「盛田君は、若いに似あわず、非常に守備範囲が広く、考え方にフレキシビリティがあって、目のつけどころがいいということでしたね」
これは井深が、盛田とはじめて会ったときの第一印象である。同時に、その言葉は、井深自身にもそっくりあてはまる。性格の違いはあっても、二人の呼吸がぴったり合った最大の原因はそこにある。そのイキは、いまもなお、二人の間に脈々と生き続けている。
にもかかわらず、巷では「井深、盛田不仲説」、あるいは「井深タナあげ、盛田超ワンマン体制」という風説がさかんに取沙汰された。これはオイル・ショック直後の新経営体制移行が発端といわれている。
昭和四十八年一〇月、第四次中東戦争をきっかけに起こったオイル・ショックは、世界経済のあり方を根底からくつがえした国際的な大事件だった。その反動で生じた世界的な物不足やインフレ、社会混乱は、関係者の努力で間もなくおさまったが、その後遺症はしばらく尾を引いた。それは、高度成長がすでに過去のものとなり、減速経済時代に入ったことを意味していた。
こうした環境の変化に対応するため、盛田は、アメリカ式の新経営体制に入ると内外に宣言した。五十一年一月五日のことである。その中身は、盛田が代表権をもつ会長として、経営全般の最高責任者となる。また社長には、副社長の岩間和夫、副社長には大賀典雄専務をそれぞれ昇格させる。そして井深は名誉会長という立場で若手の相談役に徹してもらうというものだった。戦後はじめてという最悪の経済環境の中で、盛田は、なぜこうした経営体制を採用する気になったのか。それは井深、盛田の両首脳が多忙すぎるからである。
事実、昭和四十六年六月、会長職に就任してから井深の社外活動はこれまで以上に活発になった。たとえば、電子工業審議会委員長、科学技術庁発明奨励審議会委員長、発明協会会長、国鉄理事(非常勤)、スウェーデン王立理工学アカデミー外国会員、ソニー教育振興財団理事長、幼児開発協会理事長、IEEEフェロウ、米国ナショナル・アカデミー・オブ・エンジニアリング外国会員など、内外の諸団体の役員を兼務するようになった。一方の盛田も、一年のうち半分は海外の活動という典型的な国際派経済人となる。このためどうしても社業に専念する暇がなくなった。そこで盛田は、ソニー・アメリカでさまざまな経営体験を積み一回り人間が大きくなったといわれる岩間と、CBS・ソニーを黒字に転換させた大賀を、社長、副社長に就任させ、細かい日常業務をまかせることにした。そして会社の運営は岩間と大賀を中心とする経営陣の合議にゆだね、グループ全体の経営方針はCEO(チーフ・エグゼクティブ・オフィサー)である盛田自身が決定する。さらに、それとは別に、井深が主宰する経営諮問委員会(構成員は代表取締役、社外重役)を新たに設け、経営を左右する重要事項、役員人事などについてのチェック機関の役割をもたせる。また井深には研究開発会議の議長として、自由な立場から技術開発の方向づけをしてもらう。これが盛田の考えた新経営体制であった。
一部のマスコミはこれを曲解した。井深を名誉会長にタナあげして、盛田は自分のイキのかかった人脈で経営陣を固めていると推測した。創成期を支えた人たちがリタイヤして、盛田に近い若いスタッフが経営陣に入ってきたからであろう。
マスコミ人やソニーをよく知る業界関係者は、井深、盛田を合理主義のかたまりみたいな人だとよくいう。旧習にとらわれず、ものごとの正しい姿を見つけることに熱心なという意味の合理主義者だ。にもかかわらず、その人柄に対する受けとめ方は、人によってだいぶニュアンスが違ってくる。あけっぴろげな井深に対し、盛田は隙がない。それに、しばしば挑戦的な言動をとるからだといわれている。
それを象徴する話がある。ある経営幹部がリタイヤしたむかしの仲間にこんな話をした。「井深さんのときは、わりとわがままが通ったが、盛田さんの時代になったら衝立てにぶつかったような気がしてものがいえないんだ」と。ところが、この話が回り回って盛田の耳に入った。黙っていられなくなった盛田は、さっそくその幹部を呼びつけ「キミはぼくに何かいいたいことがあるようだね。それをここで聞こうじゃないか」と迫った。その剣幕に恐れをなした幹部は、平謝りに謝って引き下がったそうだ。
逆な話をする人もいる。五十三年、管理者の特別勇退制度ができたのを機会に退職したある幹部の話だ。
「外部の人は、盛田さんを合理主義的なきびしい経営者というイメージをもっているようだが、それは必ずしもあたっていませんね。実は私は、四月にやめた。ところが、七月の末に盛田さんのサイン入りの手紙がきた。あけて見ると、その後、どうされているか、相変わらずお元気のことと思いますが、ついては年俸のベースアップした差額分がある。これはあなたのものなので受け取ってくださいと、三十数万円の小切手を送ってきた。私は特別の退職金をもらってやめた人間、それなのにそこまで気を使ってくれる。こんなこと並の経営者だったら絶対にしないと思いますよ」
つまり、盛田は世間でいわれるほど冷酷な人でないというわけだ。たしかに、盛田は筋の通らない問題に対してはきびしい人かもしれない。だが、理にかなっていれば、それなりに対応してくれる度量をあわせもっている。
それを端的に物語っているのは、中断していた業務用機器の商売を復活させたことだ。前に触れたように、放送局向けのオーディオ機器やVTR機器は「うちはコンシューマ商品しかやらない」という井深の強い意向で、昭和四十一年に手を引いてしまった。しかし、四分の三インチVTR〈Uマチック〉発売以来、状況が変わり、新しい局用機器の開発が急務になってきた。そこでUマチックの量産業務をまかされていた森園(前出)は、ぜひやらせてほしいと盛田に直訴におよんだ。経営陣のなかには反対する人も多かったが、盛田は、森園の言い分を認め再開を許可した。こうして発足した情報機器事業部は、のちにソニーの経営を支える〈ドル箱〉事業部に発展していくのだ。そういう意味でも、やはり、盛田は、井深と並び称されるすぐれた経営者だったといえる。