早いもんだ。この間までまだ子どもだ、子どもだと思っていた君が、結婚式をあげたのがつい一年前だと思ったら、もうママになるというのだから。
とにかく、おめでとう。これで、ぼくもやがては伯父貴《おじき》になれるわけか。先日、君のご亭主がぼくの所に会社の帰りに寄ってくれて、いともご満足だった。そこで生まれてくるわが甥《おい》(姪《めい》)のために祝杯をあげようと思ったが、君のご亭主は、それどころではないという表情をして、そそくさと帰っていった。よほどあいつは君のことがコワイのか、心配なのかね。
ところでやがて子を持つ君のために、ぼくは二、三、愚見をのべたい。これは今こそ気づかないだろうが、やがて君の亭主がきっと感ずるようなことだから、ぼくの意見だけとは思わず、世のすべての亭主の感想だと考えられたい。耳の穴ほじくって、よく聞かれよ。
やがて君は子どもをもつ。そのとき、注意せねばならぬことは、まず、他人の前で子ども自慢のママになるなということだ。
世の中の大半の妻は、自分の子どもで頭がいっぱいだ。時によると彼女の関心の八十パーセントはわが子にむけられ、あとの二十パーセントだけが夫にふりむけられていることもある。夫が腹痛起こしても、「戸棚の中にいつか買った薬があるわよ」と言うだけの妻も、わが子が病気になるとビックリ仰天、一目散に医者に駆けていく。そのうしろ姿を夫はうらめしげに見ているだけだ。もし彼がこの点について妻に不平を言おうものなら、何と言われるか、よく知っているからだ。彼女は頬にうす笑いをうかべて、
「あなた、子どもにヤキモチやくの」
そういう考え方をするのが一般の妻というものです。
さて話が少し横道にそれたが、かように子どものことで頭がいっぱいの妻というものは他人がわが子をホメてくれれば、それをすぐ本気にしてニコニコとする。だから他人の家に行って話題がないときは、そこの子供のことをホメるのがいちばんいいと言った化粧品のセールスマンがいた。
人からホメられれば喜ぶだけではない。えてして妻というものは、だれの前でもすぐわが子のことを話題にだしたがるものだ。
「お元気そうですなあ。お宅の坊っちゃんは」
お客が、「こんにちは」とか「よいお天気で」ぐらいの意味でこういう挨拶をすると、もう、それにひっかかって、
「ええ。食欲がずいぶんありまして、毎日、牛乳を三本も飲むんですの。それに何かといえばお腹《なか》がすいたと言いますでしょ。栄養だけは気をつけているんです。学校でも体重だけはいちばんですって。
近所の子と角力《すもう》とっても負けませんのよ。昨日も二年上のご近所の坊っちゃんと角力をとりましてね、それに勝つんですから。お友だちにはリキドウザンと言われてるんですの。ねえ、そうでしょう、お前。こちらに来て、おじさまに腕角力していただきなさい。パパだってかなわんなんて言うんですの。おじさまにも負けないかもしれないわよ。やってごらんなさい。やってごらんよ」
ベラベラ、ベラベラ、わが子自慢をはじめる。うっかり、口をすべらしたため、腕角力をさせられる客こそ、いい面《つら》の皮です。
子ども自慢はある程度ほほえましいが、わが子にしか関心がないことをムキだしにする母親は決して美しいものではない。第一に彼女は感受性が鈍いということを他人に印象づける。
なぜなら、自分の子はだれだってかわいいが、他人にはただの子どもにしかすぎぬことを彼女はわかっていないからだ。これはやはり鈍感と言わねばなるまい。
子どもにしか関心がないのは母親として当たり前だろうが、しかし、時にはそれを抑制して他人には示さぬことを、君はやがて学んでほしい。
まもなく君はママになる。そして君の頭は、朝から夜まで君の赤ん坊のことでいっぱいだ。ホラ、笑った。ホラ、クシャミをした。他人から見ればアホくさいそんなことも、君には世の中の何よりも意味があり、価値があるように思えてくるだろう。
しかしそれを他人にまで無意識[#「無意識」に傍点]に強要するな。自分の子どものことしか話題をもたぬ母は、チェホフの「可愛い女」かもしれぬ。しかしこの「可愛い」という形容詞の裏には、愚鈍という意味もふくまれていることを忘れたもうな。
そういう女は、やがて夫にもあきられてくる。夫の友人たちからもアクビのでるほど退屈な奥さんだと思われるようになる。それはやがて夫の社会生活にも影響してくるだろう。
おわかりか。断わっておくが、君も知っての通りぼくは子どもが大好きだ。
人の子供をみるのも好きだし、遊んでやるのも好きだ。子ども好きのぼくが今の意見をのべるのだから間違いはないと思ってくれ。では、毎日、体に気をつけて、亭主にむだな気づかいをさせるなよ。