PV‐100型VTRのニューヨークでの評判は予想以上に高かった。だが、それでも井深は納得しない。開発部に顔を見せるたびに「重さが六〇キロで、何百万円もする機械なんて、ぼくの性に合わんな」と、グチをこぼす。それが自分たちに対する挑発だと木原も十分承知していた。
木原も、もっと手軽に使えて、コストの安いVTRの開発構想をひそかに練っていた。試作機をつくって「こんなものができました」と井深に見せる。したり顔で〈嫌味〉をいう井深に一矢報いるには、それがいちばん利き目があると木原は考えたのだ。その手の内を次のように話す。
「VTRはなぜ高いのかという問題を掘り起こしてみたんです。その結果、三つの問題点が浮んだ。一つはサーボモーターが多すぎること。二番目は回路機構が面倒なこと。三番目はテープの消費量が多すぎるという点だった。つまり、この三点が解決できれば小型化も、価格を安くすることも可能だと考えたわけです。そこでさっそく問題解決に着手した。その緒口を見つけるまでは、やはり、試行錯誤の繰り返しが続いた。しかし、それも一週間とかからない。あとは思いついたアイデアを何回か実験し、二、三日後には試作機をつくりあげてしまった。これもEV、PVで蓄えた技術があったからできたんですよ」
これまで放送用VTRには四つのサーボモーターが必要だったが、それをドラム用のサーボとヘッドサーボの二つにしてしまった。
第二のポイントは回路機構を簡略化することだった。従来、テープレコーダやVTRの記録ヘッドに流す電流は周波数により抵抗値が変わるため、ヘッドのコイルに流す前に抵抗を通し、低電流化しなければならなかった。ところが、VTRではその抵抗値が録音の場合の一〇〇倍、二〇〇倍にもなる。そのためパワートランジスタを使った大きな回路で低電流化していた。これがVTRの小型化を阻む障害の一つだった。
木原は、周波数によって電圧の変わる等価回路をコイルの前におく、最適記録電流方式というまったく新しい方法を考え出した。これだとパワートランジスタも不要になるし、回路機構も簡略化することができる。しかも、ミリワット単位で記録できることもわかった。
もう一つの問題点であるテープの消費量は、ドラムを小さくして、性能のよいフェライトヘッドをつくることによって解決した。
昭和三十九年一一月に発表した世界初の家庭用白黒VTR〈CV‐2000〉(発売は四十年四月)はこうして生まれた。このVTRは二分の一インチテープを使った回転二ヘッド方式で、重さは、テープレコーダ並みの一五キロ、価格は一九万八〇〇〇円と、これまでの常識では考えられないほど安くなった。手軽に使えて、価格の安いVTRをつくれという井深の長年の夢は、こうして実ったのである。
発表会の席で「今回の製品は、人の真似でなく、ソニーで生まれ育ち、成長したものです。生活に革命を生むというのが、ソニーの特徴であり、喜びであり、価値だと思っています」と、井深が手放しで、〈CV‐2000〉の誕生を喜んだのも当然であった。
しかし、便利な機械はできても、売れなければ、苦心の成果も死んでしまう。当時の社会常識からすれば、VTRは放送局で使うものであった。この認識を改めさせ、もっと広い分野で使ってもらうようにしなければ、ビジネスは成り立たない。ソニー首脳陣は業務用として新しいマーケットを開拓することを考えた。メーカーやサービス業の新人教育用、学校での教材づくり、あるいはセールスツールなどに利用できるとアピールすれば、ビジネスの輪は、必ず拡がっていくと思った。
アメリカ市場で、その仕事をまかされたのが森園である。彼は業務用の〈PV‐100型〉をひっさげて、全米各地を駆け巡った。
「当時、ソニー・アメリカにインダストリアル・ディビジョンというセクションができて、私が部長として赴任したわけです。そして、現地のスタッフ、これは風変わりな男だったが、たいへんな切れ者でしてね。その男と弥次喜多道中しながら、いろんなところを訪ね歩いた。航空会社、著名な大メーカー、学校、病院、軍関係の施設と、脈のありそうなところはほとんど回りました。扱い方を教えたり、値段の交渉までやった。購入してもらった機械の評判はよかった。ただ、その頃の技術は未熟だったせいか、いろいろと苦情もありました」
と、森園は苦労の一端を語る。苦情の内容は、ヘッドが汚れるとか、テープのかけ方が面倒だという声が圧倒的に多かった。このときの苦い経験がのちにカセットテープの開発構想につながっていくのである。