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創造の人生23

时间: 2020-10-28    进入日语论坛
核心提示:テープレコーダ「G‐1」の自負 井深や盛田は、G型の最初の試作機をかついで積極的な啓蒙活動をはじめた。当時、東通工は、テ
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 テープレコーダ「G‐1」の自負
 
 井深や盛田は、G型の最初の試作機をかついで積極的な啓蒙活動をはじめた。当時、東通工は、テープレコーダの商品化を実現するため、三六〇万円の資本金を一〇〇〇万円に増資する計画を立てていた。しかし、会社は知名度の低い非上場会社だけに自分たちの才覚で新しい出資者を募らなければならない。そこで盛田は、母の縁を頼りに関西の財界人にテープレコーダを見せて歩くことを思いついた。それも、遠縁の大日本紡績の元社長、小寺源吾(当時相談役)とか、阪急の創始者、小林一三など大物ばかりである。
 傑作だったのは小林に会ったときであった。その日、例によって盛田が会見の模様を録音し、その場で再生してみせた。すると小林は「ホウ、世の中にはワシと同じようなことをいうやつがいるものやな」と、目を丸くして驚いた。だが、そのあとで自分がしゃべった言葉だと教えられ、大笑いしたというエピソードが残っている。当時、テープレコーダに対する一般の認識は、その程度のものだったようである。
 機械をつくる東通工開発陣も、テープレコーダの技術を完全にマスターしていたわけではない。そのために思わぬ失敗を演じている。自社のテープとスタンダードテープの幅が違っているのに気づかなかったことである。それがわかったのはG型の原型をつくった直後だった。当時、自社製のテープは試作の域を出ていないため、テストにスコッチ製の紙テープを使用した。ところが、何度試しても機械にかからない。これには木原たちもあわてた。入念に調べたら、ほんのわずかだが、テープの幅が違っていることに気付いた。
「スタンダードのテープは四分の一インチ(六・三五ミリ)なのに、われわれは六ミリでつくっていたんですよ。たぶん、ノギスか何かではかった寸法をそのまま鵜呑みにして、テープとメカをつくってしまった。それがいけなかった。しかし、発売前だったからまだよかった。もし売り出したあとだったら、大問題になっていたでしょうね」
 と、井深は苦笑する。この事件は、井深をはじめ東通工技術陣に貴重な教訓を残してくれた。コンシューマ商品をつくる場合、規格標準化がいかに大切かを学んだことだ。以来、井深は商品規格の標準化には、人一倍神経を使うようになった。後年、それを裏書きするような話が出てくる。昭和四十四年のことだ。
 この年の春、井深はマイクロカセットの規格問題で、オリンパス光学の内藤隆富社長(当時)から、「うちの方式で規格を統一してもらえないか」と頼まれたことがある。その頃、ソニーをはじめ各社がいろいろな方式を開発、主導権争いを演じていた。それだけに、井深も即答を避けた。しかし、オリンパス方式のカセットが先行しているのを自分の目で確かめた井深は、金型までおこしていた自社方式をあっさり断念、内藤の提案を受け入れることを決めた。コンシューマ商品の場合、互換性がいかに大切かを知っていたからにほかならない。
 ベータマックス、VHSにみられるVTRの規格紛争も、開発両者に互譲の精神がなかったことに端を発していることは、周知の通りである。その辺のいきさつにはあとで触れるとして、話題を元に戻そう。
 井深と盛田が、G型のデモンストレーションを展開しはじめた頃、もう一人、テープレコーダに自分の運命を賭けてみようと、ひそかに考えていた男がいた。のちにソニーの総務部長、常務などを歴任した倉橋正雄である。倉橋は、東京の成城高校、神戸商大を出た元陸軍主計大尉。戦後は徳川義親元侯爵に懇望され、尾張徳川家の財産管理をする八雲産業(本社、東京・目白)の役員として活躍していたやり手であった。
 その倉橋が、八雲産業の相談役を兼ねていた田島道治から「私の関係している東通工という会社がある。ここで、しゃべるとそれが記録され、それをすぐ聞くことができる、おもしろい機械を研究している。この会社は、いまは名もない小さな会社だが、若くて優秀な人材を揃えているから、将来、きっと伸びると思う」という耳よりな話を聞かされた。
 倉橋は、この話にことのほか興味を示し、取りあえず、五〇円株を一万株購入することを決めた。そして田島の「出資するなら、一度、工場を見て来られるといい」というすすめに従い、さっそく品川・御殿山の工場を訪ね、井深と盛田にはじめて会った。
 話合いは思いのほかはずんだ。倉橋も話術にかけては人にひけをとらないと自負していたが、井深と盛田の話しっぷりはそれをはるかに上回り、テープレコーダに賭ける熱気がひしひしと感じられた。倉橋は二人のひたむきな情熱にすっかり魅せられてしまった。
 そのあと倉橋は、G型の試作機や、これまで東通工が手がけてきた製品を一通り見て、御殿山をあとにした。倉橋の頭は、たったいまみたばかりのテープレコーダのことでいっぱいだった。
「田島さんのいう通り、あれはおもしろい機械だ。できることなら八雲産業で売ってみたい」と、思うようになった。
 これはと思うことにぶつかると倉橋は、自分の判断でどんどんことをすすめてしまう。それがときとして相手に警戒心を起こさせることもあった。その後、倉橋が東通工に二度、三度足を運び「この機械をうちの会社で売りたい」と働きかけたが、井深たちはなかなか色よい返事をしなかった。
 やがて、戸沢を中心としたテープ開発チームの血の滲むような努力が実り、なんとか使用に耐えるテープができるようになった。朝鮮戦争が勃発した直後の昭和二十五年六月下旬のことである。これを契機に、開発室はテープの生産体制を整え、本格的な量産を開始した。とはいえ、生産は一分間に二〇メートル、一〇インチリールにして一日二〇〜三〇巻程度。だが、原材料、薬品類のグレードが低く、しかも、入手困難な時代背景を考えると、画期的なことであった。
 こうして、ともかく八月には、国産初の磁気録音テープレコーダ「G‐1型」は、市場にお目見得することになった。東通工はこれを機会に名称を「テープコーダ」に統一、商標登録をした。発表された小売価格は一六万円。ちなみに、二十四年一二月に入社した島沢の給与は七〇〇〇円、毎日新聞社発行の週刊誌「サンデー毎日」が、二〇円であった。
 そんなことを考え合わせると、「G‐1型」一台一六万円の価格は高すぎた。だが、井深たちは「必ず売れる」と確信をもっていた。「簡単に自分の声が記録され、すぐにその場で聞くことができる。こんなすばらしい機械を世間が注目しないはずがない」と自負していたのだ。確かにものを見た人は、一様に驚き、興味を示すが、買おうという奇特な人はなかなか現われない。一六万円という価格がネックになっていたのである。
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