井深の事業と人間性を語るうえで、もう一つ欠かせない大事な問題がある。いまでは、井深のライフワークの一つになっている幼児教育の普及に心血を注いでいることだ。井深が幼児教育に本格的に取り組みはじめたのは、昭和四十三年のことだが、その腹案はすでに創業時代からもっていた。その辺の事情を井深は次のように語っている。
「東通工をつくったとき、私自身が設立趣意書に書いたのですが、そのなかで『経営が軌道に乗ったら、事業以外のことで世の中の役に立つことをしたい』と謳ったわけです。その後、テープコーダ、トランジスタラジオがあたり、会社が順調に伸びていったので、世の中の役に立つ、何をやるべきか、真剣に考えはじめました」
その結果、理科教育振興のための基金制度を設けることを思いついた。
戦時中の井深の体験にも書いたように、日本の科学技術は欧米に比べ、著しく立ち遅れていた。そのための敗戦であり、さらに敗戦の痛手から立ち直るには科学技術の復興しかないと考えた人びとがいた。井深もその一人であった。
しかし、科学技術を発展させるには、やはり、基本になる理科教育を青少年の間に広く普及させる以外に道はない。その場合、大学や専門学校への助成、援助はすでにいろいろな形で行なわれていた。そこで井深は、当時、誰も気づいていなかった小、中学生を対象に選んだ。小、中学校の理科教育を、おもしろくして、子供のときから科学に親しむ風土をつくっておけば、将来、必ず世の役に立つ人材が育つと考えたのである。いかにも井深らしい発想だった。
こうして昭和三十四年に発足したのが「理科教育振興資金制度」(のちのソニー教育財団)であった。
この制度は、独自のプログラムによって理科教育を楽しくやっている全国の小、中学校の先生方から計画書やレポートを提出してもらい、それを専門家が審査して、優秀な学校に研究や活動のための助成金として三〇万〜五〇万円を出し、応援するというものだった。井深と学校関係者との交流はこれを契機に活発になった。その過程で、井深は興味ある事実を知った。小学校低学年のとき、いい教師がついて、熱心に指導している学校が、非常にいい成果を上げているということである。井深が早期教育の必要性を痛感したきっかけであった。
その頃、倉敷レーヨンの大原総一郎社長から、バイオリンの早期才能教育で世界中の注目を集めている鈴木鎮一を紹介された。そのとき大原は「この方は、たいへんいい仕事をされているので、ぜひ応援して上げてほしい」と、井深に懇願した。
鈴木は明治三十一年、名古屋生まれ。父の政吉は同二十一年に初の国産バイオリンをつくったバイオリン製作者で世界最大のバイオリン工場を設立している。鎮一は一七歳で本格的なバイオリンの練習をはじめ、その後、ドイツ留学。昭和六年に帝国音楽学校の教授に就任した。
弟子には、江藤俊哉、豊田耕児、小林武史、小林健次、浦川宜也、鈴木秀太郎、諏訪根自子など世界一流の演奏家がいる。
「耕児君(豊田)が三歳のとき、私の生徒たちのバイオリン演奏会(日本青年会館)でドボルザークの『ユーモレスク』をひいたとき、ある大新聞は〈天才児現わる〉と派手に書きたてました。『天才という生まれつきの才能はない』といい続けていた私にはたいへんショックで、残念でたまりませんでした」(『どの子も育つ 育て方ひとつ』鈴木鎮一監修、現代の教育を考える会編、原書房)とあるように、鈴木は音楽教育を通して才能教育のあり方を学び、のちに「スズキメソッド」を確立、世界的な反響を呼んだ。戦後は長野県松本に移り、「全国幼児教育同志会」のちの「才能教育研究会」を結成、国際的な活動を展開している。
目の見えない子供にバイオリンがひけるようにしてあげたという逸話があるように、彼にはカリスマ的な要素もあり、人を惹きつける不思議な魅力をもっている。こんなエピソードもある。
バイオリニストとして著名なレオニード・コーガンが松本に演奏旅行に来たとき、突然、手が動かなくなり、コンサート開催が危ぶまれるというハプニングが起きた。たまたま現場に居合わせた鈴木が、触手療法で一時間ほど治療したところ、たちまち回復したという。
「どの子も育つ、親しだい」、これが鈴木の持論であった。しかし、最初、井深は鈴木のその考え方に懐疑的であった。ところが、鈴木との交遊がはじまり、その目覚ましい実績や成果を見聞きしているうち、次第に心が洗われたような気持ちになっていく。ある日、井深との歓談の折、鈴木が思いがけないことをいいだした。
「以前は、バイオリンは四、五歳からはじめるのがいちばんいいと思っていた。ところが、いろいろ教えてみると、どうも様子が違う。子供たちの家族を見ていると、ここに通ってくる子の妹や弟のほうが、必ずといっていいくらい兄や姉の水準を抜いて上手になっている。兄や姉が家で練習するのを見ているせいもあるでしょうが、年齢が低いほど物覚えがいいように思います。そのため兄や姉がいやになってやめていくものがいるんですよ」
この話を聞いた井深は、「先生、どこまで年齢を下げられるか、一つチャレンジしてみませんか」と、逆に提案した。井深が幼児教育に執念を燃やすきっかけであった。
ところが、当時、鈴木の活動をいろいろ批判する人も多かった。現にその方面の権威といわれた国立教育研究所の平塚盛徳所長も「そんな小さな子供に、ベートーベンなんか教えても、芸術性などわかるはずがない。ただテクニシャンをつくるだけのこと」と、批判していた。その平塚とたまたま会う機会があった井深は、真剣になって反論してみたがまったく理解してもらえない。そこで井深は、ある日、平塚を〈スズキチルドレン〉の演奏会に強引に連れ出した。口で説明するより、まず自分の目で確かめてもらおうと思ったのだ。
はじめは、迷惑顔だった平塚も、一五〇〇人もの幼い子供たちが、一糸乱れず合同演奏する様子を見て驚いた。それがいつしか感動に変わっていく。やがて演奏会が終わると、平塚は井深のそばにかけ寄ってこういった。
「井深さん、どうやら私は間違っていたようだ。改めて幼児教育について考え直してみる気になった」
この言葉に井深もすっかり感激して、思わず平塚の手を固く握った。礼をいいたかったのだが、声が出なかったのである。