倉橋が「八雲産業で五〇台まとめて買う」と申し入れてきたのは、その直後であった。かねての念願通り、八雲産業の手で売って、ひと儲けしようと思ったのだ。一台当たりの卸値は一二万円で、総額六〇〇万円の取引きである。
「これで東通工はずいぶん助かったはずですよ。在庫はさばけるし、運転資金もできるしでね」と、倉橋はいう。それは事実である。当時、東通工は資本金一〇〇〇万円、従業員一〇〇名そこそこの小規模企業。これから会社規模を拡大してゆくには、社運を賭けてつくった「テープコーダ」を売るしか道がない。八雲産業の払った金は、旱天に慈雨のような価値があった。
一方、いっぺんに五〇台もの機械を引き取った倉橋も、自分の見通しの甘さに気づいた。最初、倉橋は、徳川家から紹介をもらえば少々高くても必ず売れると、安易に考えていた。小売値を一六万八〇〇〇円に設定したのもそのためだった。しかし、一台も売れなかった。これには音をあげた。えらいものを背負い込んでしまったと思ったのだ。
売れない「テープコーダ」を、最初に買ってくれたのは、東京八重洲口のオデン屋の主人であった。この人は、以前大きな会社の幹部だったが、戦後は会社勤めをやめ、一時、徳川家の顧問のような仕事をしていた。その関係で商談がまとまったもの。自分の経営している店に機械をおき、酔客の歌を録音し、その場で聞かせようと考えたわけだ。
これをはずみにと、倉橋は、ふたたび足を棒にして買い手を探したが、さっぱり、成果が上がらない。倉橋の苦戦ぶりをみるに見かねた盛田は、手あきの社員を動員し、積極的な啓蒙活動を展開しはじめた。一ヵ所でも売れる緒口を見つけ、倉橋の負担を軽くしてやろうと思ったのだ。しかし、この支援活動も、苦労した割にあまり効き目がなかった。
その直後の一一月五日に、国会図書館で「新しい日本の技術展」という催しが開かれた。東通工にも出展要請があり、G型など数点の製品を出品することになった。当日、会場に皇后陛下、貞明皇太后、内親王方がお揃いで顔を出され、各社の展示品を熱心に見て回られた。ところが、東通工の展示場の前まで来ると、足を止められ、G型を興味深げにご覧になった。待機していた説明員の倉橋にも何度か質問された。抜け目のない倉橋はその模様を録音していた。
それを再生してお聞かせしようと、テープを巻き戻し、プレーのボタンを押したが、肝心のレコーダはウンともスンともいわない。あわてふためいた倉橋は、場所柄もわきまえず、機械のあちこちを叩きはじめた。その様子がよほどおかしかったとみえ、皇后陛下がお笑いになった。
「たぶん、真空管の接触が悪かったのだと思うが、あのときは、本当に冷や汗が出ましたね。幸い機械もすぐ正常に戻り、お声を聞いていただくことができたが、当座は、気が転倒してしまい、自分で何をやったか全然覚えていないほどでした」
と、倉橋は述懐している。ところが、翌日の新聞には、そのときの写真が掲載され「ご自分の声を聞いて、お笑いになる皇后陛下」という説明文までついていた。これを見た倉橋は、穴があれば入りたいような気持ちに駆られたという。
このできごとが幸いを招くきっかけになった。国会図書館が一台購入してくれたのである。これは、徳川義親の口利きがものをいったのだ。そのうえ、尾張の殿様は、倉橋のために名古屋高等検察庁の長官を紹介してくれた。倉橋に会った名古屋高検長官は、G型を一台購入したうえで、東京高検の幹部を紹介するから訪ねてみなさいとすすめる。速記者が不足して、裁判の進行がままならないで困っている。それだけに売り込みやすいのでは、というのである。
この助言を頼りに、井深と倉橋は東京高検の首脳を訪ね、交渉をはじめた。話がまとまるまでには、若干時間がかかったが、いちおう二二台のテープコーダの売込みに成功した。東通工や八雲産業は、これで一息ついた。
気をよくした倉橋は、ふたたび販路の開拓に努めた。その結果、朝日新聞社、文藝春秋社、三越本店などへの売込みに成功する。だがそのあとが続かない。困り果てた倉橋は、盛田と会い、販売方法を根本から練り直すしか手がないのではと提言した。倉橋の人柄がわかってきた盛田もそう思った。その場合、倉橋の処遇をどうするかという問題が残った。
昭和二十五年一一月、社長に就任し、経営の全責任をまかされている井深と、専務に昇格した盛田は、いろいろ話し合った末、倉橋を東通工に迎えるのがいちばん望ましいとの結論に達した。ところが、東通工と八雲産業の相談役を兼務する田島は、頑として首をタテに振らない。「倉橋は徳川家のために雇った人間。だからキミの会社にやるわけにはいかん。それに、私は、人身売買のような人の引き抜きは嫌いだ」というのである。だが、井深と盛田はこれから会社を伸ばしていくためにも、倉橋はどうしても欠かせない人材だ、と根気よく説得し続け、ともかく、もらい受けることに成功する。昭和二十六年一月のことであった。
そのうえで、井深は、東通工一〇〇パーセント出資の会社「東京録音」を設立する。この会社の目的は二つあった。一つは映画用磁気録音装置の製造と、その宣伝。もう一つは、開発中の普及型テープコーダを売ることである。つまり、井深は、この時点で磁気記録技術を使えば映画界に革命的な変化を起こすことも可能と読んでいたのだ。
ちなみに、この会社の社長は盛田久左ヱ門、専務は井深のハム仲間である笠原功一(東通工営業部長を兼務)、常務は倉橋正雄、録音部長は土橋武雄という顔ぶれで発足している。
土橋は前にも触れたように本格的トーキー映画『マダムと女房』(松竹作品)を実現させた〈土橋式トーキー〉の発明者で、夫人は名バイプレーヤー飯田蝶子である。しかし、戦争末期、映画界から身をひき、以来、職についていなかった。それを知った旧知の笠原が東京録音入りをすすめたものだった。録音技術の応用知識の乏しいシロウト集団に欠かせない指導者だと思ったからである。