木原はもともと寡黙な人である。だが、思いついたことは必ずものにしないと気がすまないという独特の職人気質をもった技術者でもあった。井深は木原のそんな性格をいち早く見抜き、好奇心をそそるような開発テーマを、それとなく与えた。木原は、翌日になると「こんなものができました」と、井深の予測を上回るものをつくってもってくる。これには井深も兜を脱いだ。井深が大学専門部を出て二年足らずの若者を主任研究員に引き上げたのも、その内に秘めた才能をフルに発揮させてやろうと思ったからであった。
それが井深流〈人材育成法〉である。それとなくあたえたヒントを、むずかしいといって手をこまねいている技術者を、井深は信用しない。また、押しつけた課題通りのものをつくってきた場合も同じだ。できて当たり前というわけだ。井深は、自分の考えを越えるものをつくれる技術者でないと重用しないのだ。つまり、井深はきびしい評価者でもあったわけだ。
井深が井深なら木原も木原である。井深の気質を知り抜いているだけに、テープレコーダづくりに挑戦した木原は、いつになく慎重な姿勢で実験に取り組んだ。買ってきた黄色の蓚酸鉄の粉をありあわせのフライパンであぶり、適当なところで水を入れ蒸発を止め、茶色の酸化鉄の粉をつくる。それをラッカーにまぜ、スプレーガンに入れる。そして入社直後につくったヘルシュライバー(鍵盤式模写電信機)で使用した八ミリ幅の紙テープに吹きつけ、ともかく、録音用テープらしきものをつくりあげた。
「ヘッドは、ワイヤーレコーダの試作である程度わかっていたので、パーマロイを使った。それを切ったものを合わせてハンダ付けした。あとで考えると、あのときなんでハンダ付けしたのかと悔やんだが、当時はそれがいちばんいいと思っていたんですね。それを油砥石で一生懸命磨いてギャップをつけた。そして実際にテストしてみたらいい音が出る。〈ワァー、できた〉と、みんなで大騒ぎしたのはこのときですよ」(木原信敏)
だが、本当の苦労がはじまるのはそれからであった。メカニック部分、磁性材料の改良、塗布の方法、使用する溶剤の研究と難問が山積している。これらを木原一人で解決するには荷が重すぎた。そこで井深と盛田はつてを頼りに、化学、物理、電気、メカニックなど、これはと思う人材を何人も入れた。
テープの試作を手がけた戸沢圭三郎も、その一人であった。戸沢は旧華族の出で、盛田とは遠縁の間柄。昭和十七年九月、名古屋大学工学部航空工学科を繰り上げ卒業し、海軍の短期現役士官(技術科三二期)となった。盛田の義弟、岩間和夫とは中国山東省青島で同じ釜のメシを食った仲間である。その戸沢は二年間の現役生活を終えると、就職内定先の三菱重工に戻り、河野文彦技術部長(のち社長)のもとでゼロ戦の改良設計に携わるようになった。
やがて終戦。戸沢は、一時芝浦工機に籍をおいたが、昭和二十三年に独立した。しかし、つくった会社は、可もなし不可もなしといった程度。それで嫌気がさし、古巣の三菱重工に戻ろうかと考えはじめる。盛田と会ったのはその直後のことであった。
「いろいろ話をしているうちに、盛田さんが机の脇においてあった変な機械(テープレコーダ)を指して『戸沢さん、これなんだか知ってますか』という。いや知らないと答えたら『これであなたの話を録音した。再生してみましょう』といって、私の声を聞かせてくれた。これには私も驚きました。そのうえで、実はこのテープを開発するんだけど手伝ってくれませんか、と切り出された」
戸沢はとっさのことだけに返事に詰まった。しかし、すぐ「これはどこかでやっているのか」と、聞いてみた。すると盛田は得意気な顔で「日本じゃどこも手がけていません。それをわれわれがやろうとしている。資料も、これといった文献もないんです」と、答えた。
これを聞いて戸沢は、興味をもった。「資料も、虎の巻もないなら、シロウトのオレにもできるかもしれない」と、思ったのである。これが戸沢の東通工入りのきっかけになった。
戸沢が東通工に通いはじめた直後の昭和二十四年一二月、樋口を訪ねてきた中年の男がいた。階級章のない洗いざらしの陸軍の軍服に、軍靴をはいたその男は、日本光音時代、井深のもとで働いていた島沢晴男である。島沢は、井深がPCLにいた頃よく出入りしていた神田末広町のオートバイ屋の店員で、手先の器用な働き者であった。それに目をつけた井深が、日本光音入りをすすめたという間柄だった。
「日本光音に入ってしばらくしてから、満州に行ってくれといわれた。満州で一六ミリの映写機をたくさん売るんだというので、私はサービスマンとして派遣されたわけです。派遣された会社はその後、現地法人に昇格した。社長は大杉事件で有名になった甘粕元憲兵大尉でした。私は昭和十八年に召集で、関東軍に入った。だが二年足らずで終戦となり、ソ連軍に抑留されシベリア送りになった。そして四年ぶりに帰国を許されたんです」(島沢晴男)
帰国後、しばらく兄の家で休養生活を続けていたが、井深の消息を耳にし、矢も楯もたまらず樋口に就職を頼みに訪れたのである。樋口も、島沢のことをよく覚えていた。それだけに復職させても問題はないと思った。しかし、一応、盛田に事情を話し面接してもらうことにした。
盛田は、島沢の履歴書に目を通すと、いきなり「キミ、共産主義をどう思うかね」と質問した。これには島沢のほうがびっくりした。
「たぶん、履歴書にソ連抑留と書いてあったので、そんな質問をされたんでしょうね。あの頃は朝鮮戦争がはじまる前で、まだ共産党は隠然たる力をもっていましたからね。それなのに平気でそんな質問をされる。私はそういう骨っぽいところが好きなんです。もっとも、盛田さんも当時のことは忘れているかもしれない。私もなんと答えたか記憶に残っていないが、ともかく、採用していただき、戸沢さんに引き合わされたんです」
旧海軍の技術士官である戸沢と、シベリア帰りの島沢が前人未到の磁気テープづくりに挑戦をはじめたのはそれからであった。東通工が最初に借りた掘っ立て小屋が仕事場だった。創業当初 からこのボロ工場で働いていた社員は数ヵ月前に完成した木造二階建ての新工場に移り、空家になっていた。そこにテープ開発室を設営することになったのである。
〈テープ開発室〉と、格式ばった名称がつけられたが、屋根は杉皮ぶき、壁は渋板というあばら屋同然の建物。部屋には事務机一つない。そこで戸沢は、ありあわせの木箱と板切れを利用して机と椅子をつくり、当座をしのいだ。