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創造の人生01

时间: 2020-10-28    进入日语论坛
核心提示:まえがき「ソニー」の創設者、井深大(まさる)名誉会長。当年八一歳。いまは経営の第一線から退いたが、ソニーの象徴として相変
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 まえがき
 
「ソニー」の創設者、井深大(まさる)名誉会長。当年八一歳。いまは経営の第一線から退いたが、ソニーの象徴として相変わらず多忙な日々を送っている。その他ライフワークとなった幼児教育、社会福祉事業、発明協会、鉄道技術研究所の会長といった公職、関係団体の役員など、多彩な活動を続け、席を暖める暇もないほどという。
 その井深は、日本のエレクトロニクス産業を世界のトップの位置にまで発展させるきっかけをつくった偉大な事業家であった。昭和五十三(一九七八)年四月、勲一等瑞宝章、および同六十一(一九八六)年四月、勲一等旭日大綬章の受章は日本国が井深の業績を高く評価した結果であった。
 しかし、そこにいたるまでの井深の業績や実像を知る人はソニーの社内においてさえ、だんだん少なくなっている。若い世代が企業の主流になり、日本のエレクトロニクスの揺籃期の物語は、遠い過去のものとして風化しそうな気配さえ見える。このままでいいのだろうか。
 今日の日本のエレクトロニクス産業を支えている半導体や磁気記録の先端技術は井深を中心とするソニーの技術陣が開発した技術蓄積があってはじめて実ったものである。そういう意味でも、世界に先駆けて、テープレコーダやトランジスタ関連商品などをわれわれの身近なものにしてくれた井深の独特の発想法と事業展開のあとを振り返ってみたい。数少ない明治生まれの技術者が、日本の独創技術開発に賭けた執念がどんなものであったか、わかるからだ。
 好奇心は旺盛で、わがままで意地っ張り、せっかち、人使いが荒い、平気で部下に過酷な要求をする、苦労して技術の壁を突破しても褒めようとせず、関心は次の目標に向かっており、以前の成果については興味を示さない。
 これは、筆者が週刊誌の記者時代からソニーの取材を通して聞いたソニー社内の井深評の一端である。それでいて、誰一人、井深のやり方に不平を漏らすものはいない。常識を越えたものの考え方で、常に部下を刺激する。その強烈なリーダーシップが人を惹きつけ、誰もが一緒に仕事をしたがる雰囲気をつくりだす。「井深さんの夢を、みんなで実現しよう」というムードが自然に生まれた。
「世間じゃ、私に先見の明があったからとか、技術がわかっているからというが、それは間違っています。うちが他社に先んじてテープレコーダやトランジスタラジオを手がけたのも、日常、便利な商品をつくってみたい一心でやる気になった。しかし、技術的な知識は何もない。だから、みんな、がむしゃらに取り組んだわけです。それが、結果的によかった。怖さをしらなかったから思いきってやれたんですね」
 と、井深はいう。新製品の開発にあたっては物理、化学、電気、機械出身の若手技術者からなる少人数のプロジェクトチームを編成、挑戦を開始した。創業間もないベンチャー企業の製品開発は、こうしたやり方がいちばん手っ取り早いと井深は考えたのだ。プロジェクトチームによる製品開発は、いまではどこの企業でも採用しているが、タテ割り組織を大事にしていた当時の企業社会ではたいへん目新しいケースであった。
 こうした一連の開発のチャレンジのなかで、井深が誇りに思っているのは、シリコンを民生用トランジスタに使う道を切り開いたことである。井深が技術部長の岩間和夫(もと社長)に開発を指示したのは昭和三十二(一九五七)年秋のこと。その頃、シリコントランジスタはアメリカで、軍事、宇宙開発関連で試験的に使われていたにすぎない。高純度のシリコン単結晶の製法がむずかしいからだ。それだけに、シリコンでトランジスタをつくり、それをテレビ用に使おうなどと考えた技術者はアメリカにおいてさえ、ただ一人もいなかった。
 にもかかわらず井深はあえてシリコン単結晶づくりへの挑戦を命じた。テレビをトランジスタ化するためにどうしても必要だったからである。資本力のある大企業ならいざしらず、当時のソニーは、トランジスタラジオであてたとはいえ、資本金三億円、従業員一二〇〇名足らずの中小企業でしかない。そんな弱小企業が、世界中の技術者が考えもしなかった困難な仕事に挑戦を試みた。こうした積極的な“開拓者精神”が、今日のソニーを築く原動力になったことはいうまでもあるまい。
 こうした井深の大胆な挑戦の陰には、井深の心情をよく知った盛田昭夫(会長)のバックアップがあった。ソニーの井深・盛田のコンビは、日本では例を見ない特異な存在だ。技術屋出身の経営者は大成しないという妙な偏見が日本の産業界にあるが、井深も盛田もともに技術屋である。それに関連して井深はこんな話をする。
「一〇年ほど前から技術屋経営者がもてはやされているが、こんな現象は日本だけじゃないかな。文科系とか理科系とか区分して人を見ているが、これはいけない。もっとも悪いのは役所ですよ。むかし役所では技術出身の人は絶対に局長にしなかった。確か逓信省の梶井剛(のち初代電電公社総裁)さんが、局長に登用された最初のケースだったと思うが、あれも特殊事情があったからなんです。そういうふうに技術屋は、何か別の人種のように見られていた。極端かもしれないが、むかし、高等学校で、文科にいくか理科にいくかでその人の運命が決まってしまう、そんな風習があった。これがそもそも間違いのもとなんですね」
 これも、教育に哲学がなかったからだと井深はいいきる。明治以来、日本の教育は欧米先進国とのギャップを取り戻そうと、物質文明の知識を教えることに重点をおき、精神面の指導を怠った。これがいけなかったという。ただ、明治、大正時代、高等学校の寮では、寮生が自主的に哲学を論ずる風習があった。それが当時の学生の人間形成に大きく役立っていたことは確かである。
 ところが、戦後は、占領軍の指導もあって、こうした習慣はまったく失われ、分科化の傾向が強くなった。経営者は技術のことなど知らんでもいい、技術屋はソロバン勘定などしなくていいという誤った風潮が定着したのもそのためであった。
 井深はそうした世の中の流れに逆らって、独自の経営路線を考え出した。同業他社が目をつけない分野で新しい技術をつくりだす。それが固有技術の創造につながり、日本の技術復興の原動力になると思ったのだ。その反骨精神に似た経営理念はいかにして生まれたのか。その辺を、井深の人間形成の跡を追いながら、拾い出してみよう。これからの技術者のあるべき姿の一つの指針になると思うからである。
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