痴漢の季節になりました。
満員電車で通勤や通学なされるお方は、きっと一度はヘンな男にやられたでしょう。あれはどんなことをするんですか。お尻なんかをさわるのですか。正直な話、私は幸いにも通勤電車にのる仕事ではないので、いったい、どういうもんかワカらない。
一度、見てみたいと思っていますが。
「先輩、睨《にら》みつけられました」
ある日、後輩のK君が蒼白《そうはく》な顔をしてぼくの家にやってきた。
「若い娘にキッと睨みつけられました。侮辱《ぶじよく》です。電車のなかで」
「なぜです」
「実は……押しあいへしあいでしょ。別に触れるとか、さわるって意志はこちらになかったんです。うしろから雪崩《なだれ》のように押しこんでくる。こっちは自然の成行ですよ。前の娘さんに体がピッタリくっついちゃったんです」
「本当か」
「本当です。アラーの神に誓っても本当です。ところが口惜しいじゃないですか。その娘の野郎、豆腐を下駄で蹴飛ばしたような顔をしてやがるくせに、人をグッと睨《にら》みつけて、何と言ったと思います」
「何と言ったかワカらん」
「ヘンなこと、やめてください! そう言ったんだ。周《まわ》りの連中がみんな、ぼくをふりかえったですよ」
「君は痴漢に思われたんだね」
「そうなんです、先輩。ぼくの先祖は菅原道真ですよ。東風《こち》吹かば匂《にほ》ひおこせよ梅の花、主《あるじ》なしとて春な忘れそ。知っとりますか」
「知っとる。知っとる」
「その菅原道真の子孫であるぼくが痴漢であるはずはないじゃありませんか。それだけじゃない。その娘は、途中でスカシ屁を自分が洩らしたくせに知らん顔しているんです。すると周りの人がまたぼくの顔をじっと見るんです。あたかもそのスカシ屁の発源体がぼくであるかのように……」
「君は断じてそのスカシ屁をしなかったんだね」
「先輩。ぼくは道真の子孫です。道真の子孫は車中でそんな失敬なことは断じてしない」
後輩の話を聞きながら、私は、女というものを痛切に考えた。女のウヌボレの形態を。女の身勝手な狡さを。第一に、もし彼女が「豆腐を下駄で蹴飛ばしたような顔をしていた女」でなく、美人であったならば、どんな混んだ車中でも、本当にヘンな気持で体に触れてくる男と、わが後輩のように不可抗力でお尻に手のふれた男の区別ぐらいチャアンとつくものである。それは彼女が美人であるため「さわられつけている」ためでもあるが、それより女独特の直観がこの時、必ずや働くからである。
したがって、この後輩をキッと睨んだ女性は、平生《へいぜい》から痴漢にさえも敬遠される醜女であるか、あるいは醜女ゆえに「男から車中でサワられたい。サワられたということを皆に知ってもらいたい」という無意識的な願望が働き、かくて、
「ヘンなこと、しないでください」
わがK君に無実の罪をなすりつけたのであろう。
私は、つい最近のことであるが、一人のガール・フレンドにせがまれて、某劇団の某男優Hのところにつれていったことがある。
つれていったといっても、折あしく、その時Hは芝居の楽屋にいたから、彼女は右往左往する関係者のなかにまじって、すこし、ポツンと一人ぽっちであった。それをみたHは、心やさしい男だからサービスの意味をふくめて、彼女に何かと話しかけたのである。
ところがその帰りに、
「どうだい、H君に会えて嬉しかったろう。H君も君にいろいろと話しかけていたようだね」
と言った私にたいし、彼女の返事がふるっている。
「ええ。Hさんのようにトリマキの女性から平生ワイワイ騒がれる人は、あたしのように会っても知らん顔をしている女には好奇心が起きるらしいのね。向うから積極的に話しかけてくるので……困りましたわ」
「へえ……」
私は、こういう発想法も世の中にはあるのかナと、しばし驚嘆して彼女の顔をみつめたが、向うさんは大マジメである。
「君、それ、本気かいな」
「ええ、そうですワ。どうしてですの」
「君、本当にH君が、君に好奇心を起したと思っているの?」
そこまで言いかけて、さすがの私もグッとこらえた。おかしさがクックッとノドもとにこみあげ、
「ああ、世はのどかなり。のどかなり」
思わず、口のなかでそうつぶやいた次第であった。
ウヌボレる背景
つらつらに思うに、カサッカキ(梅毒)と女のウヌボレだけは、たとえ月世界に我々がいけるようになっても、絶対になくならないであろう。どんなブス(醜女)でも入浴のあと自分の顔を見てまんざらでもないと思い、決して自分は世にも醜悪な顔だとは考えないらしい。なぜなら、女性は現実を自分の都合のよいようにしか見ないからである。
こういうウヌボレを私は、決して非難しているのではない。だいいち、男にもウヌボレがあるし、女だけを責めるわけにはいかんからである。
しかし男は、そのウヌボレを時おり、反省する自意識というやつをもっている。なぜなら、
「課長。課長は実に美男子ですなあ」
「そうかね。それほどでもないだろう」
「いや、美男子です。社内の女の子がみなそう言うとります」
「クダラんことだ」
「いや、課長は横顔が加山雄三にそっくりだって」
「ふうん」
「尾上菊之助にも似ているって。それに口もとのあたりは昔のゲーリー・クーパーみたいだという評もあります」
このあたりまでほめてくると、だいたいの男はだんだんイヤな顔をしはじめ(オレはバカにされているな)と考えはじめる。しかし女性の場合は、決してそういう自意識は働かない。
「サチ子ちゃん、サチ子ちゃんは実にきれいだね」
「あら。お世辞うまいこと。奢《おご》らないわよ。自分で自分、よく知ってますからネッ」
「いや美女だよ。社内の男性みなそう言っている」
「奢らないわよ、絶対に」
「お世辞じゃないよ、君はエリザベス・テーラーみたいな眼をしてるって言ってるよ」
「まア。ほんとかしら。からかわないで。でもそんなこと、ときどき言う人もあるわね」
「倍賞千恵子的な顔だと言うヤツもいるぜ」
「自分ではそう思わないけど……そうなのかしら」
「そうだとも。それに口もとのあたりは昔のノーマー・シャラーにそっくりだって部長もほめていたぜ」
「フ、フ、フ、フ。あの部長さんて、あたし、いい方だと前から思っているの」
「ぼくは君をミス・日本に出したいくらいだよ」
「あたし、もしそうなったら、あなたに奢ってあげるわよ。ほんとよ」
(こきやがれ。この下駄でひっくりかえした豆腐娘めえ!)
いや、御無礼をば、いたしました。