さてこうした男性と、女性とが結婚する。ここから、夫婦の間には目にみえぬ心理のずれが起るのではないかと、ぼくはいつも考えているのです。
なぜか。
まず、結婚したばかりの夫婦を考えてみましょう。
女性の方は、さきほど例にひいたO君の奥さんのように、愛する男のために妻になります。いや、心理的にも肉体的にも彼女は自分が彼の「妻」だという気持で生きているわけです。ところが、のろまな男性とくると、なかなか自分が「夫」になったという実感が起きません。なるほど会社から戻ってくると、自分の女房になった女性が部屋も道具もみな奇麗にしてくれて、晩御飯をつくって待っていてくれる。なるほど自分が亭主になったのだということはわかる。わかるが「夫」ということが自分の生活のすべてになっているかと言うと、どうもアヤしい。自信は全くない。これが普通の男性の偽らぬ心理ではないでしょうか。彼は「妻」になりきっている自分の配偶者を多少とも劣等感をいだきながら眺めるのです。
この時、彼は無意識のうちに自分も早く夫にならねばイカンと考えます。あるいは、妻のなにげない眼差《まなざ》しがそれを要求しているように思うのです。
「夫」「夫」「夫」彼はこの夫という文字に背伸びを毎日してみます。エヘンと咳《せき》ばらいをして威張ってみせたり、夫らしく世間一般のことに講釈をしてみせたり、だが心中では、本当は夫にまだ成長していない自分をしっているのです。
すると彼はなぜか自分がもと[#「もと」に傍点]あったもの——「男」に郷愁をいだくわけです。夫でもパパでもない一人の男、男の生活——それは普通、独身者の気やすさなどと言われていますが、決してそれだけではない。夫とか、パパとかいう一つのワクにはめられない、伸々《のびのび》とした男——に戻りたいという気持に時々かられるのです。
さきほどお話したT君が、結婚後、半年にして会社から真直ぐ、家に戻らず一人で晩飯をくい、一人でブラブラと夜の新宿の歩道を歩き、なにかから解放されたような気分になったのも、これでおわかりと思います。彼はこの時、「夫」ではなく、独身時代と同じように自由な「男」だったからです。少なくとも二時間なら二時間、三時間なら三時間は、この男としての悦びを味わえたからなのです。彼は決して妻をキラっているのでもありません。いや、むしろ愛しているのです。しかし、愛していることと、この「男」に戻りたいという感情とは別のものなのです。
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さあ、これでT君だけではなくK君の悩みも、女性のみなさまにはわかって頂けたと思います。女房が別に嫌いなわけじゃない。まして別居したいとは夢々、考えてもいない。しかし、妻との生活がお正月のお餅がお腹に溜っているような気分に時々なるのは、彼が「夫」や「パパ」にまだなかなかなれないのに、妻がいち早く「母」になり「主婦」になっているからです。彼はそういう妻になにか無意識の劣等感を感じるのです。これが一種、圧迫されているような気持、いわゆる恐妻心理の根本原因ともなるわけです。
この夫婦の心理的なちがいは、案外、ぼくらの間でも気づかれてはいません。多くの身の上相談をみると、ぼくはいつもそのことを感じるのです。
ぼくのような者のところにも時々、御主人にたいする不満を述べて相談にこられる奥さまがいます。
「うちの主人は夜遊びが多いのです。いくら言っても会社のかえり、バーに行って酒をのむのですね。別にバーの女と浮気をしているわけではないのですが、家庭経済の上から言って困りますわ」
こういう悩みをもたれている奥さんは案外多いことでしょう。もちろん、ぼくは家庭に待っていられる奥さんや子供を放ったらかしにして、飲み屋やバーを歩きまわる御亭主の味方をするわけではありません。しかし、彼を家に引きもどすためには、その心理的原因をさぐり、その後、治療する必要がある筈です。
もし御主人がバーに通いすぎるなら、それは、彼が奥さんの中に「女」をみつけられないからです。奥さんがあまりよい「主婦」であり、子供のよい「母親」でありすぎるからなのです。彼は自分の妻のなかに、よい「主婦」でもない、「母」でもない一人の女を時々はみつけたいのです。あるいは、彼が自分の「夫」や「パパ」というワクからぬけだして、「男」に一時間でも戻りたいからなのです。
もちろん、これは男性の我儘だと言えぬことはありません。しかし、こうした夫を家庭に引き戻すのに一番よい方法は、たんに怒ったり、責めたりするのではなく、彼の妻が、彼のために「主婦」でもなく、子供の「母親」でもなく、「女」に戻ってやることがいいのです。その時、彼は妻にたいして圧迫感を感ずることが少なくなり、久しぶりで家の中でさえも男としてふるまえるからなのです。「女」に戻ることは何でもないことです。それは、あなたが一日のうち二時間だけでいい、娘時代になった気持で彼のためだけに化粧し、彼の話を(たとえそれがロクでもない愚痴にせよ)ウンウンと熱心にきいているふりをしてやり、その二時間の間は決して「ボーナスは何時なの」とか、「お中元の代が高くかかるのよ」などという主婦的な話や、「坊やの学校の成績がわるいの」等の母親的会話をしないだけで結構なのであります。
夫というものは、妻にくらべて自分がまず「男」であり、「夫」や「パパ」に素早くなりきれぬことに途方にくれています。あるいは、妻から生活のすべてが「夫」であり「パパ」であることを要求される時、ひそかに不安を感じるものなのです。
この悩みはT君やO君のような形であらわれたり、飲み屋通いにもあらわれるわけです。仕様のない動物だと言ってしまえばそれまでですが、本当に困ったものは男です。しかし、こうした男の夫としてのひそかな悩みを、世の中の沢山の奥さんが知っていられるのと、いられないのでは、二人の結婚生活もまたグンとちがってくると思われます。