ファンタジーとメルヘンを混同してはいけません。二つは似て全く非なるもの、月とスッポン、聖と俗、僕達にとって必要なのはファンタジーであって、メルヘンなどというたわけたものは、駆逐しなければならないのです。
両者は一般的な概念においては、同じ意味あいにとられがちです。何故ならファンタジーもメルヘンも、非現実、夢想、空想の翻訳があてはまるものであり、あえて分別するならメルヘンは「おとぎばなし的空想」、ファンタジーの一ジャンルに属するということでしょうか。勿論、この定義は全くその通りなのです。しかし人々が「ファンタジー」を口にする時、余りにも「メルヘン」的要素が幅をきかせていることは、大いなる問題です。僕達は故に、ここにファンタジーとメルヘンをはっきりと決別させなければなりません。聖者のみる夢と愚者のみる夢が違うように、両者の示す夢想、空想は原子構造のレベルから異なるものです。メルヘンの内在する「夢」とは、陳腐なヒューマニズムに彩られた現実への活力です。「夢があるから負けないゾ」「オレはいくつになっても夢を追い続ける旅人でいたいっ」。メルヘンは夢に暖かさや優しさを求めます。ほのぼのとしたパステル・ワールド、子供の心が純粋だと信じるバカバカしさ、ピエロが涙を流す想像力の貧しさは、僕達にとって最も軽蔑すべきものです。
ファンタジーのもつ「夢」とは、現実を超えようとする想像力の闘争のことです。僕達は現実に倦み、ファンタジーによって生き返ります。ファンタジーにとって現実とは敵であり、アクセサリーなのです。メルヘンにおいて夢が現実の影であるなら、ファンタジーにおいては現実は夢の影。本末転倒してこそ、夢は独立した硬質の世界観を獲得するのです。夢をみる為には、夢の迷路に迷い込み、もはや現実に戻らない覚悟が必要です。江戸川乱歩、泉鏡花、F・カフカ、金子國義、P・デルヴォー、H・ベルメール、大島弓子……、これらは皆、ファンタジーの住人であり、決してメルヘンとは定義出来ぬ作家達です。ファンタジーを「幻想」と訳するならば、メルヘンはさしあたり「幼想」とでも訳せるのでしょうか。
大島弓子の集大成的作品『綿の国星』は、チビ猫の視線から世界を再構築した少女漫画の終着点です。一瞬メルヘンとおぼしきこの作品は、しかしその根本に乱歩の『パノラマ島奇談』にも通じるユートピアへの強靱な意志を秘めています。全世界をポエジーによって観念世界に変換してしまうギミックな唯美主義。彼女の作品を猫が主人公というだけで同工異曲のメルヘンと混同するようでは、もはやファンタジーの住人たる資格はないでしょう。キティちゃんやミッフィーは、ファンタジーにもメルヘンにもなりえます。選択は貴方次第。もし、貴方がキティちゃんに過剰なフリークスの美を感じ、大量生産のウォーホル的残酷さを背景にしながら「可愛い」と叫ぶのなら、キティちゃんはファンタジーになりえるでしょう。僕達はそうやって、リカちゃん人形を可愛いといい、四谷シモンの人形を可愛いといい、『不思議の国のアリス』のテニエルの挿絵を可愛いといい、ウィトキンの屍体写真さえもを可愛いと誉めそやすのです。
夢みることが乙女の特権ならば、僕達は特権に殉死いたしましょう。もう、二度と目覚めない、植物乙女の出来上がりです。