「よし、無線電信に挑戦してみよう……」
井深はそう思った。しかし、当時、日本の無線技術は揺籃の時代で、専門書や参考文献も少なかった。井深は定期購読をしている科学雑誌を頼りに独学で勉強をはじめた。関東地方に大地震が発生したのは、その直後の大正十二年九月一日、正午少し前のことであった。
「そのとき横浜沖に停泊していた〈これあ丸〉という貨物船から、壊滅した東京の状況を無線で知らせてきた。それが翌朝の地元新聞に大きく出たんです。あれにはびっくりした。同時に無線というのは、すごい威力があるものだなと、すっかり感心し、ますますのめり込んじゃうんです」
と、井深は当時を振り返る。
趣味とはいえ、無線電信機をつくるには金がかかる。いまと違って、その頃は、アマチュア向けの無線機器は手に入れにくかった。そこで以前から出入りし、顔馴染みになった日本無線(株)神戸出張所のサービスマンを通して、必要な機器を分けてもらうことにした。その費用は母が出してくれた。亡父が残してくれた貯えがあったからである。真空管を買うときは母に頼らず、自分のこづかいを貯めて買った。値段は一本一〇円を超えていた。それを三本もである。当時、大学卒の初任給が四〇円前後だったから、いかに高価な買い物だったかがわかるだろう。
そんな思いをして買った真空管を、井深は「宝物でも扱うように、大事にワタでくるみ、胸をはずませて持ち帰った」という。真空管をセットする前に、すでに組立て済みの手づくりの受信機の配線の具合を入念にチェックした。もし配線が間違っていれば、高価な真空管は瞬時のうちに使いものにならなくなってしまう。それを心配したのだ。
配線ミスのないことを確認した井深は、神に祈るような気持ちで受信機のスイッチを入れた。フィラメントが熱してくると真空管は、まるで電球のように輝きはじめ、部屋のなかが明るくなった。受信機からブーンという雑音が聞こえてくる。バリコンをゆっくり回し同調をとると、かすかな音声が聞こえてきた。
「できた! ……」
井深は、思わず手をたたいて喜んだ。ドンブリをスピーカー代わりに使っていたが、それに耳をあて夢中になって音声を聞いた。その夜は遅くまで受信機をいじり回し、ろくに寝なかったという。
この手づくりの受信機には泣きどころがあった。電源が蓄電池だったことである。電池の寿命はせいぜい七、八時間。本当は専用の充電器がほしいのだが、高すぎてそこまで手が回りかねた。そこで電池がなくなると、重い蓄電池を町までもって行き充電してもらう。井深はそれを苦に思わなかった。
彼の〈無線熱〉が、思わぬことから町の評判になった。そのきっかけは選挙速報を受信したことであった。大正十四年、大阪の朝日新聞社は総選挙の結果を報ずるため、出力二五〇ワットでラジオの試験放送を実施した。当時、一般の国民が選挙結果を知るのは、新聞販売店に貼り出される速報が一番手っ取り早い方法といわれていた。だが、肝心の情報は地方支局から大阪本社を経由して届くだけにどうしても遅れがちになる。ところが、井深は、その実験放送を手づくりの受信機でキャッチし、結果を近所の人にそれとなく教えてやった。これが評判になり、養父の家の周りに人だかりができた。
そんなことが井深の〈無線熱〉を、よりいっそうかきたてた。こんどは、三月に東京芝浦で実験放送をはじめたばかりの東京放送(のち日本放送協会、NHK)の電波を捉えることに的をしぼることにした。だがそのためにはアンテナがいる。ところが、当時、一般の人が勝手にアンテナを張り、無線を傍受することは、認められていなかった。それを承知で挑戦しようとしたのである。
思いたつとジッとしていられないのが、井深のもって生まれた性格である。さっそく、行動を起こした。まず自宅の屋根に何度ものぼり、どう配線すればよいか、慎重に構想を練った。数日後には外から絶対に見えないようにアンテナを張り終えてしまった。
この前後、井深は無線が取りもつ縁で貴重な友人を何人も知った。谷川譲(のち山下汽船取締役)、笠原功一(のちソニー常務)、梶井謙一(のち日本アマチュア無線連盟会長)、星野〓(のち東工大教授)、草間貫一(のち大阪朝日放送常務)など、いずれもアマチュア無線の草分けといわれる人たちであった。この人たちとのつながりが、のちの井深の人脈形成に大きく貢献するのである。
しかし、その無線通信技術で隠された才能の発掘に成功した反面、困った問題も起きた。無線に熱中しすぎ勉強がおろそかになり、成績がガタッと落ちたことである。同級生は四年で高等学校を受験し、どんどん合格するのに、井深は受験に挑戦するだけの自信がなかった。これにはさすがの井深もこたえたとみえ、無線機いじりをぴたっとやめてしまった。そして五年の新学期から遅れを取り戻そうと、猛烈に勉強をはじめた。その努力が実り成績は確かに上がった。そこで官(国)立の浦和高校(現埼玉大)と、北大予科の二校を選び挑戦したが、両方共不合格になった。身体検査で色盲の気があることがわかり、はねられたらしい。その頃の官(国)公立大学は、そんな些細な欠点を理由に合否を決めていたわけだ。
そこで井深は、早稲田の第一高等学院理科に入ることになった。早稲田を選んだのは、当時、日本の十大発明家の一人といわれた山本忠興教授が、理工学部長をしていたこと。山本教授の子息が井深と幼稚園が一緒で、遊び仲間でもあったことが理由であった。こうして井深は五年間住み馴れた母の許をはなれ、上京することになった。そして池袋の下宿屋に居を定めた。昭和二年春のことであった。