いよいよ結論らしいものを述べねばならなくなりました。私はさきにあなたたちも本当は姦通に憧れていると書きましたが、その理由はほぼおわかりになって頂けたと思う。それは言いかえれば人間の心には姦通——つまり≪情熱≫のはげしい表現を求める衝動がいつもひそんでいるからです。あなたたちは映画のスクリーンで燃えるような男女の恋愛をごらんになる。自分も一度はああいう恋愛をしてみたいとお考えになる。
だが、スクリーンでも小説でも≪情熱≫はかきますが、本当の≪愛≫の生活については語ることはまれです。カンナンシンク、「すれちがい」の末、やっとめぐりあった『君の名は』の春樹と真知子とが結婚して、どうなったかを菊田一夫先生は決して語ってくれません。あの二人はその情熱を持続させやすい恰好の境遇をもっていました。苦しみ、会えぬこと、嫉妬、周囲の圧迫、そういうものがあればあるほど彼等の執着は増すのが当然で、当人たちがその情熱を持続させるのに、それほど困難ではなかったことを、もう皆さまはおわかりでしょう。
だが彼等が結婚してしまえばどうなるか。彼等にはもう障碍《しようがい》も困難もありません。朝から晩まで顔をつきあわせていねばならぬ。軒先には春樹のステテコがほしてあるでしょうし、真知子がお便所にいく姿も春樹は見るでしょう。すべての夫婦と同じく彼等の≪情熱≫は色あせ、すべての夫婦と同じく彼等にも倦怠期がおそうでありましょう。賢明な菊田一夫先生は「安定は情熱を殺す」ことを知っていられますから、二人が安定した以後のことは書かれないのです。
だが≪情熱≫がほろびた後に、≪愛≫がはじまります。ステテコがほしてあろうが、お便所にいこうが、毎日顔を合わせていようが、——つまり≪情熱≫の終った砂漠から夫婦の≪愛≫ははじまらねばならぬことは誰でも知っているはずです。
≪情熱≫と≪愛≫とはどうちがうか。哲学的な言葉で言えば≪情熱≫は「状態」ですが、「行為」ではありません。たとえばわれわれはミジメなもの、気の毒な人をみれば本能的に憐憫の情を起します。だがこの憐憫の情は決して≪愛≫ではない。それと同じように、情熱も年頃の娘と年頃の男とがめぐりあえば本能的に起る感情です。あなただってできるし、かく申す私だってできる。別にそこには努力も忍耐も必要としません。
だが≪愛≫はちがう。愛は一歩一歩、夫婦や一組の男女が同じ運命、同じ悦び、同じ人生の苦悩をわかちあいながら一日、一日、めだたぬ努力と忍耐とによって創っていく行為なのです。倦怠はどんな夫婦にも訪れる。なぜなら夫婦の間には≪情熱≫が存在しないからです。倦怠がおそった時、それを賢明な知恵や、時には子供というゴマカシにさえたよって乗りこえるのが≪愛≫という行為です。
私がこんな身のほどでもない、むつかしい理屈をのべたのは、多くの人妻がこの≪愛≫と≪情熱≫とをともすれば混同しているからです。映画やテレビではしびれるような情熱世界しかくりひろげませぬ。それはたんに不安や嫉妬によってかきたてられるものなのですが、多くの人妻はそのしびれるような情熱が愛だと思っている。ステテコがほしてあり、メザシの臭いのただよう生活にこの≪情熱≫が全く失せたことを≪愛≫が欠乏したと錯誤している。でなければなぜ、姦通のメロドラマが彼女たちの多くにとっては欲求不満をみたす役割をしているのでしょう。
現代の夫婦にとって必要なものはこの≪情熱≫と≪愛≫とを秩序ある見かたによって区別することから始まると言えるようです。