お手紙拝見いたしました。「毎日、死ぬことばかり考えています。どうすれば死ねるのでしょう」。そうですね、どうすれば死ねるのか。「頑張って生きて下さい」と心にもない返信は書けませんし、かといって「お互い、早く死ねるように頑張りましょう」というのも変です。
別に借金がかさんで死ぬ以外方法がないとか、大失恋で生きていく気力もないとか、そういう具体的な逃避ではないですよね。漠然と、死に至りたい。そう、死は常に僕らの憧れなのですものね。僕達の求める死とは、本物の死ではありません。先日、知人のお葬式に参列しました。本物の死、形而下の死には困惑させられます。それは余りに日常的で人間的なものです。「最近の子供は実際の死というものを体験したことがないから、死というものを軽く考えている」と、大人の人から叱られました。全くその通りだと思います。僕達にとって死とは、観念以外のなにものでもないのですから。そして、本物の死に就いては興味なんてないのです。
「ぼんやりとした不安」という芥川龍之介の遺書。ロミオとジュリエットの物語のなんと魅力的なことでしょう。昔の少女小説の主人公は、皆最後は立派に美しく死にましたよね。『愛と死をみつめて』のミコは、不治の病に冒されて純潔のまま死んでいきました。死は僕達を永久の絶対世界へと誘います。B・フォーコンのマネキンのようなオブジェとしての死。そして青臭くナルシスティックなヒロイズムとしての死。溢れる過剰なロマンチシズムは、いつも死によって完結されるのです。
僕達の観念的な死とは、博物館にあるアンモナイトのようだと思いませんか。大切なのは古代の海を泳いでいたイカの化物ではなく、鉱物と化したイメージの残滓《ざんし》。死とは結晶へのプロセスです。乙女は常に死と向かい合わせなものです。赤い大きなリボンも、フリルのブラウスも、ぬいぐるみも、全ては死の象徴のような気がします。何故なら、それは全て生のフェイクだからです。死とは時の止まった世界、僕達が大好きな書き割りのセットも、プラスチックの指輪も、生とは反対の矢印をもった棺桶の中のフィクションなのです。
嗚呼、何時になったら僕達は素敵な死を迎えることが出来るのでしょう。死ねば毎日ご飯を食べなくったって、会社や学校に行かなくったって、嫌いな友人の話につきあわなくったっていいんですものね。石造りの街の教会から弔鐘《ちようしよう》が鳴り響きます。グレゴリオ聖歌の葬列が厳かに通り過ぎます。一回だけ死んで生き返れたら、今すぐ試してみるんですけれど……。こんなことを書いてるようじゃ、暫くはきっと死ねませんね。