ところで、根っからの技術者である井深が、なぜ幼児教育にそれほど情熱を傾ける気になったのか。その背景には、理科教育振興の目的のほかにもう一つ理由があった。それには井深自身の家庭問題がからんでいた。
前に触れた通り、井深は、昭和十一年一二月、前田多門の次女勢喜子と結婚した。そして十二年には長女、十五年には次女、二十年には長男が生まれ、三人の子もちになった。やがて戦争も終わり、東京に帰った井深は、世田谷区東北沢で久し振りに親子水入らずの生活をはじめた。その後、思いもかけない不幸なできごとが起こった。井深が可愛がっていた次女が、小学校に通いはじめて間もなく、迷子になったことからわかったものである。それも心身障害だという。それを知ったとき井深は愕然となった。「身内にそういう人がいたこともないのに、なぜこの子が」
もっともその前兆らしきものがあったらしい。井深は自著『子育て、母育て』(昭和六十一年九月、東洋経済新報社刊)で、次のように書いている。
「小学校に入る直前になって、ものすごい消化不良をおこし、下痢ばかりしている。その頃、ソニーが誕生するまでの多忙のときで、私自身、ほとんど育児にかまっていられず、家内から娘の話を聞いても、そのうち治るだろうくらいに軽く考えていた」
「なぜあのとき注意深く気を配ってやれなかったのか」と、井深は自責の念に駆られた。八方手をつくして治療の方法を探した。たとえ、知能は普通の人に劣っても、せめて日常生活ぐらいは自分でできるようにしてやりたいと思ったのだ。だがその願いもむなしく消えた。
やがて、次女は東京・目白の徳川義親邸内にあった『旭出学園』という心身障害児の施設に通いはじめた。この学園は、徳川義親の孫が心身障害児だったためつくられた私立の施設で、東大の三木安直医博が指導にあたっていることでも知られていた。そういう意味では申し分なかったが、生徒はすべて通園が原則なので、どうしてもケアが十分でない。井深は、これをなんとかしなければと、ひそかに心を痛めていた。
日本人はむかしから心身障害者に対し、蔑視したり、好奇の目を向けたがる性向がある。一人前の人間として扱おうとしないのだ。家族も、それがいやさに、ひた隠しにかくそうとする。そのためハンディキャップをもつ人はますます萎縮し、家に閉じこもってしまう。そのため結果的に大きな不幸を招くことが多いのである。
これも国にシッカリした救済策がないからだ。たとえば日本では児童福祉法で、一八歳までの心身障害者は国が手厚く保護すると謳っている。しかし現実はただ場所と食物を与えてケアするだけで、成人になればあとは肉親が面倒をみるという程度の保護策でしかない。心身障害児を身内に抱える親がいちばん心配するのは、成人になってからの生活設計をどうするかということだ。
経済的に恵まれた環境にいるとか兄弟が多ければ、ある程度のケアはできるかもしれない。だが、多くの家庭はそれができず、大きな犠牲を強いられているというのが日本の実情である。これを解決するためには、やはり、親が安心して預けられる完璧な養護施設をつくる必要がある、と井深は考えた。とはいえ、井深個人の力ではどうしようもない。そこで同じような悩みをもつ親に呼びかけてつくったのが、社会福祉法人〈すぎな会〉であった。
すぎな会の施設は、昭和三十九年に完成した。場所は神奈川県厚木市の郊外で、敷地は四〇〇〇坪。ここに四六時中ケアができる立派な施設をつくり、三〇名ほどの障害者が起居をともにできるようになっていた。この施設のもう一つの特長は、親の負担を少しでも軽くするため、いくつかの企業の好意で、簡単な仕事をもらい、働きながら自活できるようにしたことである。
最初、このやり方に反対する人もいたようだ。「ハンデのある人に仕事をさせるのはムリ」という理由からであった。だが、井深は「障害者といえども人間。早い時期からトレーニングを積み、自活の喜びを知るように仕向けることが、障害者にとっていちばん望ましい療養方法」と関係者を説得し続け、日本ではじめての身障者コロニーの実現に漕ぎつけたのである。
こうして、井深は、次女を無事に施設に送り込むことができたが、逆にかけがえのない人を失ってしまう。勢喜子夫人と離別したことである。離婚の真相は定かでないが、たぶん、次女の介護で精神的にも肉体的にも疲れ果て、主婦の座を守る自信をなくしたのではないかと思われる。現に井深も、「私は仕事に追われ、娘の日常の世話は家内にまかせっきりだった。家内はたいへん苦労したと思う」と述懐したほどだ。
その直後、一部の週刊誌が、井深の離婚問題を記事にしようと動きはじめた。だが、真相を知った関係者は取材をためらった。井深の心情がわかったのだ。結局、ある女性週刊誌を除いた各誌は記事の掲載を見合わせた。盛田、倉橋の出版社に対する働きかけもあったが、実際は井深自身の清潔な人柄を知り、記事を書くのを遠慮したのである。