東通工は、小さいながらも有能な人材を入れ、着々体制を固めていったが、肝心の事業のほうは苦難の連続だった。仕事はあるのだが、部品材料の入手難と運転資金の不足で需要に応えられないというのが実情であった。
井深や盛田たちが「新円がほしい」と、切実に思ったのはこの頃である。そのためには右から左に売れる商品をつくらねばと、井深たちはいろいろ考えた。その一つのアイデア商品が電熱マット(電気座布団)であった。これは細いニクロム線を二枚の美濃紙の間に入れて糊付けし、これを布で包むように覆う。カバーにする布は、繊維製品が統制で手に入らないため、神田の問屋街で、本の表紙などに使われていたレザークロスを大量に買い込み、社員の家族を動員して、ミシンかけやらコードをかがる下請け仕事をやってもらった。
しかし、現在のように豊富な原材料もなくサーモスタットさえも手に入れにくい時代だけに、製品には自信がもてなかった。そこで東通工の名を出さず「銀座ネッスル(熱する)商会」という社名をつけて売り出した。
ところが、皮肉なことにこれが思いのほか売れたのである。ちょうど冬場に向かう時期だったこと、燃料不足でどこの家も暖房対策に頭を悩ましていたなど、売れる条件が揃っていたのだ。だが井深たちは内心では薄氷を踏む思いをしていた。
「ご承知のようにあの頃は電圧がひどく不安定で、夕方には六〇ボルトぐらいに下がるかと思うと夜半になると急に一〇〇ボルト以上にはね上がり、なかのニクロム線が真っ赤になって、危なくてしょうがないんです。現にお客さんから〈毛布がこげた〉なんていう苦情がずいぶんきた。その後、昭和二十四年に国宝であった法隆寺の壁画が焼けるという事件があった。その原因が電気座布団の過熱と発表されたので、たいへん心配したが、あとで調べたらうちの製品じゃなかった。それでホッと胸をなでおろしたこともありました」
電熱マットと同じ頃つくっていた電蓄用のピックアップも結構商売になった。アメリカ軍の進駐以来、巷にジャズ愛好家が増え、死蔵されていた古い電蓄を引っ張り出し、レコードを聞きたいという人が増えたためである。売り出したピックアップの材料は、焼跡から拾ってきた鉄の棒を手先の器用な中津留がきれいに磨き上げて使い、心臓部のヘッドは勘をはたらかせ、つくりあげたというもの。
これを日測以来の生え抜き社員・正東喜義が神田や秋葉原のジャンク街に売り歩いた。最初はなかなか売れなかったが、そのうち音がよいと評判がたち、のちには〈クリアボイス〉と名付けて量産するほどになった。これが縁で電蓄用のフォノモーターをつくってくれと頼まれるようになった。手づくりのピックアップと違い、きちんと設計して、型おこしからやらなければならない。東通工にとっては最初の本格的な仕事になった。
これは井深の方針でもあった。当時、日本の弱電メーカーは新型ラジオをつくるのに手いっぱいで、電蓄の部品づくりなどには目をくれようとしなかった。そんなものをつくっても、安く買いたたかれるだけで、商売にならないと思ったのだ。ところが、井深はあえて時流に逆らった。ここで他社と同じようにラジオに手を出せば、いずれは資本力のあるメーカーに食われるに決まっている。それより誰もやらない分野で地道に努力すれば、必ず道が拓けるという考え方をもっていたからだ。井深の狙いは間違っていなかった。ピックアップやフォノモーターづくりは創成期の東通工を支える大事な収入源になっていた。
東通工に新しい仕事が舞い込んだ。戦時中、陸軍が使っていた無線機を放送用中継受信機に改造してほしいというNHKからの依頼である。
その頃日本の通信施設は戦災で壊滅状態となり、国民経済はもとより、連合軍の占領政策にも大きな支障をきたすほど混乱をきわめていた。戦前、一〇〇万台あった電話は戦災で五〇万台に減り、その五〇万台も雨が降ると聞こえなくなるという惨憺たる状態であった。
一方、情報伝達のメッカであるNHKの各地の放送施設も、大なり小なりの被害を受けていた。これらの施設を修理回復し、各地に無線中継の受信所をつくり、放送の全国ネットを確立することは、日本の民主化を急ぐ占領軍の至上命令でもあった。この仕事をまかされたのが、大学時代の井深の親友で、NHKの技術局員であった島茂雄である。
甲府韮崎山の中腹にあった大きな防空壕のなかに、未使用の陸軍の通信機材が放置されたままになっていた。そのなかに〈チ二号〉という短波、中波用の対空無線受信機が大量に発見された。これを知ったNHKはこの〈チ二号〉を払い下げてもらい、放送用に改造して使用することを思いたった。ところが、改造を引き受けてくれるメーカーがない。
当時、大手の通信機メーカーは逓信省の最重点課題である電話事業復興に駆り出され、とてもそこまで手が回らないと、相手にしてくれなかった。もっとも、それは表向きの理由で、実際は手間がかかる割に納入価格が安すぎ、敬遠されたというのが真相らしい。困り果てた島は、いろいろ考えた末、旧友の井深にこの仕事をやらせてみようと考えた。これがのちに東通工浮上のきっかけになろうとは、島も、井深も知る由もなかった。