開発にてこずったカラーテレビ、卓上電算機と違い、割とスムーズに開発がすすんでいたのは、木原が担当したVTRであった。日本のVTR開発は、ソニーの独壇場だったテープレコーダと違い、各社ほぼ同じスタートラインに立って開発がはじまった、きわめて珍しいケースである。そのなかで先駆的な役割を果たしたのは、やはり、ソニーだった。国産初のVTR試作(昭和三十三年一〇月)に成功、さらに三十四年一一月にはトランジスタを使った回転二ヘッド方式のVTRを試作し、注目された。テープレコーダ開発を通じて培った磁気記録技術の蓄積がものをいったといえる。
だが試作に成功した二機種は、いずれもアメリカのアンペックス社の方式をベースにつくりあげたもの。そのため開発担当の木原本人も物足りなさを感じていた。独自の技術で家庭で使えるような機械をつくり、井深をアッといわせてみたい。それが木原の夢でもあり、目標でもあった。
そんな矢先、海外から耳寄りな話が舞い込んだ。放送用VTRの実用機を開発したアンペックス社から、技術提携する気はないか、と申し入れてきたことだ。三十五年二月には、アンペックス社の研究部長、VTR部長、改良部長、国際部長らの幹部が来日、ソニー首脳陣と話合いがはじまった。その結果、七月九日には、両社の間で共同研究を前提にした技術援助契約が結ばれる。この一連の契約のなかには特許権の相互無償許諾契約なども含まれていた。
ソニーは自社のもつトランジスタ関連技術を提供する代わりに、アンペックス社のVTR製造ノウハウを公開してもらう。それによって最高のVTR技術を確立しようということで意見の一致をみたのだ。契約調印が終わると、アンペックス社から二〇名ほどのエンジニアが日本にやって来た。ソニー技術陣とプロジェクトチームを組み、新しいVTRシステムを開発するためである。そのときソニー側から製造部隊のリーダーとして選ばれたのが、第二製造部でオーディオ機器の生産に取り組んでいた森園正彦(前出)である。
両社のジョイント・ベンチャーは、正式にスタートした。そしてアンペックス方式三回、ソニー方式二回の試作研究を重ね、最終的にまとめたのが、世界初のトランジスタ式VTR〈SV‐201型〉である。このVTRは二ヘッド・ヘリカルスキャンタイプ、テープスピード七インチ/秒と、テープレコーダと同じ速度で、当時のVTRの水準を上回る高性能機であった。しかし、二ヘッドでは放送用には向かず、家庭用としては大きすぎた。このためこの機械は陽の目を見ることなく消えていった。
アンペックス社との関係がおかしくなったのは、この前後のことであった。原因はいろいろあった。主な理由は、開発方針に対する見解の相違、仕事の取組み方の違い、アンペックス側の複雑な社内事情などである(アンペックス社が正式に特許権の技術援助契約の打切りを通告してきたのは四十一年二月だった)。
いずれにしても、以後、ソニーのVTR開発は木原を中心に独自路線を突っ走ることになった。最初の成果が、三十七年九月に発表した〈PV‐100型〉VTR(カメラ、モニターTV組合せで、四三六万円)であった。この機械は、いわゆる一・五ヘッド方式で、その頃世界の放送局が使用していたアンペックス方式のVTRに比べ、容積で五〇分の一という大きさ、当時、世界でいちばん小型のVTR装置だった。
完成したVTRは、すぐニューヨークに送られた。開設したばかりの五番街のショールームでデモンストレーションをしたいという盛田の希望であった。需要の少ない日本より、まずアメリカ市場で商売の緒口を見つけようという狙いである。
数日たったある日、ニューヨークの盛田から第二製造部長の大賀のところへ電話が入った。「機械が動かないから、大至急、代わりの機械をもってきてくれ」という内容だった(大賀はドイツ留学から帰国した三十四年九月、盛田の要請でソニー入りした)。
大賀はその手配を森園に命じた。森園は若い技術者と一緒に代替機をもって、アメリカに飛んだ。三十七年一〇月末のことである。
「あの機械は小型になったとはいえ、二台だとかなり大きな荷物になります。重量も、たしか一〇〇キログラムを超していたんじゃないかな。それを客席にもちこんだら、二人分の運賃を取られた。その頃、荷物の通関は羽田じゃなくて、アンカレッジでやっていたんです。だからアンカレに着くとそれをおろし、通関手続きをすませ、また次の乗換え便に乗せなければならない。自分たちの荷物のほかに、そんな重いものを担いでいくんだから、さすがにまいりましたね」(森園正彦)
一七時間あまりの空の旅を終え、みぞれの降るニューヨーク空港に着いた森園は、五番街までタクシーを飛ばす。ロンジンビルの真ん前にあるソニーショールームに着くと、さっそく地下室においてある問題のVTRを調べた。原因はすぐわかった。航空便で送るため、万一のことがあってはと、シャーシーに補強材を取りつけた。ところが、溶接した補強用のリブが何かの衝撃で曲がってしまい、そのため基盤全体がゆがみ、動かなくなったのである。