一九二〇年代はじめ、石油掘削機メーカーの経営者だった父親の突然の死によって、一八歳で実業界にデビュー、アメリカ有数の大富豪にのしあがったハワード・ロバート・ヒューズは、よき時代のアメリカを象徴する伝説的な経営者といわれている。
父親の遺産を自分の意のままに使い、映画制作、航空機製造に乗り出し、二〇代の若さで〈ヒューズ帝国〉の基盤をつくり、巨万の富と名声を勝ち取ったハワード・ヒューズと対比しながら、井深大の人間像を書いてみようと思ったのは、育った年代が同じ(生年は三年違い)でもあり、生活環境の面からも二人の人間形成に共通点が多いことに気づいたからである。それを理解してもらうために、まずヒューズの人となりを簡単に紹介しておこう。
ハワード・R・ヒューズは、一九〇五年一二月、テキサス州の州都ヒューストンで生まれた。母親は元南部連邦の将軍の孫にあたるフランス系の黒い瞳をもった美人で、どちらかというと、おっとりしたタイプの人だったといわれている。
父親のビック・ハワードは、ハーバード大学法科の出身だが、卒業後は法律関係の仕事には見向きもせず、もっぱら、折からの石油発掘ブームのなかを上手に立ち回る山師のような生活をしていた。それだけに浮き沈みは激しかったが、結婚した頃は、石油の埋蔵が確かになった土地の使用権売買で大儲けし、花嫁と五万ドルを両手にヨーロッパにハネムーンに出かけたほどであった。
数ヵ月後、帰国したときは五万ドルの持ち金はあらかた使いはたし、無一文になっていた。つまり〈宵越しの銭はもたない〉と、粋がって見せる江戸っ子など足許におよばぬ気宇壮大な人だったというわけだ。
そんな夫婦の一粒種として生まれたのがハワード・ヒューズである。両親や親族は彼をサニー(SONNY)とか、ジュニアと呼んで可愛がった。幼年期は口数の少ない、淋しがり屋だったという。サニーを溺愛していた父親が、仕事に追われ家をあけることが多かったせいであろう。
そのサニーが機械のたぐいに関心を示したのは三歳のとき、父親がたまたま買い与えたボックス型カメラがきっかけだったといわれている。以来、サニーは、玩具や身の回りの機械に興味をもちはじめる。そして朝から晩まであきることなくいじくり回していた。そんなサニーを見た母親は「この子は、小犬を見ても、機械の一種と思っているのでは……」と、笑ったという。
その頃、父親のビック・ハワードは、共同経営者と手を組んではじめた石油掘削用の特殊ドリルの開発に成功、ヒューストン東部の二八万平方メートルの土地に工場を新設するまでになっていた。そして市一番の高級住宅街に家を買い求め、移った。ビック・ハワードは自宅の裏手に小さな作業場をつくった。機械や工具の試作用の建物である。
機械への関心の度合いが高くなったサニーにとって、この作業場は、またとない遊び場になった。不要になった金属の切れ端や、ありあわせのワイヤーなどを使って、創造力を働かせ、得体の知れない品物をつくっては、一人で悦に入っていた。
ビック・ハワードは、別段、それをとがめだてしなかった。ただ作業場を汚したり、散らかすと、一週間、作業場に入れないと噛んで含めるようにたしなめただけであった。幼いサニーもその約束をちゃんと守った。
やがてサニーは幼稚園・小学校を経て、地元の公立中学校に入学する。しかし、好きな科目は算数ぐらいで、他の学科にはあまり興味を示さなかった。その代わり作業場に閉じこもる時間は、年を追うごとに多くなり、つくりだす品物も次第に子供っぽさの段階を越えるようになっていった。
たとえば、ハム(アマチュア無線家)用の装置を組み立て、夜中にメキシコ湾を航行する貨物船の通信士と交信したり、無断で父親の車からセルフ・スターター付きのモーターをはずし自分の自転車に取りつけ、モーターサイクルをつくって市中を猛スピードで走り回るという奔放ぶりを発揮する。それを知ったビック・ハワードは、叱るどころか、目を細めて喜んだ。若い頃山歩きにあけくれた男に、またとない後継者ができたと思ったのかもしれない。
だが、後継者にするには高度な知識を身につけさせなければと、ビック・ハワードは思った。そこでサニーをマサチューセッツ州ニュートンにある名門中学に転校させた。ここからハーバード大学に進学させることが一番望ましいと考えたのだ。
しかし、ビック・ハワードの夢は実現しなかった。サニーがハーバードに進学することを嫌がったからだ。失望したビック・ハワードは、サニーをカリフォルニア州の私立高校に転校させた。その直後、母親のヒューズ夫人があっけなく死んだ。サニーが一六歳になった年であった。以来、サニーはおしゃれで、金使いの荒い男親のもとで青春期を送ることになる。そしてテキサスきっての有名人になったビック・ハワードの生き様を通して、富は人間の気まぐれ心を満足させる手段であることを身をもって知った。
内気で、ひどく無感動な性格と、妙な頑固さと反抗心をあわせもったハワード・ヒューズの不思議なこの性格は、この時代から徐々に顕在化しはじめたといっていい。周囲の人がそれに気づいたのは、二年後の一九二四年一月、父親のビック・ハワードが心臓発作で、突然死んでからであった。