島を中心としたNHK改良課のスタッフは、さっそく、スタジオの設計に着手した。しかし、問題はその仕事をどこにやらせるかであった。これまでNHKの仕事を手がけてきたのは東芝、日本電気、沖電気といった大手メーカーに限られていた。ところが、その大手は二十一年後半から激しさを増した労働争議で、どこの会社もその対応に追われ仕事どころの騒ぎでなかった。そこで島は〈チ二号〉の改良を引き受けてもらった井深にまかせる気になったのである。
NHKのスタジオ改修工事は、PTSが使っていた第九スタジオからはじまった。ちょうど、片山哲を首班とする社会党内閣が発足した直後の二十二年六月下旬であった。
井深たちはNHKから運び込まれた放送機器の改修に総力をあげて取り組んだ。二ヵ月足らずですべての仕事を完了することが絶対の条件だったからだ。当時、東通工の従業員は七〇名近くに増えていたが、工場は移転時そのままの掘っ立て小屋、発注者のCCS(民間通信局)のボス、ホワイトハウス准将が工場を視察に来て、そのボロさ加減に眉をひそめたのも当然だった。おかげで島は「なぜ、あんな汚い工場に仕事をまかせたのか」と、ひどく叱られたそうだ。
島は、ホワイトハウス准将をなんとかなだめて、ともかく期日通りにスタジオの改修工事をすませた。結果は上々であった。それも「ヨーロッパの水準に劣らないできばえ」と、激賞されたほど。この実績がものをいい、第六スタジオの改修もまかされることになった。以来、東京の第一スタジオ、大阪のWVTQ、東京のWVTRの改修工事を一手に請け負うことになった。
こうして会社の基礎が固まってくると、井深もだんだん欲が出てきた。官庁とかNHKの仕事のように、仕様通りにものをつくるだけでなく、素材から品質まで自分の思いのまま管理できる、大衆向けの商品をつくってみたいと思うようになった。これは東通工創業以来の井深の夢であった。
この井深の考え方に盛田も同調した。問題は何をつくるかである。それを決めるため、二人が何度も話し合った結果、手はじめにワイヤーレコーダーづくりに挑戦しようということに決まった。ワイヤーレコーダーは、一九三〇年代初期、ドイツのテレフンケン社が開発したのが最初だが、ほぼ同じ時期、井深と親交のあった東北大の永井健三教授も、安立電気と共同で似たものを完成させている。それだけに、永井の協力が得られれば商品化も夢でない、と井深は考えたのである。
この開発を担当したのは、昭和二十二年四月、早稲田大学専門部工科を出て東通工に入ったばかりの木原信敏(のち専務、木原研究所社長)であった。木原は以前から井深と顔見知りだった。井深が、戦後の一時期、専門部の講師をしていた関係で、その人となりをある程度知っていた。井深が学内の掲示板に「人を求む。東京通信工業、井深大」という求人広告を出したとき、木原がそれを見て応募する気になったのである。
「私はもともと機械科の学生だったが、無線にも人一倍関心をもち、戦後、みんながほしがった電蓄や五球スーパーラジオ、短波受信機をつくった経験もある。それで東通工がどんな会社か知っていたんです。それで興味をもち、会社に入れてもらったわけです。だが井深さんがその会社の社長だったことは知らなかった。もっとも、最初は腰掛け程度にしか考えていなかった。それがいつの間にか東通工から離れられなくなったのだから、不思議な縁ですね」
と、木原は述懐する。仕事がおもしろかったことと、井深、盛田を中心とする技術者集団の織りなす独特の雰囲気に魅せられたからであった。
しかし、残念なことに木原の挑戦は実を結ばなかった。機械本体は、井深の旧知である日本電気の多田正信(のちソニー常務)が提供してくれた旧陸軍の「鋼線式磁気録音機」。盛田がアメリカの友人に無理をいって譲り受けたワイヤーレコーダー(ウェブスター製)のキットなどを参考に、独自のものをつくりあげたが、肝心の、録音特性のよいワイヤーをつくってくれるメーカーが、どこにもなかったからである。
井深がNHKでテープレコーダ(ウイルコック・ゲイ社製)を見せられたのは、その直後の昭和二十二年秋頃であった。CIEのヘイムズという将校の部屋にあったものを偶然見つけ、試聴させてもらった。それが井深の脳裏に焼きついた。そして、いつしか「われわれのつくるものは、これしかない」と、思うようになった。
もちろん、この意向は盛田にも打ち明けた。盛田も現物を見てすっかりその気になった。テープレコーダを実用化するには、東北大の永井教授が発明した交流バイアス録音法を使ったほうが有利なこと、さらにその特許実施権は、永井教授と共同研究した安立電気が保有していることなどがわかった。
そこで井深は、安立電気にはたらきかけ特許権の買収交渉をはじめることにした。幸い、当時の安立電気の磯英治社長は、井深が神戸一中に通っていた頃のハム仲間であったので、話もしやすかった。ところが、最終的に磯が提示した条件は五〇万円、それ以上はまけられないというのである。
その背景には安立電気の特殊事情がからんでいた。周知のように、安立電気は通信機器メーカーとして著名な存在であった。昭和十三年、永井教授が取得した交流バイアス法の日本特許は、弟子の五十嵐梯二(のち安立電気)と、安立電気の石川誠の三者共同研究の成果であり、その年にはいまのテープレコーダの原型である磁気録音機を完成させていた。そんな実績をもった安立電気であったが、戦後は民需転換への立ち遅れ、労働争議の続発などで経営危機に見舞われ、昭和二十四年には従業員の全員解雇、工場閉鎖という最悪の事態を招いてしまった。それだけに少しでも多くの金がほしかったのだ。
しかし、買い手である井深にとっても五〇万円は高すぎた。ひと頃と比べ業績がよくなっているとはいえ、東通工の現状ではそれだけの金を動かす余裕がなかった。結局、その日は「少し考える時間がほしい」と、引き下がるしか手がなかった。その直後、たまたま会った日電の多田正信に話すと多田は「うちもいずれ磁気録音をやりたいと思っているので、その権利を日電が半分持ちましょう」と、助け舟を出してくれた。こうして東通工は二五万円の出費で、永井特許を手に入れることができたのである。