大きなリボン、フリルのブラウス、ワイヤー入りのバレリーナ風スカート。百円の指輪、キティちゃんの文房具、大きなクマのぬいぐるみ。まるで白痴の如きロリータ少女。「悩みはないの?」「ない」「不安は?」「別に」「嫌なことがあったら?」「泣いちゃう」。お菓子の家は食べ放題。世界はいつも君の為だけに存在している。呆けた笑顔でクルクルとスケートリンクを滑走するロリータの、それはフェイクな哲学なのでした。
生物の授業の最中、先生はこう教えてくれました。「生命は全て、丸い形から始まる。卵という形を思い出せば、理解出来るね。抵抗力のない個体は外部からの危険を逃れる為、球体を指向する。物理的にも精神的にも、生物の攻撃本能は球形に対して減少する仕組みになっている。丸い形、つまりそれは、もっと寓意的にいうならば可愛い形といっても間違いではない。鶏を考えようか。外部に対して防衛力を持たない順は、卵、ひよこ、鶏だろ。ひよこにとっては、その容姿を可愛く擬態させる、限りなく球体に近づけることで身の安全を確保しようとしているんだ。人間にしても、赤ん坊はどんな赤ん坊でも可愛く球体を指向している。絶滅したドードーは、自然界の法則に於いて抵抗力のなさから淘汰されたことで有名な鳥だが、やはりぬいぐるみのようないかにも愛らしい姿をしていた」。
ロリータはそんな法則に従おうと思いました。大きなリボンは蝶々の擬態。ぬいぐるみに同化し、解読不能な玩具の振りをして生きてゆくのです。それこそが、ロリータを残酷な世界から守ってくれる唯一の方法であったのですから。探偵がバーバリーのトレンチコートを傷つきやすい魂の鎧とするのなら、少女は Jane Marple のデコラティヴな衣装に硝子の細胞を包み込みます。これが乙女のハードボイルド、固ゆで卵主義なのです。踊るスケートリンクは薄い氷の虚実皮膜。その下には忌まわしき現実の地表があること、そして氷は春になれば溶けて消え去ることを、ロリータはちゃんと心得ています。それでも、壊れたゼンマイ仕掛けの鳩時計(秒針だけがまわっています。長針と短針は永久に同じ場所を指し示して)は、スケート靴を脱ぐことが出来ないのです。
愛しき乙女の国を守る為の不可能性への戦い。時間を停止させようとする固ゆで卵。時間より早くスピンを繰り返せば、きっと奇跡は起きる筈です。さあ、百合の軍旗を翻《ひるがえ》し、僕達はまた性懲りもなく、スケートにいそしみましょう。