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創造の人生16

时间: 2020-10-28    进入日语论坛
核心提示:大きな夢をもった小さな会社 井深は、盛田と手を携えて仕事をはじめることに対して、盛田自身の承諾は得たが、もう一つ片付けて
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 大きな夢をもった小さな会社
 
 井深は、盛田と手を携えて仕事をはじめることに対して、盛田自身の承諾は得たが、もう一つ片付けておかなければならないやっかいな問題があった。盛田の父の了解を取ることであった。
 周知のように盛田は、愛知県で三〇〇年の伝統をもつ造り酒屋の御曹子。当然、家業を継がなければならない立場にある。その盛田を、本人の希望もあるとはいえ、もらい受けることはたいへんな難問だった。井深は義父の前田に同行してもらい、盛田の厳父・久左ヱ門に頼みにゆくことにした。二十一年四月はじめのことである。
 盛田の厳父は、井深たちを丁重に迎えた。初対面の来客の緊張感を少しでも解きほぐそうとする暖かい心遣いが、随所に見られた。井深と前田は久左ヱ門に、新会社に賭ける同志の夢を率直に話し、新しい事業のために盛田が絶対欠かせない人であることを強調した。しばらく考えていた久左ヱ門は「本当は、昭夫が後継ぎとして家長となり、家業を続けてくれることをずっと望んでいた」と本心をハッキリ述べた。そのうえで井深と前田に向かってこういった。
「しかし、息子がやりたいというなら、それもよいだろう。まあ、シッカリやりなさい。あなたも食えなくなったら、いつでも小鈴谷にやって来なさい」
 意外な返事に、井深も同席していた盛田も驚いた。こんなに簡単に許してもらえると思っていなかったからである。これは、当時、早大に在学中だった盛田の次弟・和昭が「兄貴がそういう希望であるならば、自分が家のことをやります」と、陰で支援してくれたことも大きな力となっていたようだ。
 昭和二十一年五月、井深たちが夢を託した、資本全一九万五〇〇〇円、従業員二〇名そこそこの株式会社「東京通信工業」が誕生した。社長には、パージで文相の職を離れた前田多門、井深が専務、盛田が取締役、そのほか前田の学生時代からの親友で、戦時中金融統制会理事を務め、財界にも顔の利いた田島道治(のち宮内庁長官)、その友人で、当時帝国銀行(さくら銀行)の会長をしていた万代順四郎、PCL時代、井深が物心両面で世話になった増谷麟、盛田久左ヱ門などが、相談役や非常勤役員として名を連ねていた。
 五月七日、新会社の創立式が行なわれた。当時、復興した白木屋も取扱い商品が増えたため売り場を拡張中で、井深たちの事務所兼工場も七階に移っており、その部屋も明け渡しを迫られていた。そんな切迫したなかで、井深は会社設立趣意書をはじめて披露した。
 冒頭に『会社設立の目的』が次のように明記されている。
「技術者達ニ、技術スル事ニ深ク喜ビヲ感ジ、ソノ社会的使命ヲ自覚シテ、思ヒキリ働ケル安定シタ職場ヲコシラヘル」。さらに『基本的経営理念』として「不当ナル儲ケ主義ヲ廃シ、飽迄内容ノ充実、実質的ナ活動ニ重点ヲ置キ、徒ラニ規模ノ拡大ヲ追ハズ」と謳い、また『すすむべき進路』については「大キナ会社ト同ジコトヲヤツタノデハ、ワレワレハカナハナイ。シカシ、技術ノ隙間ハイクラデモアル。ワレワレハ大会社ノデキナイコトヲヤリ、技術ノ力デ祖国復興ニ役立テヤウ」と、高らかに宣言した。
 大きな夢をもった小さな会社が、希望に燃えて船出したのである。前途は多難だった。インフレの再燃、物資不足、一向に好転しない資金繰り、工場の移転問題と、難問が山積している。これをどう克服するかが、井深、盛田の当面の課題であった。
 やがて白木屋の本格的な改修工事がはじまった。昭和二十一年八月のことである。いよいよ白木屋を立ち退かなければならない。幸い工場のほうは、PCL時代から井深が世話になっていた横河電機の技師長の多田潔の世話で、吉祥寺にあった横河の下請け工場を借りることができた。それだけでは手狭すぎるので、もう一ヵ所、三鷹台のガレージを改造したボロ工場を借り、従業員を二つのグループに分けて移転することにした。
 その直前、盛田の紹介で東通工の社員になったのが塚本哲男(現湘北短大)である。塚本は盛田と大学時代からの仲間で、海軍では技術中尉として、同じ釜のメシを食った。その塚本がこんな話をする。
「私は一〇月に入ったんですが、そのときはまだ白木屋だった。ところが、すぐ追い出されて、三鷹台に行ってくれといわれた。そこは車庫を改造した工場で、雨が降ると消防自動車をなかに入れなければいけない。いま考えると、よくあんなところで仕事ができたものだと思いますね。でもそこもすぐ出なければならなくなるんです」
 その辺の事情にはあとで触れるとして、ともかく工場はなんとか移転できたが、営業拠点になる事務所の引越先が決まらない。井深も盛田も手蔓を求めて必死に探し回ったが、適当な物件が見つからないのである。
 白木屋の改造工事はどんどん進展し、井深たちの事務所が取り壊されるのも、時間の問題となった。「それほど困っているなら、うちのビルを使いなさい」と、助け舟を出してくれた人がいた。盛田の妹・菊子と結婚式をあげたばかりの岩間和夫(のち社長、東大理学部物理科)の叔父・油田尚郎である。提供してくれたビルの所在地は、銀座の一等地(現三井アーバンホテルの近く)ということも井深たちを喜ばせた。またとない適地に事務所をもてたからだ。
 岩間和夫は、出身校は違うが、盛田とは幼馴染み。戦時中は横須賀海軍工廠航海実験部出仕の技術大尉として、もっぱらラジオゾンデの研究に携わっていた。戦後は浅間山の東大地震観測所に職を得たが、盛田の妹と結婚後の六月初旬、盛田のたっての希望で開発部長として東通工入りした。
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