人生には常に運、不運がつきまとう。その場合、当事者がどう対処するかで局面も変わってくる。それを身をもって実証してみせた一人が井深である。第一志望の官(国)立高等学校の受験に失敗すると、一転して自由な学風で知られる早稲田を選んだ。それが井深自身の天性を活かすきっかけになったからである。
しかも、井深は、そこで思いがけない友人と会う。神戸一中時代、アマチュア無線を通して知り合った島茂雄(のちソニー専務)であった。島は国鉄生みの親ともいうべき島安二郎工博の次男で、兄は東海道新幹線建設の際、技術陣の総指揮をとった島秀雄(のち宇宙開発事業団理事長)技師長である。当時、島茂雄は早稲田第一高等学院理科の二年生、つまり、井深より一年先輩であった。その島が学内の掲示板に貼り出された新入学生名簿を見て、井深大の名前を発見した。
——もしかすると、ハム仲間の井深かな——
と、島は思った。お互いに無線を通じて交信した仲だが、顔は知らない。それだけに確信がもてなかったのだ。そこで島は一計を案じた。教室の黒板にメッセージを書き残しておくことだった。
「BBB de ISH、科学部のクラブルームで会おう」
BBBは井深、ISHは島のコールサインである。ハム仲間なら、これを見れば誰から誰へあてた通信か、すぐわかる。こうして二人は、科学部のクラブルームではじめて対面した。その頃の井深は丸顔で、まだ童顔が抜けきれなかった。そんな井深を見て島は「なんだ、こんな坊やだったのか」と、興ざめする思いがした。だがそれがとんでもない間違いだとすぐ気がついた。童顔に似合わず博識だし、思ったことをズバッといってのける。論旨がハッキリしている。島はそんな井深がいっぺんに好きになった。そして科学部に入ることをすすめた。
当時、大学、高等学校の数も多かったが、科学部というクラブをもった学校は、早稲田以外になかった。部長は井深が敬愛する理工学部の山本教授であった。島以外にも多彩な人材が名を連ねていた。
西山栄蔵(のちフジテレビ技術局長)、新川浩(のち海軍技術研究所技師、国際電電研究所長)などがその代表的な人びとである。
井深が持ち前の天性を発揮しはじめるのは、科学部に入ってからであった。よき師、よき同好の士に囲まれた学園生活が井深の好奇心を刺激したのかもしれない。以来、井深は学校の授業は二の次にして、もっぱら島と科学部の部屋で過ごすことが多くなった。幸い当時はエレクトロニクスの草創期、若い理科の学生にはやりたいことがいくらでもあった。島と二人で増幅器を組み立て、スピーカーを取り付け、レコードコンサートを開くとか、体育会の対抗試合に手づくりのアンプ、スピーカー、マイクロフォンをもちこみ、応援活動を積極的にするなど、学生に重宝がられた。
遊び半分のクラブ活動も、ときがたつにつれ本職顔負けの仕事をやってのけるようになる。昭和五年、井深が理工学部に進学したとき、島と共同で明治神宮外苑競技場の拡声装置一式を請け負ったのが、その最たるものだ。これは、その年、同競技場で開催される極東オリンピックに備えるためで、早大陸上競技部の世話役を兼ねていた山本教授の依頼でつくったものである。
また、山本が関係していた東京・富士見町(千代田区)の日本キリスト教会の鐘を電気仕掛けにして鐘の音が周辺に響き渡るようにしたのも、井深と島であった。
この時期、井深の人間形成を知るうえで、見落としてならない事件は、井深が同教会の信者になったことである。第一高等学院三年のとき、親類の人にすすめられたのがきっかけだった。この富士見町教会はつい最近(昭和六十二年)創設一〇〇周年を迎えた名門の教会で、信者にも有名人が多いことで知られている。恩師の山本もこの教会の古い信者で、長老的存在であった。前に触れた電気仕掛けの鐘も、その関係で山本に頼まれたものだ。
富士見町教会に通い出したことを契機に、井深は池袋の下宿屋を引き払い、大学構内の近くにあった友愛学舎(早大関係のキリスト教関係者の寄宿舎)に移った。そして日曜学校の先生をするなど、それなりの奉仕活動はしたが、必ずしも信仰心の篤い信者ではなかったようだ。つまり、キリスト教の説く世界観、人間観、人生観には共鳴したが、信仰そのものにのめりこむようなことはなかった。
しかし、友愛学舎での生活は井深の人生にとって、忘れ得ぬ思い出の一つになっている。たとえば、舎監をしていたベニンホフというアメリカ人宣教師の教導姿勢が手ぬるいといって、仲間と一緒に「信仰を本物にせよ」と、要求をつきつけるなど、反骨ぶりを発揮している。のちに一緒に仕事をするようになる小林恵吾(ライオン歯磨創業者の一族、のちコッス測定器社長)、迫田俊郎(のちソニー取締役)と出会い、人生論を論じ合ったのも、この宿舎であった。
よき師、よき友に恵まれた井深が、本格的に勉強に打ち込みはじめたのは、理工学部に進学してからである。彼は、当時電気工学の主流であった強電でなく、弱電の世界を選んだ。将来、学者として身をたてるより、好きな技術の道にすすんだほうが、自分の天性を活かせると思ったのだ。
主任教授の堤秀夫の指導でケルセル(光の強さを、音声の強さ、弱さに合わせてコントロールする技術)の研究に取り組んだ。この技術はのちに映画のトーキー用に使われるようになるのだがそれはまだ先の話になる。
井深が『ケルセルの光変調』の原理を応用してつくった成果の一つに「光電話」がある。これは理工学部三年の秋に発明したもので、実験は早稲田大学と牛込矢来町(新宿区)の新潮社屋上の間で行なわれた。このニュースがマスコミに取り上げられ、「学生発明家・井深」の存在は一躍有名になった。その直後のある日、実験室でネオン管に高周波電流を流していると、周波数が変わるごとに光の長さが伸縮することを偶然発見した。これに興味をもった井深は、現象の理論づけよりも、まず応用製品の開発を思い立った。そして光を自在に変調することのできるネオン装置をつくりあげることに成功する。
それまでネオンといえば、ただ明るく、光っているだけの代物だった。これに対し井深の発明したネオンは、まるで光が動いているように見える。そこで井深は、このネオンを「走るネオン」と名づけ、特許をとった。この装置はのちにPCL入社後、たまたま開催中のパリの博覧会に出展したところ、優秀発明として金賞を贈られた。新聞が「国際的栄誉に輝く、天才的発明家」と、派手に報じ、評判になったのはこのときであった。