ある友人の編集者が、こういう話をしてくれた。
「執筆者の奥さんは注意しなくちゃイケマせんなあ」
「どうして」
「ぼくらは何も執筆者の全部を個人的に尊敬しとるわけじゃあないんですよ。それを味噌も糞も先生と呼ぶのは、仕事の上、それが便利だからでしょう」
「そんなことぐらい、わかっとるよ」
「まア、そういうわけで、原稿をとるために、相手を先生、先生というのは仕方ないとしても、その人の家にいって、女房までがエラそうな顔をするのに時々出会います」
「なるほど」
「執筆者はそれでも一応の考えをもった人ですから、先生で結構ですが、その奥さんは正直言えばタダの女じゃないですか。そのタダの女が執筆者の女房という理由だけで、自分までが偉そうな物の言い方などするのをみると、アン畜生! と思うことがありますなア」
その友人が帰ったあとで、ぼくは、彼はなかなかいいことを言ってくれたと思った。
もともとぼくは、執筆家を先生とよぶ習慣は、あまり好きではなかった。なぜ気に入らんかというと、若僧が先生などとよばれると、偽善者になる傾向ができるからである。
それはさておき、今の編集部の友人が言ったことは、やはり考えておかねばならぬ。
これは、なにも執筆者の女房だけの問題ではない。女全般に関する問題だからである。私も同じような経験がある。むかし先輩の家をたずねていった時、その先輩の前で奥さんが私に、
「あんた、早く偉くならなくちゃダメですよっ」
と言ったことがある。
こちらは、その先輩にとっては後輩にちがいないが、彼の奥さんの後輩ではない。先輩にたいしては尊敬しているが、しかしその女房に同じ感情をもっているわけではない。それなのに、その彼女から「あんた、早く、偉くならなくちゃダメですよっ」などと言われるスジはない、と腹を立てた記憶がある。
今、考えてみると、それは私が若いから怒ったのであろう。そして、その奥さんも悪気ではなく、自分の夫をたずねてきた学生ゆえに、親切心からそう言ってくれたのであろう。
しかし、こういう、かつての若い私のような青年にムッとさせるような結果になっては、せっかくの親切心も不毛である。だから女房というものは、できるだけ「控えめ」に「控えめ」にしていたほうがいいのだと私は思うのだ。
ある教訓
けれども言うはやさしく、行うはかたし。女というものは依存的存在(だれかに依《よ》りかかって生きていく存在)である以上、自分が依存している人間が偉くなったり、ちょっと名まえが売れたりすると、自分までが偉くなったような錯覚をするものらしい。
滑稽《こつけい》な話が五年ほど前にあった。そのころ、私は渋谷近くに住んでいたのだが、近所で合同でドブ掃除をやろうとして、当番の人が各家に申し入れを行ったところ、二軒ほどの家からピシャリと断られた。断るのは各家の事情がそれぞれあり、もちろん、とやかく言うすじあいはないが、その一軒の奥さんの断った理由がふるっている。彼女はこう言ったのだ。
「ウチの主人は東大出なんでございますのよ」
つまり、彼女の言いたいのは、自分は東大出身の、おえらアーいお方の細君である。その細君はみなといっしょにドブ掃除などできないと言うわけだ。
その話を聞き、私は爆笑した。読者のみなさんも苦笑されて、その人は少し頭がオカしいのではないかと思われるでしょう。しかし、これが実話なんだから。そして、これほどではないが、これと大同小異の例に、みなさんも日常生活や同窓会なんかでぶつかりませんか。
「あの……、お宅の御主人、どこの大学でございますの」
「ウチは△大ですの」
「まア、△大ですの」
「お宅は?」
「ウチは……たいしたことないんです。東大ですの」
こんな女性が同窓会なんかよくいるでしょう。嫌だねえ。てめえが東大出たもんでもあるまいに、主人の出身校のことをなんとかして友人たちに知らせようとする阿呆臭い努力。
こういう女性が極端になると、さっきのドブ掃除を断った奥さんのようになるのだが、また彼女は主人の部下の細君にたいしても、あたかも自分が彼女たちの上役であるかのごとき言葉づかいをするものなのだ。しかしよく考えてみると、亭主が部長だからといって、その女房が部長と同じ力量、頭脳があるわけではない。女房はどんな偉い人の女房でも、しょせん、女房業しかできん女にすぎぬにかかわらず、当人、勝手に自分までエラくなったような錯覚にとらえられているのである。
こういう錯覚にとらえられているドン・キホーテ的女房を見ると、男たちはなんともいえぬ女のあわれさ、愚かさを感じて苦笑するのであるが、当人、いっこうそれにお気づきにならぬから、ますますメデタイ、メデタイ。
「つくす」行為の難しさ
むかし、青年の時、社長の娘というのがガール・フレンドの中にいて、この娘が社長の子だというのであまりに威張るから、引っぱたいたことがあるが、父親が、
「よく、やってくれた」
と言ってくれた。偉い人だったと思う。
だから、女房を部下や後輩の前で威張らしたりゾンザイな口のきき方をさせておくのは、亭主のほうにも非があることはたしかだ。たしかだが、しかし聡明な妻というものは、自分が何者であるかをよく知っていて、決してその分《ぶん》を越さぬようにすべきだと思う。結局、笑われるのは御当人であり、またその亭主でもあるのだから。
と書けば、あるいは読者のみなさんの中から、反発の声があがるかもしれない。
「まア、ひどい。それじゃア、妻というものが可哀想だと思いますわ」
「どうして」
「あなたは、どんな人間の女房も、しょせん女房にすぎぬとおっしゃいますが、亭主を偉くするような女房というものもあるのですわ」
「そりゃア、あるでしょう」(吐きすてるように小生、言う)
「その内助の功なんて並みなみならぬものですわ。してみると、御主人を部長さんにした奥さんは、それを威張れるだけ、やはりお偉いんじゃないかしら。内助の功をなさったんですもの」
「わかりました。わかりました。そう大きな声で、あんたギャーギャーわめかんでもよろし。しかし、もしその女房がほんとうに亭主に内助の功をつくしつづけたいなら、彼を後輩からの笑われ者にはしませんね」
「そりゃア、しませんわ」
「なら、私がきょう書いたようなことで、後輩や部下から笑われないでください。御自分だけではなく、御自分の亭主まで……その努力も内助の功でしょう」
「…………」
「おわかりかの。小生に言いこめられて黙るような反発なら、口に出さんほうがよろし。要するにあんたより、こっちのほうが頭がいいんだから」
「まあ憎らしい、だから遠藤さんて大嫌い」
「女が嫌いという時は、好きというのと同じだア」