その後、井深は、周囲のすすめもあって、ソニー・PCLで秘書をしていた現夫人と再婚する。しかし、施設で自活の道を歩みはじめた次女や前夫人に対する償いの念は、井深の脳裏から消えることはなかった。その贖罪に似た気持ちが、幼児教育、身障者問題への傾斜につながっていったのであろう。
事実、二つの問題に取り組む井深の姿勢は、異常ともいえるほど熱がこもっていた。たとえば、昭和四十四年には、財団法人『幼児開発協会』を設立、自ら理事長に就任している。設立の狙いは、鈴木才能教育研究会(スズキメソッド)同様、音楽や語学、絵の早期教育を通じて子供の才能を伸ばすことであった。だが、この仕事に熱を入れて取り組んでいるうちに考え方が変わってくる。そのきっかけは、昭和四十四年の東大紛争事件に象徴される一連の学園闘争問題であった。このとき井深は、教育はなんのためにあるのか、大学はこのままでいいのかなど、自分なりに考えてみた。
まず、大学をよくするには高校教育が問題だ、その高校をよくするには中学校が問題で、中学校をよくするには小学校と、問題の根源をさかのぼり、ついには幼稚園、「いや幼稚園では遅すぎる」という結論に達した。それに関連して井深は「大脳生理学からいうと、生まれたての赤ちゃんは〈配線のないコンピュータ〉と同じ」と前置きして、次のように自説を強調する。
「一〇〇億以上もある脳細胞は無地のキャンバスみたいなものです。この頭脳未熟なときによい刺激を与えるかどうかで、配線、つまり脳を形づくるワク組みのよしあしが決まる。四歳までが六〇パーセント、八、九歳で九五パーセント配線され、一七歳で完成します。だから幼児のうちによい刺激を与えないといけません」
それが幼児開発協会設立に結びついたというわけだ。それも、英才や秀才を育てるためでなく、人間社会で生活していくうえで、頭のいい立派な人間を育成するためだといいきる。それでは説明不足と思ったのかこう付け加える。
「頭がいいというと誤解されやすいが、私の考えている理想像は、他人のいうことを理解し、自分の考え方を相手にスムーズに伝達できる人。もっとわかりやすくいえば、コミュニケーションのよい人間です。そのためには、母親が子供をきびしくしつけて、他人に迷惑をかけてはならないということを教える必要があります。そうすれば、自発的に学習できる人間になる。だが、いまの日本では、才能は先天的なものという考え方が強い。これをなんとか変えたいと、私は一生懸命努力しているんです」
その実験の集大成が、ごま書房から刊行された井深の著作『幼稚園では遅すぎる』(昭和四十六年六月発行)であった。この本は、発売以来版を重ね、現在八五刷と超ロングセラーになっている(五十四年一月、同社から刊行された『0才からの母親作戦』も三五刷と版を重ねている)。
しかも、この本は、イギリス、アメリカ、イタリア、ドイツ、スペインなど、かつて日本が手本にした教育先進国で翻訳され、非常な好評を博しているという。昭和四十九年秋「幼児教育から成人教育にわたって、具体的に貢献した」として、アメリカ・プラノ大学から名誉科学博士号を贈られたのも、その一連の実績に対してであった。
テキサス州ダラスにあるプラノ大学は〈学習革命〉を唱えるユニークな大学である。たとえば、他の大学に入れなかった学生を集め、読書力のスピードをつける勉強法を教えたり、世界各地へ学生を送り出し、〈なんでも見てやろう〉式の教育を施したりするなど、生きた知識を身につけるように仕向ける。また幼児の才能教育に関する研究でも世界的に知られている。そのプラノ大学が、井深に名誉博士号を贈ったのも、幼児教育に心血を注ぐ井深の前向きな姿勢と、研究実績を高く評価したからにほかならない。
そんな井深だけに、日本の教育界の現状には、常にきびしい批判の目を向けている。
「今日の学校教育は、ほとんど進学教育が主体になっている。なかには、上級学校への進学率が教育効果を測定する唯一のメジャーのように考えている教師や父兄もいる。これはたいへんな間違いです。それと、いまの教育内容は、知識と事実の説明、暗記が主体、ということは、教師の模範解答をまる暗記しておけば無難に進学できる。それでも足りずに進学塾に通って受験技術を磨くのが、ごく当たり前のことになっている。これじゃ生徒の自由な発想や創造力など育つはずがありません」
また、こうもいう。
「中教審の〈期待される人間像〉なんて大嫌いです。あれは人間はこうあらねばならないとはじめからワクにはめつけようとしている。だいたい、日本の教育は資格にこだわりすぎますよ」
戦前、日本の教育は〈立身出世〉の有力な手段と考えられていた。国立大学を主体とする高等教育を受けなければ、社会の枢要な地位につけない。これが社会通念であった。日本人の誰もが、とにかく大学を出なければという意識を強くもったのはそれが原因である。
戦後、占領軍の指令で、日本の学校制度は大きく様変わりした。それもどうあるべきかを十分検討する時間も与えられず、アメリカのいいなりに決まってしまった。もっと始末が悪かったのは、大学=学歴、資格=立身出世というむかしながらのパターンをそのまま持ち越したことである。このためよき人間づくりという教育の本質、目的がおざなりになり、知識偏重の教育に走ってしまった。それがそもそも間違いのもとだと井深はいうわけだ。