゲット・マゾーの部屋も荒らされていないか、一応調べています。来てみますか」
デ・アルメイダが言った。
一階に降りる。ユゲットの部屋は、前の晩初めて中にはいっていた。小机の上に、小さな本が置かれたままだ。いつかプールサイドでユゲットが読んでいた本だった。どんな内容か舞子が訊《き》いたとき、サングラスをずらして明るく答えた。〈少年がピラミッドまで宝を探しに行く話、でも宝は、自分の心の中にあったのよ〉
その彼女が首を切られ、腹部をえぐられたのだ。舞子はこみ上げてくる涙を必死でこらえた。
「荒らされていませんね」
デ・アルメイダが訊く。
「昨日見ただけですけど、そのままです」
寛順が目を潤ませていた。
「ユゲットは日記をつけていたはずです。ノートはその机の上にありました」
舞子が言うと、デ・アルメイダは刑事を呼ぶ。
「ノートの類はなかったそうです。持ち去られたのかもしれません」
デ・アルメイダが言った。
「この写真はどうしましょうか」
プラスチックで挟んだ写真を刑事が示した。二枚の写真が背中合わせになっていた。
「ユゲットとその恋人です」
寛順が写真を眺めて言う。ユゲットの横で青年が笑顔を見せている。ユゲットの背丈は恋人の胸元までしかない。
「名前はアランと言っていたはずです」
舞子の返事にデ・アルメイダは頷き、写真入れをひっくり返す。川と橋が写り、左側の中洲には水車小屋、奥の城壁の向こうに教会の塔が見えていた。
「二人の思い出の場所です。パリの郊外にあって、モレとかいう名前だったと思います。美しい町だから、いつか遊びに来るように彼女は言っていました」
舞子は答えながら、また胸が詰まってくる。ユゲットから話を聞いた通りの町のたたずまいが写真に表われていた。ユゲットがいなくなった今、もうそこを訪れる機会も永遠に消えてしまった。
「次は本館の五階です」
デ・アルメイダが言った。
「ジルヴィー・ライヒェルと会えるのですか」
寛順が訊く。
「あなたたちに接触のあった病院のスタッフは、全員逃げています。ミズ・リーの主治医のドクター・ヴァイガント、ミズ・キタゾノが目撃した白髪の老人、職員のジョアナ、産婦人科の看護婦の一部などです。院長に職員名簿を出させて追及しているところです。もちろん、病院の周辺の道路には検問を敷いています」
デ・アルメイダが答え、あたりに鋭い視線を送った。通路脇の土産物店はまだ閉まっていたが、レストランではもう客が朝食をとり始めていた。
「これだけの病院はブラジルのどこを探してもないでしょう。一流のリゾートホテルと最先端の病院をひとつに合わせたようなものです」
芝生の上に置かれたパパイアに猿が群がっている。群からはずれた所に痩《や》せた子猿がいて、仲間たちの動きをオドオドしながら眺めている。
「生きていたわ。あの猿」
舞子が寛順に知らせる。しばらく姿を見せないので、餌《えさ》にありつけずに餓死したかと思っていたのだ。まだ他の子猿よりは小さいが、少し大きくなっているようにも見える。食べ残しのパパイアで飢えをしのいできたのだろう。
朝日が緑の芝生を照らしている。暗かった海面も白く光り始めていた。
「あのチェス盤でしたか」
デ・アルメイダが寛順を振り返る。「コンピューターのネットワークではなくて、手書きのメモが役に立ったとは皮肉なものです。でもミズ・リーが気づかなかったら、彼女のメッセージは生かされないままでした」
「冷凍庫の中の血液標本は無事だったのですか」
「そのまま残されているようです」
寛順の問いに答えたのはツムラ医師だ。
「名簿のディスクは持ち去られていますが、血液標本があれば病院側を追及できます」
デ・アルメイダが言った。
身体の大きなサカガミが、物珍しげに回廊の大理石像を眺めている。
舞子はヴェールをかぶった石像に眼をやる。同じ姿勢で同じ表情をしているはずなのに、見るたびに様子が変わった。今はヴェールの下の顔が泣いている。
石像から眼を離したとき、ツムラ医師と視線が合った。充分泣いたはずなのに、また胸が熱くなる。ツムラ医師は唇をひき結び、黙って頷《うなず》いた。
外来の待合ロビーに患者が集まり始めていた。
エレベーターには舞子と寛順、ツムラ医師とサカガミ、デ・アルメイダの他には、中年の刑事がひとり乗り込んだだけだった。
「五階ですね」
刑事が寛順と舞子に確かめる。
「ぼくたちは五階には上がったことがないのです」
ツムラ医師が言う。
「五階は奇妙な造りです」
刑事は病院の図面のようなものを広げてみせる。「四ヵ所からエレベーターで上がれるようになっていますが、あとの三つは専用エレベーターです」
舞子は意外な気持がする。特別な場所に行くつもりでこのエレベーターを利用したことはない。一階でのツムラ医師の診察、五階でのジルヴィーとの面接、そして辺留無戸に会うことは、何の変哲もないひと続きの流れだった。
エレベーターの扉が開く。
驚いた顔をしたのは舞子だけではなかった。寛順もその場に立ちつくす。ガラスの仕切り戸の奥には廊下があり、母子像が並んでいたが、薄暗い照明のためか廃墟《はいきよ》のように見えた。緑色の絨毯《じゆうたん》でさえも色褪《いろあ》せていた。
「ここですね。あなたたちが面接を受けたのは」
デ・アルメイダから訊かれて、二人とも頷く。あのきらびやかな光はどこに消えたのか。光があってこそ、大理石の母子像は、まるでたった今刻まれたように白く輝いていたのだ。
「ここがジルヴィー・ライヒェルの部屋でした」
仕切りガラスの中にはいって、寛順が左側の部屋を指さす。刑事がドアを開ける。
部屋の隅に観葉植物の鉢が二つ、中央に机と椅子《いす》が一個ずつ置かれている。舞子はいずれにも見覚えがあった。しかし、ジルヴィーがそこに坐《すわ》っていた時の雰囲気とは、全く違う。
「調度品など、元のままですか?」
デ・アルメイダが舞子に確かめる。
「同じですけど、こんな部屋ではありませんでした」
舞子は寛順の方を見やった。彼女も大きく首を振る。
「わたしが面接を受けたのは向こうの部屋です」
寛順が奥の小部屋を示す。舞子も同じだ。アコーデオンカーテンで仕切られたその部屋は、まるでカプセルのように周囲から遊離したような空間だった。ジルヴィーと向かい合いながら、質問に答え、あるいは眼球運動の操作を受けた。頭に浮かぶ光景を独り言のようにして報告した日もあった。
しかしその部屋も、がらんどうになっている。
肘《ひじ》かけ椅子が二脚向かい合っている。ジルヴィーとそこに坐ったのだが、耳には波の音や風の音、蝉《せみ》の鳴き声が届いていた。夕陽の沈む海岸やヤシ林が周囲に広がっていた。
「衝立《ついたて》の向こうにエレベーターがあります」
既に内部を調べ終わっているらしく、刑事が言った。
「一階の産婦人科外来に通じているエレベーターでしょう」
ツムラ医師が補足する。「ジルヴィーが直接外来に来るとき使っていたエレベーターです。ミズ・キタゾノも、ミズ・リーもこれで運ばれてきたのです。覚えていますか」
舞子もかすかに記憶があった。ジルヴィーの面接を受けている間に意識が遠くなり、気がつくとツムラ医師の診察室に横たわっていたのだ。
「彼女を見つけ出せば、すべてが明らかになる」
デ・アルメイダが刑事を睨《にら》みつけた。
「リストアップされた職員たちはすべて手配済みです。検問の網にかかるのも時間の問題です」
「病院長はもう検束しているのだろうな」
「はい。病院長他の幹部は、今取り調べ中で、理事たちにも出頭するよう命令を出しています」
刑事が澱《よど》みなく答える。
また廊下に出ていた。
「病院らしくない所ですな」
サカガミが言い、赤ん坊に乳を与える大理石に手を触れる。「しかも全部、母親と子供の像ではないですか」
舞子の記憶にある母子像は、赤ん坊が今にも動き出し、泣き声が聞こえてきそうなくらいに生き生きとしていた。しかし目の前に並ぶ石像は、埃《ほこり》をかぶって博物館の隅に置かれている物と大差ない。
寛順が刑事の後ろについて廊下の奥の方に進んでいる。
「部屋にはいる前に、ここから中を覗《のぞ》いたのです」
扉の脇《わき》に取りつけられた双眼鏡のような装置を指さして、寛順が言った。「舞子も同じだった?」
「同じ」
舞子は答える。「覗き込むと扉が開きました。自動的にです」
ツムラ医師がわずかに背をかがめて、装置に両眼を当てる。
「何か見えるのか」
サカガミがツムラ医師と交代する。「真暗じゃないか」
舞子もいつものように目を当てる。暗闇《くらやみ》のままだ。
「何が見えていたのですか、以前は?」
「左マンジの印です」
舞子は指で宙に形を描く。
「ミズ・リーも?」
デ・アルメイダが訊《き》く。
「同じ印です。赤い模様でした」
「ハーケン・クロイツ」
デ・アルメイダが厳しい顔つきになる。「ミズ・キタゾノがレストランで見た男の入墨にも、それがあったのですね」
言われてみればそうだ。
「ハーケン・クロイツがこの中に見えたのですか」
口ごもりながらサカガミがもう一度、装置に目を当てた。
「カチカチと音がして、それから扉が開くのです」
寛順が呆然《ぼうぜん》として言う。舞子も同じ体験をしていた。しかしもうずっと遠い日々の出来事のような気がしてくる。
「網膜を指紋代わりにしたのですかね」
デ・アルメイダがツムラ医師の方を向く。「血管の走行の具合で、その個人を同定するやり方です」
「いや、それだけではないかもしれません。その左マンジを見たことは、ここ以外ではありませんか」
ツムラ医師が舞子に顔を向ける。
「ありました」
舞子の頭の中で遠い記憶が蘇《よみがえ》る。
「どこでです?」
「日本にいるときです。寺に通っていたのですが、そこでやはり暗い中を覗き込み、この模様を見ました」
「何回くらい?」
「全部で十回くらいです」
ツムラ医師は考える表情になり、今度は寛順に眼を向ける。
「ミズ・リーも同じですか」
「見ました」
寛順が頷く。
「韓国でですか」
「はい、松湖寺《ソノサ》という寺でです」
「何回くらい?」
「七、八回でしょうか」
「やはり、そこを覗き込むと扉が開くのですか」
デ・アルメイダが訊く。
「いえ、そんなことはありません」
寛順の返答は、舞子にしても同じだった。部屋にはいる前の儀式、そうでなくても精神統一のような意味合いしかもたなかった。ちょうど神社の境内で口を漱《すす》ぎ、手を洗うのと同じだと思っていた。
「あとで、あなたたちがそれぞれ通った寺を詳しくうかがいます。国際警察機構を使って調べるのは簡単です」
デ・アルメイダは部下に目配せをして扉を開かせる。
ほの暗い空間を前にして舞子は立ち尽くす。
天井の低い倉庫のような場所だ。もちろん何ひとつ調度もなく、窓もない。
「こんな所ではありません」
寛順が呟《つぶや》く。「もっといろんなものがありました」
「ここにですか」
デ・アルメイダが質問する。
「あそこに石像があって、その前で老師が静かに読経していました」
「石像?」
ツムラ医師が訝《いぶか》る。
「はい、お釈噛《しやか》様の坐像《ざぞう》です。その周囲は、極彩色に塗られた木の壁で包まれていました」
「ミズ・キタゾノも?」
「いいえ」
舞子は首を振る。「わたしのときは、木の彫刻で不動明王の仏像でした。後ろに真赤な炎を背負っていました。その前で、僧が呪文《じゆもん》を唱えるのです」
「僧というのは?」
「辺留無戸という名の坊さんです」
「ここに住んでいるのですか」
ツムラ医師が驚き顔で訊く。
「いえ、日本のお寺で会った僧です」
「ミズ・リーの会った老師というのも、その何とかという韓国の寺の僧ですか?」
「はい」
寛順が頷く。
「ホログラムでしょう」
ツムラ医師がデ・アルメイダに告げる。
「その僧侶《そうりよ》とはここで話ができたのですか」
サカガミが尋ねた。
「できました」
答えたのは寛順だ。舞子も頷く。
「とすると、あなたたちの姿もカメラに撮られて、向こうに送られていたのです。通信衛星を使っているのでしょうね」
「僧たちと話をしたあとで、どうしたのですか」
待ち切れない様子でデ・アルメイダが問いかけた。
「もうひとつの扉があって、近づくと左右に開きました。そこは透明な壁でできた迷路になっていました」
「透明な壁?」
「はい、ガラスのような曲面の壁です。床も透明で、天井はどこまでも高く、暗闇の中に溶け込んでいました」
「その迷路の中でどうしたのです?」
デ・アルメイダが部屋の中に歩を進めた。
「迷路の壁と壁の間をぐるぐる回って行くと、真中に出るのです。そこにガラスのベッドがありました」
寛順が静かに答える。頭の中でその迷路をなぞっているかのようだ。
「ベッド?」
ツムラ医師が目をむく。
「その上に横たわりました。すると頭のところにフードのようなものがかぶさってくるのです」
「ミズ・キタゾノも?」
ツムラ医師が舞子の方に顔を向ける。
「はい」
「それで」
「明生に会うことができました」
舞子はきっぱりと言う。他人の前で明生の名を口にしたのは初めてだ。涙が溢《あふ》れてきた。
「ご主人ですね」
絞り出すようにツムラ医師が言った。
夫ではなかった。しかし夫になるべき男性だったのだ。──舞子は胸の内でそう叫ぶ。
「そのご主人が、眠らされている間に夢に出てくるのですね」
ツムラ医師が畳み込む。
「夢ではありません。実際に会えるのです」
「でも、ご主人は亡くなったのでしょう?」
ツムラ医師の顔がこわばる。
「いえ、あの人は生きています。ここだけではなく、海岸でも森の中でも会うことができました。死んではいません」
舞子は叫ぶ。あの人が死んでしまうなんて、そんなむごいことがあるはずがない。明生は生きているのだ。直接話しかけなくても、じっと遠くからこちらを見つめてくれていた。そしてこのフォルテ・ビーチ病院では、毎日のように会えたのだ。中庭を散歩している明生、プールサイドに立っている明生、猿に餌《えさ》をやっている明生、アーチェリー場で弓を射ている明生。潮の花で覆われた海辺を、手をつないで歩いた日もあった。誰もいない入江で泳いだ午後もあった。明生はいつも一緒だった。そして最後には、コーヒー園で暮らす将来設計もしたではないか。考古学の夢を捨てきれない明生は、コーヒー園の中にある巨石の意味を解き明かすのだと言っていた──。
「わたしはあの人の赤ん坊を生むためにここに来たのです」
舞子は高らかに言う。
寛順が蒼白《そうはく》な顔で舞子を眺めている。
「ミズ・リーの恋人も亡くなっているのでしょう?」
ツムラ医師が厳しい表情を寛順に向けた。「どうなのですか」
「生きています」
ロボットのような口調で答える。サカガミが心配そうに寛順の傍に寄った。
「やっぱり、ここに来ているのですか」
「来ています」
寛順は能面のような表情で頷《うなず》く。
「どこにいるのです、今?」
ツムラ医師がさらに訊く。
「ここに──」
「この部屋のどこに?」
問われて寛順は、周囲の暗がりを見回す。
「金東振《キムドンジン》」
寛順が叫んだ。「金東振、どこにいるの。姿を見せて」
叫ぶ寛順の腕をサカガミが支える。
寛順が泣いている。初めて見せる涙だ。端整な顔を涙がつたう。
「寛順、泣いては駄目よ」
そう言いながら舞子も涙がこみ上げてくる。
「分かった。リカルド、もういい」
サカガミがツムラ医師を制し、デ・アルメイダに目配せする。
「さあ、ここを出よう」
デ・アルメイダが言った。
ツムラ医師から手を伸ばされたとき、舞子は気が遠くなっていくのを感じ、その場に倒れ込んだ。