久し振りにバーネットの『小公女』を読み返してみると、すっかり虜《とりこ》になってしまいました。大金持ちでお勉強が大好きな、誰にでも親切で謙虚な美しいセーラお嬢様は、或る日パパが破産して病死。いきなり哀れな女中暮らしで、食事も満足にさせて貰えず、雑巾のようにこき使われます。雨が降り、お腹はペコペコ、それでもお使いに出された道すがら、セーラは四ペンス銀貨を拾います。ひもじさに負けてそのお金でパンを買おうとすると、道端に乞食の女のコが座っていました。セーラは考えます。「もし、私が公女様だったら、位から追われて貧乏になっても、自分よりもっと貧乏な人に出くわしたら、その人に……分けてあげるわ」。
嗚呼、何と心の優しい少女であることでしょう。だけど、何だかちょっぴり嫌なヤツでしょ。セーラはいつもこうやって、自分の逆境を乗り切るのです。「私が公女様だったら」なんて考えるのは、余りけなげとはいい難いですよね。結構、根性ワルです。だけど、そこがセーラの愛すべき乙女らしさなのです。
根性ワルは乙女の基本。不思議の国のアリスだって、ナボコフのロリータだって、立派な乙女は皆、根性が悪いものなのです。大島弓子に出てくる主人公だって、思い込みが激しく純真なんだけど、最後にはちゃっかり人の恋人を横取りしていたりして、乙女特有の無垢な根性の悪さを発揮しています。天真爛漫さ故の残酷さ、可愛さと共に存在する意地の悪さ。一見相反するこれらのものが矛盾なく包括されることこそが、乙女を天使的存在であらしめる訳です。
自分のことしか考えないからこそ、乙女です。セーラの「公女様だったら」は、自分のことにしか興味を持っていない証拠、実は他人のことなんてこれっぽっちも思っちゃいないのです。常に「私が一番」の乙女学では、自分の世界観に合わないものは排除されるべきです。ですから、嫌いな人の上履きには画鋲を入れるのが当然ですし、趣味に合わない人の着こなしはバカにしたくなります。好きな人以外には、優しくなんてなれません。乙女は心が狭いのです。「女優の××さんは、可愛い顔してマネージャーをイジめるらしいよ」なんて話を聞くと、とたんにファンになってしまいます。謙虚、平等、親切という俗っぽい美徳を超えた硬質の美徳があるからこそ、乙女は平気で意地悪になれるのです。美しく気品さえあれば、意地悪は星の輝きと化すことでしょう。根性ワルであることにネガティヴであってはなりません。あくまで堂々と意地悪を遂行し、決して反省してはならないのです。
根性の悪さは乙女の本能なのでしょう。明日はどんな意地悪をいたしましょう。僕は三度のごはんより、人の悪口が大好きです。