井深は強運の人である。不遇な環境にもめげず、自分の力で天分を発揮できる道を探し、知識を拡げる努力をしてきた。それがよき師、同類の友の知遇を得るきっかけになる。井深はそうした人びととの交友を大事に育ててきた。常に相手の立場を尊重し、出すぎた振舞いはいっさいしなかった。
井深を知る人が「井深さんは、本当にいい人、信頼に足る清潔な人」と、口を揃えていうのもそのためである。そうして培ってきた人間同士の絆が、戦後、事業を起すのに役立った。井深の人柄ゆえといっても過言でない。
井深がもって生まれた才能を発揮しはじめるのは、戦後、事業家として第一歩を踏み出してからであった。前にも触れたように、井深は、何かほしいものがあると、なんとかそれを自分のものにしようと努力し、結局、手にしてしまう独特の才能をもっていた。磁気録音の基本技術である永井特許を手に入れるときに発揮したねばりなど、その典型的なケースかもしれない。井深の深慮遠謀ぶりを、改めて振り返ってみよう。ソニー発展の源泉をそこに垣間見ることができるからである。
安立電気のもっていた永井特許を、日本電気と共有することで話を決めた井深は、さっそく盛田と相談し、二五万円の分担金をどうやって捻出するか検討をはじめた。
当時、東通工の財布のヒモを握っていたのは、盛田家からお目付け役として派遣されていた長谷川純一と、総務担当の太刀川正三郎であった。二人とも、創業以来の金繰りでさんざん苦労をしている。それだけに二五万円もの大金をおいそれと出してくれるはずがない。それをいかに説得するかが、井深、盛田の悩みのタネだった。井深はCIEのヘイムズに頼み、問題のテープレコーダを借り出すことを思いついた。
井深の話を聞いたヘイムズは「貴重品だから貸すわけにはいかない」と断わった。だが井深は執拗にねばった。その熱意に根負けしたヘイムズは「機械をもって、キミの会社を訪ねる」と、渋々承知してくれた。こうして東通工の社員ははじめてテープレコーダの現物を見ることができるのである。そして井深がこの機械の国産化に執着する気持ちがわかりかけてきた。井深の洗脳作戦は見事に成功したのである。
一方、ワイヤーレコーダの開発を手がけていた木原は、井深の話をヒントに、テープレコーダの開発研究をひそかにすすめていた。
「話を聞くと、茶色のピカピカと艶のあるテープだという。それで酸化鉄を使ってるなとすぐわかった。問題はその酸化鉄の処理法とテープベースのつくり方だった。何しろ、あの頃はこれといった資料も教科書もない。しかも、現物を見たのは井深さんただ一人。それを頼りに推理するのだから苦労しました」
と、木原は当時を振り返る。考え抜いた木原の結論は、OPマグネットを素材にして磁性材料をつくることであった。OPマグネットは東京工大の加藤与五郎博士が発明した磁石で、コバルト系の酸化鉄の黒い粉を固めてつくったフェライト磁石である。木原はこのOPマグネットを擂り潰し、粉々にして、それに接着剤をまぜ、ありあわせの紙テープに塗ってみた。そして試作中のワイヤーレコーダにかけ、テストしてみたが、雑音が多すぎて、期待するような音はまったく出なかった。コバルト系酸化鉄の抗磁力が強すぎ、録音には不向きだったのである。
CIEのヘイムズが井深に約束したテープレコーダをもって、品川・御殿山のボロ工場に姿を見せたのはその頃であった。現物を見た木原は、ふたたび開発意欲を燃やし、これはと思う文献を片っ端から調べた。するとある書物に「蓚酸第二鉄から水蒸気と炭酸ガスをとると、非常に細かい酸化鉄の粉ができる。その粉を棒状に固め、磁石にする」と、書いてあるのを発見した。木原は「これだ!」と思った。できる磁石が強力でないという点が気に入ったのだ。
木原は自分の着想を盛田に話した。盛田は「心あたりがある。木原君、一緒に行こう」と、木原を誘い、神田まで出向いた。神田鍛冶町(現内神田)界隈は、むかしから薬種問屋街として知られている。そこに行けば、試薬ビンに入った蓚酸第二鉄が入手できることを盛田は知っていたのだ。
小さいながらも、技術の本質を知っている人材を揃えた東通工の強味はそこにあった。いずれも既成の観念にとらわれず、行動できるフレッシュな感覚をもった技術者集団。これはと思えばすぐ行動に移ることができる。その機動性が東通工飛躍の原動力になるわけだ。もちろん、当時、それを意識した東通工の社員は一人としていない。そんなことより「誰もやっていない技術を生み出して、日本の技術を再構築したい」という創業の理念をいかに実現するかで精一杯だったのである。そんななかにあって、人一倍闘志を燃やし続けていたのが、テープレコーダの開発をまかされた木原であった。井深同様、小さいときから機械いじりが好きだった木原は、未知の分野に挑戦することが自分の使命と割切る、異色の存在であった。
木原は、最初、井深を単なるアイデアマンで、実務家でないとの印象をもっていた。ところが何度か井深と接触しているうちにそれが間違いだと気づく。実務的な細かい点まで熟知した、本物の技術者であることを身をもって知ったからである。以来、木原は、井深のもつ人間的魅力のとりこになり「この人のために思いきり仕事をやってみたい」と、考えるようになっていた。